レモン味のラムネ
中原恵一
第一部 奈津崎県の秋実さん
第1話 幡宮停車場
国内旅行というには、少し遠くに来てしまった。
あれだけ暑かった夏が終わり、九月も終わりに近づいて蝉の声も聞こえなくなったある日のことだった。
嫌にクーラーの効いたオフィスビルの一室で、私は会社に出勤するなり朝一番に上司に切り出した。
「……すみません、鈴木主任。十月六日から少し休まさせていただきます」
私が出したのは、有給申請だった。部長に指示されていた通りの日にちだった。
「うーい」
主任は相変わらず生返事だった。話を聞いているのかいないのか、主任は席に座ったままこちらを見ようともせずにカタカタとキーボードを打つのみだった。大きなディスプレイに隠れて彼の顔が完全には見えないが、眼鏡越しの彼の目には濃い疲れの色が見え、喜怒哀楽の感情がなかった。
何か失敗でもして叱られているような気分になって、私はその場で固まってしまっていた。おどおどする私を見て、主任は苦笑しながらフォローを入れた。
「まぁ、労基が色々うるさいからさ、適当にどっかで休んで」
主任はこちらには目もくれず、ぶっきら棒にそれだけ言った。そして、いかにも私は仕事に追われています、というように再び大きな音を立ててキーボードをたたき始めた。まるで不機嫌という名の見えないバリアにでも覆われているようだった。
ひょっとして今、例えば私が辞職願を出したところで、彼には何も響かないのではないか。
そんな妄想をしながら、私は内心ため息をついた。
「……はい、ありがとうございます」
私は軽く頭を下げて、自分のデスクに戻った。
先日部長からのお達しで、私は久しぶりに有給休暇をとることになった。何でも、近頃国会でブラック企業規制法を厳しくするだのなんだの騒いでいるせいで、うちの会社でも社員を強制的に休ませないといけないことになった、ということらしい。
そういえば、私はこの会社に入ってから休みなんてまともにとったことはなかったし、それについて特に疑問に思ったこともなかった。夜の十二時まで残業しても、休日に上司からの電話一本で無理やり出勤させられても、周りがみんなそういう働き方をしているからそういうものだと思っていた。
空気を読むこと。
集団の一員として、周囲に合わせること。
それが、日本人として普通であること。
気がつけばそういう同調圧力が、知らず知らずの内に私の人生を乗っ取り、私はただ操り人形のように社会から期待される模範や標準を体現するだけの無個性な存在になっていた。
一人の人間ですらこうなのだ。霞が関の人間が机上の空論で何か決めたところで、企業体質なんて簡単に変えられるはずがあろうか。
昼休み、給湯室で昼食のカップ飯にお湯を注いでいたとき、私は急に思い立った。
今日は天気もいいし、外で食事でもするか。
ほんの思いつきで、私はずっと行っていなかったこのビルの屋上へ向かった。これが間違いだった。
階段を上がって屋上へ出る扉のドアノブに手をかけたときだった。
扉のガラス越し、遠くの方に誰かがいるのが見えた。目を凝らしてみると、二人の初老の男が屋上のフェンスの前で煙草を吸っていた。
田中さんと渡辺さんだろうか。
同僚の二人は私より二十歳近く年上だったが、いつもお世話になっていた。
私はドアを開けるなり、二人の方へ向かってゆっくりと歩いていった。しかし彼らの会話の内容が聞こえて、私は振りかけた手を止めた。
「……ったく、いい身分だな。ホント、今どきの若いヤツはサボるのだけは得意なんだから」
田中さんはコーヒーをすすりながら、苦虫を噛み潰したような顔で誰かの愚痴を言っていた。すると渡辺さんも笑い交じりに答えた。
「なんでアイツがどこぞの温泉旅館に泊まってる間に、俺らがアイツの分まで仕事しなきゃいけねえんだよ」
二人は明らかに私の話をしていた。喉の奥まで出かかっていた「おーい」という言葉を飲み込んで、私はその場に静止した。私は無言で拳を硬く握りしめた。
自分も同じ仕事をしていて、現場から人が一人でもいなくなるとどうなるか、というのはよく知っていた。それでも、実際に同僚の口から言われると傷つく。
私がその場で俯いて立ち止まっていると、二人が私の存在に気づいてしまった。
「あ……。佐藤くんか」
いかにもバツが悪いという顔で、渡辺さんが私に話しかけた。田中さんはと言えば、しまったというようにそっぽを向いていた。
三人の間に気まずい沈黙が流れた。
吹きさらしのこの場所は風がよく当たり、立ち尽くしていた私は段々体が冷えてきた。
「……すいません、私だけ休まさせていただいて」
私はとりあえずできるだけしおらしい表情で謝った。無能だった私が新人時代を生き抜くために唯一体得した魔法だった。
二人は口々に謝罪の言葉を口にした。
「いやいや、別に気にしなくていいんだ。後は俺らに任せて、どこでも好きなところ出かけて来いよ。鈴木には俺がガツンと言っとくから!」
「お前、毎日そんなカップ飯とカロリーメイトじゃ元気でねえだろ? リフレッシュも大事だよな」
二人は乾いた声で笑った。はっきりと分かるほど下手な愛想笑いだった。それでも私は彼らに怒る気もなれなかった。
私は社会人の微笑みを浮かべて、先ほどのことは水に流したと言わんばかりに話しかけた。
「今回はちょっと京都の方で英気を養ってきます。お土産に八ツ橋でも買ってきますね」
適当に歩み寄る姿勢を見せると、田中さんはやっと笑顔に戻って私の肩を叩いた。
「おう、たまには羽伸ばして来い! 今度、若者向けの内容をフューチャーする企画をやるみたいだから、帰ってきたらお前も手伝えよ!」
いつもの偉そうな話しぶりに、私はちょっとほっとした。それを見て、渡辺さんも笑った。
彼らとて悪人ではない。だからこそ、曖昧にごまかしたのだ。
三人は笑い合い、そのまますべてが元に戻るかと思われた。
田中さんが去り際に突然、わざわざアドバイスをくれた。
「あ、そうだ。休ま『さ』せてじゃなくて、『休ませて』だ。敬語は正しく使えた方がいいぞ?」
田中さんとしては平常運転だったのだろう。しかし、私にしてみるとせっかくその場の空気をとりつくろったのに全てを台無しにされた気分だった。
田中さんこそ、よく言葉の使い方間違ってるじゃないか。
私は少し顔をしかめて、逃げるようにその場を去った。
そうして迎えた十月六日――
私は東京駅から東海道新幹線に乗って、京都を目指していた。
窓際の指定席に座って、私はあくびをしながら外の景色をぼうっと眺めていた。前日の夜興奮しすぎてしまい、修学旅行前の子供のように夜中まで寝付けなかったのだった。
朝食もまともに食べずに家を飛び出し、駅のホームのキヨスクで買った軽食の入ったビニール袋を片手に、私は朝八時の新幹線に駆けこんだのだった。こうして何の計画性もない旅行がスタートした。
三十歳になって初めてのまともな休暇がこんな調子じゃな。
旅行開始早々、私は自分で自分にあきれてしまった。
「『フューチャーする』じゃなくて、『フィーチャーする』なんだよなぁ……」
窓ガラスに反射した自分の顔を見ながら、私は田中さんのいつもの口癖に突っ込みを入れていた。旅先でも職場のことを思い出してしまって、私は虚しさに駆られていた。
もう乗車してから一時間ほど経っただろうか。この日は朝から天気が悪く、やがて降ってきた雨が窓の反対側から叩きつけていた。延々と続いている緑の野山や茶畑を背景に、私は窓ガラスの表面を流れる雨粒を目で追いかけていた。
思えば、仕事ばかりの人生だった。今の私には打ち込めることもなく、めぼしい趣味もなく、親しい友達も恋人も家族もいない。
私は社会が求める通り、レール通り高校も大学も現役で卒業して、卒業と同時に就職して同じ会社に勤め続けた。
それでも私は、普通になれなかった。
そんな感慨に満たされて、私は三十年の後悔の内に眠気に負けて目を閉じた。
「……あいあい、まーっさえらさっけ」
誰かの声が聞こえて、私は意識を取り戻した。
何分寝ていたのかはっきりしないが、とにかくまだ眠たかったので、私はそのまま目を閉じていた。
しかしその声の主は、新幹線の車内だというのにいやに大声で話を続けていた。
「あれー、あん車む
よく聞くと、まるで奇妙な方言だった。関西弁でも東北弁でもない、とにかく今まで聞いたことのない方言であることは確かだった。
私はようやく重たい瞼を開け、車内を見渡した。すると前の方の席で、一人の中年女性が携帯電話越しに誰かに向かって叫んでいるのが見えた。
どこの田舎者か知らないが、迷惑な客だ。
そんなことを思いつつも、私はとりあえず降りる準備をすることにした。あれから何分経ったのか分からないが、一時間も経てば京都にはついているはずだった。
しかし、スマートフォンで現在の時刻を確認した私は仰天した。
なんともう午後三時半になっていた。
私は慌てて窓の外を見た。すると辺り一面にどこの町だか分からない住宅街が広がっていて、少なくとも京都ではないことは明白だった。私は途方に暮れた。
「しまった……。ひょっとして九州まで来ちゃったか?」
東海道山陽新幹線という名前なわけだし、寝坊して乗り過ごしたら博多まで行ってしまうのだろうか。
でも博多弁ってこんな方言だっけ、と首を傾げながら茫然としていると、今度は車内アナウンスが流れた。
「……次は、ハタミヤー、ハタミヤー。
先ほどと違い、この車掌は標準語のような言葉を話しているのだが、これまた妙なアクセントだった。全体的に尻上がりで、一瞬栃木弁のようにも聞こえる。
それにしても、ハタミヤってどこだろう。
私はとりあえず、次の駅に到着したら一旦そこで降りることにした。
今から引き返せば、夜までには京都に行けるだろう。
ホテルのチェックインを遅らせる電話を掛けるため、私は急いで荷物を持って車両から出ようとした。すると突然、誰かが私に向かって話しかけた。
「やい、うめえ! 聞いちゅるけ?」
振り向くと、そこにはスーツ姿のサラリーマンが立っていた。彼はいらだった顔で私をきっと睨みつけ、片手に持った丸めたスポーツ新聞で私のいた席の方を指し示した。
「あつっ
理解できない方言でがなり立てられ、私は反応に困った。
あつっつった、って何の意味だろう。
そもそも言っていることが分からないので、私は固まったまま苦笑いすることしかできなかった。すると彼は苦々しい顔で、私の席に残されていたゴミを私に手渡してきた。そういえば、先ほど食べたおにぎりの包装ビニールを置き忘れていた。
「クヅぐれぇまくり!」
彼は怒ったようにそう吐き捨てると、どこかへ立ち去っていった。大したことでなくてよかった、と私は少し安心した。
やがて停車駅に近づき、新幹線の速度が次第に落ちていった。私はスーツケースを引いて自動扉の前に立ち、車窓から外を見た。「
「……
私は地理に疎いので詳しくは分からないが、少なくとも新幹線の駅名で「
ほどなくして扉が開き、私は訳も分からないままその
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