最終話 手がかり
幡宮停車場の駅広告の一つに「アルパにあるっぱ!」という謎の標語が書かれたポスターがあった。
写真には「アルパ55」という京都タワーのような形の建物が映っているのだが、これは幡宮市のシンボルタワー的なものらしい。
秋実さんと電車に乗る前、帰り際の春華さんを呼び出して二人きりで少し話をすることにした。夜の幡宮停車場は帰宅する人たちで溢れていて、周囲に私たちの会話が聞こえないようするためのちょうどいい防壁になってくれた。ここなら秋実さんには聞こえない。
「何ね、佐藤くん。既婚者口説くな、て」
駅前広場の人混みの中、春華さんはまた調子よく嘯いた。だから私もそのノリに乗ってあげた。
「私みたいな魅力的な男、何年ぶりだったんですか?」
「……何が話ざ?」
不意を突かれたのか、彼女は変な顔をした。
ライトアップされたアルパ55をバックに、私たちは無言で向かい合っていた。
何か、この膠着状態を打開する方法はないか。
私はカマをかけてみることにした。
「今回、駅南に初めて来ましたけど、こっちも色々あるんですね」
「ざっぱ? 佐藤くん、高所恐怖症みてーざし、今度はアルパ55に――」
「ダウト」
大成功。
しめた、と思った。
「今、私わざと『駅』って言いましたけど、なんで意味が分かったんですか? 『停車場』ですよね?」
これを聞くなり春華さんの余裕の笑顔が崩れ、彼女は一旦黙った。
この世界で駅に当たる言葉は「停車場」だったはずである。
最初に幡宮停車場に来たとき、駅員さんが私のこの言葉が理解できずに困っていたことを思い出したのだった。
「朝聞かれた質問をそっくりそのまま返しますけど、春華さんこそ一体どこから来たんですか? 私の言うことが全部ちゃんと分かるなんて、まるでこの世界の人じゃないみたい」
私は改めて春華さんの目を見て尋ねた。
彼女は初め唇を真一文字に結んでいたが、再びフッ、と笑った。
「あいあい合い挽き肉ざ」
春華さんはよく分からない感嘆詞を口にすると、わざとらしく大きなため息をついた。
そして、彼女が再び口を開いたとき。
「駅に来るとさ、これだけたくさん人がいるし、ひょっとしたらこの中に私と同じ世界から来た人がいるんじゃないか、ってたまに期待するときがあるんだ」
それは、ひょっとしたらもう二度と聞く機会はないと思っていた標準語だった。
春華さんは止まらない。
「ただの暇つぶしの妄想でしかないし、自分でもバカみたいだなぁ、とも思ってた。でもまさか、今さら本当に現れるとはね」
そう言って彼女は食い入るように私の顔を見つめた。
「佐藤くん、埼玉出身だったよね? お隣さんじゃん」
俄かには信じがたいが、彼女も私と同じように奈津崎県に辿りついてしまった「異世界人」らしい。
同じ境遇の人を目の前にして聞きたいことは山ほどあったが、私はまずこれを確認した。
「秋実さんはこのこと知ってるんですか? 春華さんが二十年も高野県出身のフリして過ごしてきた、ってこと」
すると、春華さんはちょっぴり悲しそうな顔をした。まるでらしくない表情だった。
「……たぶん、知らないと思う」
「たぶん、ってどういうことですか?」
春華さんは静かに俯いた。
「こっちに来てから、私の出自のことは誰にも言ってなかったから。五年前、ようやく秋実にだけ打ち明けたんだけど信じなかった。それで私、本気で怒っちゃって……」
あの時は結婚前後で色々ドタバタしてて、精神的に不安定だったから、と彼女は付け加えた。
「信じなかった、って……。そんなことあります?」
すると春華さんはなぜか笑い交じりに反論してきた。
「だって、考えてもみてよ。十年来の付き合いの友達がいきなり『私の本当の名前は鈴木ハル。東京から来た』とか言い出したら、イタイでしょ?」
この言葉を聞いて少し考えて、私はようやく理解した。
「……確かに、この世界の人にとってはそうかもしれませんね」
虐待児にありがちなPTSDによる記憶障害、或いは中二病をこじらせた発言に聞こえるのが関の山、といったところか。
「あれ以来そのことについては話してないけど、佐藤くんが来たおかげで秋実のヤツもいい加減気づき始めたんじゃないかな」
春華さんは終始苦笑してはいたが、何やら不安げに腕をさすっていた。
望んでそうした訳ではないが、どうやら私は彼女ら二人の友情に亀裂を入れてしまったらしい。
「……本当の自分を隠して過ごすのって辛くないですか?」
何と声を掛けていいか分からず、私はこんなことしか聞けなかった。
だが、春華さんは気丈に微笑んだ。
「そうでもないよ。もう、そうやって過ごしてきた時間が長くなりすぎちゃって」
彼女はまるで平気そうな口ぶりだったが、それは強がりのようにも聞こえた。
この二十年、彼女はどれほどの孤独に苛まれてきたのだろう。
私なんて、たった一ヶ月ここにいただけでも襲い掛かる異文化に溺れかけているのに。
彼女の心中を察して言葉に詰まっていると、春華さんは小声で意味深なことを口にした。
「……それにまぁ、ウチは身代わりざげん」
「身代わり?」
すると彼女はなんだかバツが悪そうに目を背けた。
「ウチの養い親は子供がいなかったから……」
彼女はそう言って口ごもった。
「そうでしたか」
何か事情があるのだろう。
そう思って、私はそこについて詳しく突っ込んで聞けなかった。
春華さんはジャケットを羽織りなおすと、幡宮市の街の灯りを見つめた。夜空に聳えるアルパ55は青や緑のLEDイルミネーションで彩られ、燦然とした輝きを放っていた。
「ウチも引き取られてからは、できるだけこの世界に溶け込もうと結構努力してきたのよ? 五神送りが大好きな普通の幡宮っ子になろう、って」
今の春華さんはもはや生粋の幡宮っ子にしか見えない。
「でも、普通になるのって大変なのね」
寂しげに呟く彼女の目はどこか虚ろだった。
私が普通になろうと消耗してきたのと同じように、彼女はこの世界の普通に馴染めず苦しんできたのだろう。
「今の春華さんは何パーセントぐらいこっちの人なんですか?」
春華さんはあごに手を当てて考え始めた。
「自分でも分かんない。どっちつかずかも、ね」
受け入れられるものと、受け入れられないもの。
もちろん今でも時間に厳しかったり、ポイ捨てしなかったりと日本人らしさは残っている。だが、彼女が普段見せる何気ない仕草の全てが、彼女の溶け込み具合を示しているように見えた。
「とにかくさ、ウチは佐藤くんよりは先輩ではあるけど、結局は外地っ
春華さんはしょんぼりした様子でそう言った。
しかしなるほど。道理であれだけ私のやることなすことをおかしい、おかしいと言って突っかかってきていたワケか。
「おせっかいな先輩ですね。アドバイスしてくれるっていうか、一言多いっていうか」
「感謝してよ?」
ちょっとふざけてみたおかげで、重かった空気が多少マシになった。
最後に、私はダメ元で一番肝心な質問をした。
「一応聞きますけど、どうやったら元の世界に帰れるか知ってますか?」
当然、春華さんは間髪入れずに即答した。
「知ってたらここにいると思う?」
ですよね。
「やっぱそうかぁー……」
やっと帰れる、って期待したんだけどなぁ。
私は先ほどの春華さんに負けないぐらい大きなため息をついた。
「ここでの暮らしも悪うねーと思うで? 今んウチはそこそこ幸せざし」
春華さんはそう言って慰めてもくれた。だが、あまりにも残念がる私を見かねたのか、彼女は突然思い出したようにこんな話をし出した。
「もしどうしてもまだ帰りたいと思ってるなら、西京に行きな。何か手がかりが見つかるかもよ? あそこは都会だし、それに……」
彼女はそう言って言葉を区切った。
「それに?」
「前に旅行しに行ったとき、たぶんウチらと同じ世界から来たのかもしれない人を見かけたし」
「本当ですか!?」
一縷の希望に私は飛びついた。
しかし。
「
そんなあやふやな情報をもらっても。
私はすっかり落胆して言い返した。
「そんなの、どうやって探すっていうんですか? それに、仮にその人が私たち同じ世界から来たとして、帰る方法を知ってるとは限りませんよね?」
「それでも、賭けてみる価値はあると思うけど? ウチの代わりにその人見つけてここに連れてきてよ。話もしてみたいし」
「そんな横暴な」
「三人寄れば文殊の知恵、って言うでしょ?」
「いや、その理屈はおかしい」
春華さんの提案はいい加減だったし、初め私は全く乗り気ではなかった。しかし後で振り返ると、その人を探してみるのもありかもしれない、とどこかで思っていたのかもしれない。
別れる間際、春華さんはあくまでもこう強調した。
「ウチはここで生きていくことを選んだ。今の暮らしにも満足してる」
この時の彼女はいつになく毅然とした口調だった。だが、
「でも、引き返せるなら引き返した方がいいのかもね。ウチみたく浦島太郎にならない内に」
彼女はそう言って私の肩を叩くと、何か困って
秋実さんの下へと戻った私に、春華さんは遠くから手を振ってきた。
「おい、キタロウ!」
彼女はイヤに高い声だった。
小学生の時いつも周りの子たちにそうやってからかわれたせいで、昔はこれを聞くたびにウンザリしていた。
しかし今、これが何の物まねなのか分かる人が半径数十キロ以内に一人もいない、と考えると寂しい感じもする。
「どうしたんですかー、父さーん」
私は元気よく手を振り返すと、大声でそう叫んだ。
「何ぜんなせ。秋実をよろしゅう頼むで!」
春華さんは笑顔でそう言い残すと、人混みの中に姿を消した。
全く違う世界に飛ばされて二十年も帰ってこれない、なんてどんな気分なんだろう。
窓の外を眺めようにも辺りは真っ暗で、ガラスに反射して見えるのは自分の顔だけ。
帰りの電車の中で、私は秋実さんと横並びに席に座っていた。途中から秋実さんは私の肩に寄りかかって寝ていたが、私は目が冴えてしまってずっと起きていた。
そしてその間、今日あった様々な出来事が頭の中で渦巻いて、意味もなく様々な考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返した。
長い一時間だった。
やがて
「何、きっちゃん……。まー着いてけ?」
眠そうに目をこすりながらむにゃむにゃ言っている秋実さんに私は唐突に切り出した。
「秋実さん、ちょっと話したいことがあるんだけど、いい?」
私は咳払いすると、できるだけ真剣な表情で秋実さんの顔を見た。
秋実さんは私の様子を見て急に背筋をしゃんと伸ばすと、ビックリしたように私を見つめ返した。
「……づ、づったすてん、急に」
今思うと、キスするぐらいかなり距離が近かったように思う。秋実さんは今にも急性心筋梗塞か何かでぶっ倒れそうな様子で、心臓のあたりを右手で押さえていた。
「まだ、心ん準備が……」
秋実さんは何だか完全に誤解しているようだった。
「あっ、いやっ、そういうのじゃないです……」
私は一旦立ち上がると、改めて仕切りなおした。
「実は……、俺はこの世界の人間じゃないんだ」
秋実さんはしばらく無言だった。
「――なんてこと急に言っても信じられないと思うから、一応コレ」
私はそう言って、財布に入っていた運転免許証を見せようとした。こちらに来て以来、しまい込んだままずっと使う機会がなかったが、とうとう役に立つ日が来るとは。
しかし、秋実さんはそれを見ようともせず一言。
「……知っちゅっけ」
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