第179話
放課後、柊は呼ばれるままに宗司のオフィスへ向かった。
新学期が始まったとはいえまだまだ暑い。夏休みと大差ないのにどうして学校が始まるのだろうと、今まで十何回も思い続けてきた。
途中で飲み物を買い、飲みながら歩く。
考えることは、やはり咲のことばかりだった。
考え事をしながらでも迷うことなくたどり着ける。宗司のオフィスは、柊にとって家や学校と同じくらいなじみ深い場所になっていた。
インターフォンを鳴らし、宗司がドアを開ける。柊の姿を見た途端、プッと吹き出した。
「……なんすか、いきなり」
「いや、すげー汗だなと思ってさ。悪いな、暑い中歩かせて。ほら入れ、涼しいぞ」
「はい……」
酷暑の外と比べるとかなりマイルドな冷房だが、少しずつ涼しくなることを期待してソファに腰を下ろす。宗司が氷入りの麦茶を出してくれたので、飛びついて一気飲みした。
「っはー、生き返るー」
「どんどん飲め。熱中症になるぞ」
「スポドリ飲みながら来たんですけど、ぬるくなっちゃって」
そりゃそうだな、と頷きながら、宗司は目の前のパソコンのキーボードを叩いている。
いつも通りの他愛無い会話。
しかし自分はこんなことをするために来たわけではない、と、来訪の目的を思い出して顔を引き締める。
「あの、宗司さんに聞きたいことがあるんですけど……」
柊の言葉に、ん? と言いたげな顔を無言で上げる。何気ない風を装ってはいるが、柊が自分に聞きたいことなど一つしかないと分かっていた。
とぼけるのも時間の無駄だと思った。
入力途中だったファイルを保存すると、ディスプレイの電源だけ切って柊の向かいに移動した。
「咲さんのことか?」
「……はい」
「言っただろ、あの人はお前みたいな子どもの手に余るって」
「っ、分かってます。そんな、俺が咲さんの役に立てるなんて、そんなことは、でも……」
好きなのだ、と。
咲の人生に、自分など何の役にも手助けにもならない。親に保護されて生活している子どもで、知識も経験も金も権力もない。
それは、誰に言われなくてもよく分かっていた。
それでも、咲のそばにいたい。ましてや自分のせいで彼女に危害が加えられるようなことはあってはならない。
小出沙紀は、柊にとっての最大の懸念要素だった。
でも、と言ったまま黙り込んでしまった柊を、宗司は目を細めながら眺める。
かつての自分と重ね合わせながら。
今、柊が何を考え、自分をもどかしく思っているか手に取るようにわかる。
だからこそ、柊に咲を任せることは出来ないし、かといって強引に引き離すことも躊躇っている。
咲自身が望むなら話は別だが、きっと咲もそれは望んでいないことも、宗司は気づいていた。
空気清浄機のスイッチをオンにし、煙草に火をつける。柊に煙がかからないよう慎重に吐き出しながら、宗司から口を開いた。
「お前の気持ちは、よく分かるよ」
え、と、柊は顔を上げる。そこには、宗司の見たことのないほど優しい顔があった。
優しく微笑みながらこちらを見つめている。しかし同じくらい、見たことのないほど冷たい目もしていた。
戸惑うような表情を浮かべながら見つめ返してくる柊を、宗司もまた見返す。
あの時自分が出来なかったことを、お前は出来るのか、と。
その覚悟はあるのか、と。
無言のまま、しかし言葉にするよりもはるかに雄弁に、互いの本心を打ち明け合っていた。
宗司の手元から伸びる煙は、時折エアコンの風にあおられて揺らぐ。
外では変わらず蝉が鳴き続けていた。
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