仮面の真実
三谷一葉
1、彼女のための楽園
美しい庭園の中で、少年は立ち尽くしていた。
水瓶を傾ける女神の像の噴水。
赤茶色の煉瓦の小道。
花壇には白いアネモネと青いディルフェニウム。
薔薇の木には淡いピンクの花が咲いている。
赤い花はない。母が嫌いだからだ。
この庭園は、全て母の好みに合わせて造られていた。母のための庭園だ。
「アル、アルバート! まあ、そんなところに!」
悲鳴のような母の声。少年は小さく息をついた。
「ここだよ、母さん」
頬を緩めて、目尻を下げる。ふわりと笑っているように見えればいいと思った。
ぱたぱたと小走りに近づく音。淡い空色のドレスに身を包んだ母は、今日も変わらず美しい。
「ああ、アルバート。心配したのよ、あなたは身体が弱いんだから」
────違うよ、母さん。
喉元までせり上がってきた言葉を飲み下す。
代わりに、少年は穏やかな声で言った。
「ごめんごめん。ちょっと外の空気を吸いたくなって」
「冷たい風に当たって、熱を出したらどうするの。さあ、行くわよ、アルバート」
────違うよ、母さん。
大人しく手を引かれながら、少年は胸の中でぽつりと呟いた。
────俺は、アルじゃない。アーサーだ。
三年前、兄のアルバートが死んだ。
生まれつき身体の弱い兄を、母は溺愛していた。
アルバートが熱を出せば徹夜で看病をして、遠くの街に腕の良い医者がいると聞けば自ら馬車に乗り込み出かけて行った。
母は常にアルバートの傍にいた────健康に生まれついた弟のアーサーの世話は、使用人に任せて。
アルバートを失った母の悲しみは深かった。
息を引き取った息子の身体に縋って泣きじゃくり、涙が枯れ果てた後は、アルバートが使っていたベッドに腰掛けて、ぼんやりと外を眺めている。
食事は摂らない。眠っている様子もなかった。誰が話しかけても反応しない。
見る間に痩せ細っていく母の姿を見て、父まで憔悴していった。このままでは長男だけではなく、妻まで失ってしまう。
幼いアーサーに出来ることはなかった。ただ毎日のように、母に話しかけていただけだ。
「母さん」
「────アル?」
アルバートが死んでから、四日目のこと。
母が、初めて他人の声に反応した。
あの日のことを、アーサーは一生忘れないだろう。
死人のように青ざめていた頬が薔薇色に染まり、悲しみに凍てついていた瞳に穏やかな光が宿る。
白く細い手がアーサーに向かって伸ばされて、そっと抱き寄せられた。
「ああ、アル。アルバート。心配したのよ」
母の胸は暖かかった。母に抱かれたのは、その時が初めてだった。
「母さん、僕は」
「大丈夫。大丈夫よ、アルバート。母さんがいるからね」
────母は、狂っていた。
最愛の
だから、残った
アルバートを取り戻した後の母の回復は早かった。
きちんと食事や睡眠を摂り、少しずつではあるが穏やかに笑うようになった。
父は母の回復を喜んだ。母の世話をしていた使用人たちも、ほっと息をついた。
母が生きていてくれるなら、それで良い。
だから、大人たちは、揃ってアーサーのことに目をつむった。
アーサーがアルバートを演じ続けてさえいれば、この家には平穏が訪れるのだ。
(────母さん、俺、アルバートじゃない。アーサーだよ)
今日も、アーサーは胸中の言葉を独りで飲み下す。
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