白磁の人形
花房
【1】
男が、黒い景色の中を歩いていた。
墨を溢したように何処までも濃厚な黒を拡げるその空間は、凡そ現実味を帯びた規則性といったものを感じさせない。全てが煩雑に、無秩序に、時の流れを忘れたかのように、物という物が、黒の中に置き去りにされていた。
そんな黒の中を、男は地に足を付けて、歩いていた。
長い長い路を進むと、やがて円形の空間を思わせる、しかしやはりただ黒いだけの場所に行き着いた。
男は何を思うでもなくその空間に足を踏み入れ、そうして悪戯にだだっ広く、何も無いだけの空白の中心で、足を止めた。
宙を仰ぎ、温度も湿度もない空気を肺一杯に吸い込んで、吸ったのかどうかもよくわからないような、質量を感じさせない肺の中のものを、吐き出す。この場所で、深呼吸という行為はあまり生物的な意味を為さない。やるとすれば、こうして、気持ちを落ち着けたり、切り替えたり、とにかく自分自身の気の持ちようの為に行う行為でしかなかった。
男はそれをわかった上で、息を吸って、吐いた。男の中身もまた、質量は無く、空っぽだった。
一頻りその場で棒立ちをして時間を潰してから、男は背後を振り返る。
と、その男が向いた先に、来るときには視界に入らなかった、見覚えのない物が目に映った。
それは、一脚の椅子に座る、子供の形をした人形だった。
西洋風の花の絵が描かれた布地と、流麗な線を描く意匠の凝った造りの木を以てして作られた、見るからに値の張りそうな椅子と、絹糸のような黒髪を腰まで垂らし、血の気の薄い白磁色の肌を覗かせた、端正な顔立ちをした寂しい人形が、其処に居た。
椅子の上の人形は、白いワイシャツの上から古着のような草臥れた黒いセーターを着込み、布越しでも細いとわかる二本の足を、漆黒の色をしたズボンで隠しており、一見すると男とも女とも取れる見た目をしていた。人形は表情の抜けた顔で、真っ直ぐに前を向いている。だが、その目は開いているだけで、何の色も感情も、まるで感じられないものだった。
「吃驚した。さっきまでそこに居た?」
男は人形に向かって問いかけ、は、と我に返る。
そうだ、人形が喋る筈がない、馬鹿なことをした。
男は少し気恥ずかしい気持ちになり、周囲に誰も居ない事を確認してから、早くこの場を去りたい欲求に駆られる。足早にその場を後にしようと、一歩をもと来た方向に向ける。
が、男の意に反し、半歩間を置いた後、何処からか声が返ってきた。
「居たよ」
見れば、その声は紛れもなく、人形の口から発せられていた。
驚きのあまり、咄嗟に身を竦ませる男だったが、すぐに自分の思い違いに気付く。男が目の前にしているのは、人形ではなく、生身の人間だったのだ。
「ごめん、気が付かなかった」
二重の意味で男が謝罪すると、人形のようなそれは、何の感情も籠らない、先程と全く同じ表情のまま、男に焦点を結んだ。
「大丈夫。元々気配が薄いから、人に気付いて貰えない事が多いんだ」
「そっか」
それは良かったと続けようとして、失言になってしまうであろうことに途中で気付き、男は口を噤む。
人形は淡々と言葉を紡ぐのみであり、人間というよりもいっそ機械だと言えば納得のいく程に、感情と名の付くものの一切を、その態度の全てから感じることが出来なかった。
男は人形のようなそれを、内心で奇妙だと思いながら、この場所で奇妙ではない物なんて無いか、と思い至る。人形のように同化しているだけで、この子もまた、この場所の一部なのだ。
「その椅子、どうしたの?」
男が問いかけると、人形のような子供は一切表情を変えることなく返答する。
「生まれた時からあったんだ、ここに座っているように言われてる」
まるでそう言わなければならないと決められているかのような、自動音声を聞いたかのような濃淡の無い声音だった。
「そっか」
男はそれだけ言うと、人形のような子供の姿を爪先から頭頂まで、ゆるりと観察する。全てが完璧なまでに整った、非の打ち所の無い、美しい見た目をしていた。一つ難点を挙げるとするなら、服装はワイシャツよりドレスか和服の方が似合うだろう、という事だけだった。
人形のような子供は、身長の低さ故に地に付かない足をぷらぷらと前後させ、汚れ一つない黒の革靴を見せびらかすように遊ばせる。男がこの人形のような子供を前にしてから、恐らく初めて目の当たりにする、年相応の人らしい行動だった。
「いつも、此処に居るの?」
男が問うと、人形も淡々と答える。
「大体は、此処に居るよ。たまに席を外してる事もある」
「じゃあ、また明日も来るよ」
男が続けると、人形は男を色の無い目で見据えてから、小さく、続けた。
「うん、わかった」
男は別れの言葉を残して、もと来た路を引き返した。
墨の色をした黒が、二人の存在を留めて、閉じた。
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