夢の紅茶は香り立つ
佐名エル
第1話 夢
しとしと雨が降っている。
習い事の帰り道。
歩いているのは、幼い頃の私と兄だ。
日が暮れるのにはまだ早いというのに、辺りは雲が厚いのかとても薄暗い。
これから起こることを先取りしているように、私の心も暗く、重くなっていく。
向こうからトラックが車道を走ってくる。
ザァと大きく水たまりの水が跳ねたかと思うと、トラックはバランスを崩しこちらへ突っ込んでくる。
私は思わず目をつぶる。
風がすぐ横を通過した。
聞いたことがないような轟音。恐る恐る目を開け、振り返る。
ひっくり返った傘。建物に突っ込んだトラック。鮮やかな赤い広がり。
大切なものが終わってしまった、私はそうただ強く実感した。
――久しぶりにあの時の夢を見たな。
さっきまであんなにリアルだったものが、起きてみれば紛れもなく夢だったとわかるのが不思議だ。
もうだいぶ昔のことで、千歳自身の中では整理がついてると思っていたが、こんな風に時々、色々な形で思い出す。
あの事故の後も両親は変わらず千歳へ愛を注いでくれたと思うし、兄弟の死の重さに押しつぶされるといったこともなかった。
なかったが、影響はあったのかなと思う。
兄の死に理由はなかった。ほんの少しの差で自分が死んでいてもおかしくなかった。
そんな悲観的じみた思いが千歳の心の片隅にはいつもあった。
そして今朝のように時々浮かんでくるのだった。
――起きよう。
そう心の中で言い聞かせ、夢の残滓を振り払うように体を起こす。
目覚めはいい気分とは言えなかったが、窓辺へ行き、カーテンを開ける。
明るい日の光が一瞬目をくらませる。外は夢の中と違って快晴だ。
休日の少し遅めの朝。
よしっ、と軽く気合を入れ、千歳は朝の準備を始める。
トイレへ行き、顔を洗い、歯を磨き、着替えて、洗濯機を回す。
そして朝食の準備する。
昨日パン屋さんで買っておいたパンをフレンチトーストにして、たっぷりのハチミツをかける。
じっくりと焼いたベーコンに目玉焼き。
ベビーリーフのサラダに、甘くてうまみのあるトマト。
イチゴやブドウやブルーベリーなどのフルーツも用意する。
お湯を沸騰させ、専門店で買った茶葉から紅茶も入れる。
決して広くない部屋の小さなローテーブルの上にそれらを並べ、豪華にできたと自画自賛する。
朝食、しかもささやかな贅沢だが、こちらでの贅沢らしい贅沢はこれぐらいしかしていない。
「いただきます」
千歳は手を合わせて、朝食を食べ始めた。
ゆっくりと時間をかけて朝食を食べ終え、片付けなど細々したことを済ませると、千歳はおもむろにベッド脇にある棚から二つのデバイスを取り出した。
それは小さな球を二つに割ったような機械だった。
千歳は自身のこめかみにそれらを一つずつ着けると、再びベッドに横になった。
二度寝をするわけではなかった。
目を閉じる。大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。いつもの通りだ。
しばらくそうやってリラックスしていると、段々と自分と世界の境目がぼんやりとしてくる。
頭の中もぼんやりとしてきて、自分という存在そのものが曖昧になっていくようだった。
やがて深く深く沈んでいくような感覚におそわれる。
それはまるで穴に落ちていくアリスになったような気分だった。
どんどんと、どんどんと落ちていく。
ふいにとても小さな音が聞こえた。虫の羽音のような音だ。
幻聴だろうかとも千歳は思ったが、すぐに聞こえなくなった。
自分が曖昧になっていく感じは続いており、やがて、すべての感覚が落ち着いて消えていった。
不思議と千歳の心もとても落ち着いていた。
感覚がほとんど無くなると、今度は逆に頭の中に光を感じるようになってくる。
ぼーっと光を感じていると、そのうちに周りに風景が浮かんでくるような感覚が次第にしてくるのだった。
千歳は意識して薄く目を開け、辺りを見回してみる。
するとその視界には今まで居た部屋とは全く違う景色の部屋が確かに見えてきていた。
「さあ、お楽しみの時間だ」
そうつぶやいたが、もう現実の部屋でそうつぶやいたのかは千歳にもわからなかった。
21世紀の半ば、突然それは現れた。
DRS――ドリームリアリティシステム。
一部では天才と名高いシャハッド博士というアメリカ人が開発したバーチャルリアリティー機器だ。
もちろんゴーグルやヘッドフォンを着け、センサーを駆使して仮想空間を生み出すという従来からの形の機器もかなり高度なものがあり、すでにゲームなどのコンテンツも人気を博していた。
だがDRSはそれらと全く原理が違い、人間が眠りの中で夢を見るメカニズムを利用しているというのだった。
仮想空間にログインするのにもコツがいったり、そもそもログインすらできない人がいたり、リアリティーの感じ方に大きな個人差があったりと、癖も強かったが、却ってそれが魅力になっていった部分もあった。
DRSは発売の際、大手のメディアでの発表などは一切なかったが、インターネットで一部には強い反響があった。
――最初はあやふやだったけど、何日もやってたら臨場感が半端じゃない。
――DRSすごい。仮想空間を見せられているという壁を一気に超えた。
すぐにそんな感想がインターネット上に散見するようになり、じわじわと利用者は増えていき、DRSは世界へと広まったのだった。
その広まりと特異性の為に、いくつかの強権的な国では禁止されたほどだった。
DRSとの親和性はユーザーの間ではシンクロ率などと呼ばれ、実際に千歳もそういった親和性の強まりを経験していた。
例えばDRSにログインする時にかかる時間も、最初のころに比べるとだいぶ早くなったと感じていた。
真っ黒い壁に、青い光の線が模様のように走っている。
10メートル四方ぐらいの部屋。その部屋の中に千歳は立っていた。
部屋には家具などはなくドアさえなかった。
部屋の中には千歳のほかにもう一人、女性がいた。
女性には猫耳が生えており、外の世界ではイベント以外ではまず見かけない格好をしている。
「こんにちは」
女性が千歳へと近づき、声をかけてくる。そして両腕を千歳の方へ差し出した。
その差し出された手のひらの上に、光でできた小さな塊が現れる。光は、球、立方体、円柱など様々な形となって浮いている。
千歳は手のひらの上の中から十二面体をつまみあげる。十二面体の周囲には輪が現れ、またその輪を左手で何度か回したり傾けたりする。
十二面体の光の塊は、その光の色が青く変わり、そのまま消えてしまった。
「こんにちは、サクラさま」
女性は笑顔で猫耳をピコピコと動かしながら再びそう言った。
自分でそう設定したのだが、猫耳のキュートさに千歳は心を奪われた。初期設定はアメリカ人らしさなのか開発者のシャハッド博士の外見だったのだがすぐ変えてしまった。
そういう千歳自身も外の世界とは少し容姿が変わっていて、こちらの体であるアバターの髪の毛の色は少しくすんだ桜色だった。
ここは、ロビーと呼ばれている部屋った。そして先ほど千歳が行った行動は個人のパスコードを確認するためだ。
サクラというのは千歳のユーザー名だった。本名だが、ありがちなのでわからないだろうと思ってその名を使っていた。
「コモンにお願い」
千歳が短くそう伝えると、女性は、かしこまりましたと受ける。
すぐに、何もない空間に、縦2メートル横1メートルぐらいの四角く切り取られたような光の扉が現れた。
「ありがとう」
軽く感謝を伝え千歳は目の前に現れた扉をくぐった。
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