ユッタの物語

@takane_s

第1話 秘密の鍵

 薄く開いた窓から青白い月明かりが差し込んでいた。カーテンはなかったから、満月の明るい光が薄暗い部屋をぼんやりと照らし出している。ひんやりとした空気が少し開いた窓辺から入り込む。あたりは静かだった。それもそのはずだ。時刻はちょうど時計の針がてっぺんを過ぎたところ。人々はみな眠りについていた。

 ユッタはベッドに膝をついて窓の外を見つめて待っていた。仕事で外に出た父が帰ってくるはずだった。本当ならもうとっくに帰ってきたもいいはずだった。年に似合わぬ疲労を顔ににじませた父親が家の扉を開けて出て行ってから、一週間が過ぎていた。父親が仕事で家を空ける間、3日分の食事は用意されていた。小柄なユッタには多すぎるほどの量が残されていたが、作り置きされていた野菜のスープは4日目には飲み終わってしまったし、小さくちぎって食べていたパンやリンゴなどの果物も昨日までに全てユッタのお腹に収まってしまった。くるくると小さな音を立ててお腹が鳴った。ユッタは料理をしたことがなかった。できることと言えば、お湯を沸かすくらいだ。今日は-と言っても既に昨日だが-朝起きて薬缶に汲んだ水を沸かして味の薄い紅茶を飲んだだけだった。

 外は相変わらず濃紺に包まれていた。家々の壁が月明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がる。ユッタの住む家は町で一番大きな通りから脇道に入って、家と家の間のさらに細い路地を通り抜けた先にある曲がり角の小さな階段を上ったところにあった。入り組んだ道の先にある家の窓からはもちろん華やかな大通りの街並みは見えなかったが、2階にあるユッタの部屋のほんの小さな窓からは、裏路地に面する家々のベランダや、そこにかけてある取り込み忘れた洗濯物、玄関先に放置されたくすんだ色のテーブルや椅子が見えた。

 眠気の残るぼんやりとした思考で窓の外を見ていたユッタは、ふと路地の小さな階段に佇む人影を見つけた。夜の闇を溶かしたような濃い青色の、柔らかそうな薄布を身にまとった人影は、階段に小さく腰を掛けて、膝の上で頬杖をつきながらユッタのことを見上げているようだった。外は闇に包まれている。風に流れてきた雲が月を隠して闇がさらに深くなった。人影は相変わらずこちらを見ているようだった。見えるはずがないのに、こちらを見ている瞳の強い光を感じてしまうのが不思議だった。人影は、もはや優雅に階段に腰掛けてはいなかった。風が強く吹いて、月が再び雲間から顔をのぞかせる。淡い光に照らされて、稲穂のような黄金色の長い髪を風になびかせた少女は、不思議な光彩のその瞳をただひたすらにユッタへ向けていた。陶磁器のような、傷もくすみも無い滑らかな頬に、桜色の唇がちょこんと乗っている。大通りの古道具屋の片隅に、ぽつねんと置かれていた精巧なビスクドールが思い起こされたが、お人形の顔のちょうど瞳の部分にはめ込まれた、ぽっかりとしたガラス玉の空洞と違って、月の光を反射したその瞳は爛々と輝き、もの言いたげな様子で首をほんの少しかしげている姿がどこかまだ幼げだった。

 ついさっきまで、うっすらと靄のようにユッタの頭に霞んでいた眠気は、頭の中に一陣の風が吹いたように吹き飛んでいた。怖いものを見るように、恐る恐る階下の少女を見ると、彼女が今度は怒ったような表情で何か話しているのに気が付いた。小さな桜色の唇が、せわしなく開いたり閉じたりを繰り返している。薄く開いた窓の隙間からそっとうかがってみると、あたりの静けさを憚ってか、押し殺した声で早口に何か言っているようだった。あの少女が一体全体誰なのか、ユッタには見当もつかなかった。絵画の中から飛び出してきたかのような美しい―背格好からしてユッタと同じ年くらいに見えた―少女を一目見れば、忘れるはずがなかった。見慣れない少女の気迫に逡巡しながらも、ユッタの心にはむくむくと抑えきれない感情が沸き上がってきた。好奇心である。好奇心は猫をも殺すといわれているが、こちらはそもそも腹が減って死にそうなのだ。父親が仕事に出てからの一週間、ユッタは言いつけを守って極力外には出ていない。洗濯物を干すためにベランダに出たり、玄関先の小さな鉢植えに水をやったりするぐらいだ。ユッタは自分の年齢を正確に把握しているわけではなかったが、自分がいわゆる同年代の普通の子供たちとは少し違う環境に置かれていることは十分に理解していた。それもあって、人々が寝静まった真夜中に、見ず知らずの少女が窓越しに話しかけてくるという奇妙な状況は、ユッタの心をひどく揺さぶった。早鐘を打つ心臓をどうにかこうにか落ち着かせたユッタの行動は早かった。ベッドから飛び降りると、椅子に引っ掛けてあった上着をひったくり、一目散に階段を駆け下りていく。大きな閂をかけた扉の前で息を整えて、伸ばした手を躊躇う様に一度逡巡させたものの、結局はノブに手をかけてゆっくりと扉を開けていった。ひんやりとした、外の埃っぽい空気が入り込んでくる。開けた先に、先ほどまで窓越しに見えていた少女が立っていた。

「種をどこへ隠した。」

透明なガラスに一筋の光が差し込んで反射したような声色と、目の前の少女が一致しなくて、ユッタは呆けたようにドアを開けた形のままで一瞬固まった。

「このままでは冬を越せそうにない。鍵が盗まれたせいで、私たちは庭に入ることさえもできないときた。」

ビスクドールのようなかわいらしい繊細な顔立ちに相反したはっきりとした口調にユッタはほんの少し慄いた。

「まったくうまく逃げたもんだ。笛吹き男に偶然会ったのはまさに天の僥倖というべきか…。でなければ延々と田舎町を探し回るところだった。」

相対する少女の瞳にははっきりとした怒りが込められているが、ユッタには全く心当たりがなかった。

「ジットンがここにいるのはわかっている。本当は夜が明けるまで待つつもりだったけれど、鍵を開けるというなら話が違う。月の子の名をもってあんたを―」

「あ、あの―ジットンは、ここにはいないんです」

矢継ぎ早に発せられる言葉の節々に目を白黒させながらも、ユッタの耳はようやく聞き覚えのある言葉をとらえることができた。

「ジットンは、つまりは、わたしの父は―うちにはいないんです」

一週間前、仕事で家を出て、それっきり。

だから、あの、あなたが父に用事があるというのなら、私が代わりにお伺いしますが。

というようなことを、つっかえつっかえようやく言い終えた。いつの間にか握りしめていた手のひらにじっとりとした汗を感じながらユッタは返事を待ったが、目の前の少女は凍り付いたように固まっていて、ユッタの言葉は届いていないようだった。

「―ちち?」

たった今その言葉の意味を知ったかのように、きょとんとした顔が浮かんでいる。

「そうです。ジットンはわたしの父です。」

「じゃあ、あんたは彼の―娘?」

「―そうです。娘の、ユッタです。」

「なら、あんたに聞く。ジットンの娘ユッタ。花園の鍵はどこ?」

花園の鍵。また知らない単語が出できた。そういえば先ほども彼女は話していなかったか。鍵を盗まれたと。だがしかし、ユッタには思い当たる鍵などなかった。頭に浮かべた疑問符が顔にも出ていたのだろう。少女はため息をつきながら質問を重ねてきた。

「ジットンはどこに行ったの?」

その疑問こそ、ユッタがこの一週間抱え続けてきた問題だった。ジットンは―ユッタの父親は、果たしてどこへ行ってしまったのか?

「知らないんです。」

「知らないって…」

幼い娘が、父親の出かけた先を知らないわけはないだろう。口にしかけた少女を遮って、ユッタは押し殺した声で叫んだ。

「帰ってこないの…どこに行っちゃったのか、わからないの!」

今更ながら、ユッタの心に体の芯から震えるような寒さと恐怖がにじり寄ってきた。父親が仕事で家を空けるのは珍しいことではない。父一人、子一人の家族なのだから、仕事に出るのは当然だ。だが一週間も家に帰らないなんてことは今まであっただろうか?仕事に出る日の朝、普段通り見送ったはずだった。父が何か特別なことを言っていた記憶もない。ではなぜ?

何かのスイッチが押されたかのようにガタガタと震えて口元を覆うユッタを前にして、目の前の少女の表情は能面のように動かない。

「わからないのなら、探せばいいだろう。」

いっそビスクドールのほうが生き生きとしていたかもしれない。生れ落ちるときに感情を天の上に置いてきてしまったかのように凍り付いた美しさの中、やはりその瞳だけが燃えるように輝いていた。

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