第117話

「どう、って……」

「分かってるよね、柊が咲さんをどう思ってるか、は」


 ナプキンで口を拭ってジュースを一口。まだ食事は途中だが、楓は箸を置く。相手は咲だが、いつも通り変な気を回して有耶無耶にしていたら、二人のためにならないと思った。

 二人の間に入れるのは自分しかいない、という自負が、楓にはあった。


 自分の質問に答えることなく黙り込んでしまった咲に、楓は話し続けた。


「今日さ、あの宇野さん? ておじさんにお昼奢ってもらったときに、少し聞いた。咲さん、プロポーズ断ったんだって?」

「え? プロポーズ? そこまでじゃ」

「違うの? おじさんはそうだって言ってたけど。咲さんと結婚したいのって聞いたら、うん、って」


 咲はまた自分の勘違いに頭を抱えそうになる。あの申し出はそう言う意味だったのかと今理解した。


「それは咲さんの自由だけど、なんで断ったの? バツイチだから?」

「それもあるけど」

「そんなの気にする人に見えなかったな」


 咲は頷く。そして楓が、何もかも見通した上で自分から何かを引き出そうとしていることにも気が付いた。


「そうね、宇野さんは気にしない。気にしてるのは私なの」

「それだけ?」

「え?」

「咲さんがおじさんフッたの、それだけ? バツイチでもいいって言われたのに断ったのは?」


 真直ぐに自分を見据える楓の真剣さに、土曜日の柊が重なる。また逃げ出したくなっていることに気が付いたが、その衝動を押さえつけるように自分の両手を硬く握り合わせる。


(あの時もそうだった。自分の気持ちを問われて、答えられなくて、答えたくなくて逃げたんだ)


「違うよ……、うん、そうじゃない。私は……ダメなんだよ」

「ダメって、何が」

「幸せになっちゃいけないの」


 やっとの思いで本心を言葉にした時、無性に柊に会いたくなった。いつもなら誠を抱きしめたくて涙が止まらなくなるのに、今、咲の心を占めているのは柊だった。


「なにそれ……。なんで? なんでダメなの?」

「それは……」

「息子さんのことだよね」


 次々と咲の逃げ場を塞いでいく楓が、今は別人に見える。


「病気だったんだよね。旦那さんが何言ったか知らないけど、咲さんのせいじゃないじゃん」

「それは……」

「そんなに大事だったの? 死んだ赤ちゃん」


 大事。そう、大事だった。大事という言葉に収めきれないほど、誠を身ごもってからずっと、咲の全てだった。


「ウチに咲さんの気持ちは分かんないけどさ……、じゃあ、そんなに命かけてた赤ちゃん死んで、どうして咲さん生きてこれたの?」


 これは言ってはいけないことだろうと、ずっと思っていた。だがもう言わざるを得ないと、覚悟を決めた言葉だった。楓は深呼吸をして、続けた。


「一緒に死んじゃうことだって出来たじゃん。でもそうはしなかった。今も頑張って生きてる。旦那さんとも離婚してるのに。どうして?」


 咲は、ここが焼き肉屋で、一緒にいるのは高校生の女の子だということも忘れ、大きな渦に巻かれるような感覚に襲われながら、この数年を思い返していた。


「生きてるんだから、幸せになったっていいじゃん。あのおじさんじゃなくてもいいし、柊じゃなくても……いいけど」


 言いながら楓は、ごめん柊! と謝った。ただ、柊の初恋なんかより、咲の向かう先を変えたかった。人の好意を蝶のように躱しながらどこへ行くか分からない咲を、今ここで、引き留めたかった。


「生きてるってことがもう、幸せなんじゃないのかな。だったら……生きてるのに幸せになっちゃいけないって思うのって、変じゃない?」


 返事をしないだけでなく、目の焦点も合わなくなっている咲の隣へ移動して、震えるほど強く握っている咲の手を、上からそっと包んだ。


「幸せになろうよ、咲さん。……死んじゃった赤ちゃんと一緒に、さ」


 楓の言葉が終わるやいなや、咲の両目から涙が零れ落ちて、暫く止まらなかった。

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