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 開道くんを懲らしめたは良いけれど、重苦しく気まずい空気になってしまう。

 本来の目的を忘れちゃいけない。僕は改めて開道くんに呼びかける。


「とにかく、訓練をしよう!」

「……何の訓練ですか? もうフォビアなら自由に使えるのに」

「恐怖症を治す訓練だ」

「どうせ治りませんよ。ずっとこうなんですから」

「後ろに何かあると感じて怖いんだろう? だったら……僕が後ろに付いていれば、どうだろう? 壁でも大丈夫なんだから」


 背後から何か来ると妄想して怖いなら、信頼できる人が背後にいれば大丈夫なんじゃないだろうか? 僕が信用に値するかどうかは分からないけれど。


「取り敢えず、第四実験室まで行ってみよう」


 僕の提案に開道くんは渋々ながら応じる。

 ゆっくりと壁から背中を離して数歩進み出た開道くんの背中に、僕は自然にそっと手を添えた。直後に開道くんが目を剥いて振り向いたので、僕は驚かせてしまったかと謝る。


「ごめん。安心させようと思って」

「いや、そんな気遣いしなくていいですから」


 余計な事だったか……。芽出さんや穂乃実ちゃん達を見て来たからか、僕の中では触れ合っていれば安心できるという先入観があったのかも知れない。親しくもない内からスキンシップを迫っていると思われるのは良くなかった。

 僕は一歩分の間隔を空けて、開道くんの真後ろに付いて歩く。


「実験室がどこかは分かるよね?」

「分かってます」


 開道くんは少し不機嫌に返事をする。子供扱いされたみたいで気に入らなかったんだろうか……。そんなに年が変わらない僕が言うのも何だけど、思春期の男子の扱いは難しいなぁ。


 部屋を出てから廊下の角を曲がって実験室に着く。移動中の数分間、開道くんが後ろを振り向いた回数は三度だけだった。

 誰もいない実験室に入って、僕は開道くんに尋ねる。


「どうだったかな?」

「別にどうって事はなかったですけど」


 開道くんは実験室の壁に背中を預けて、何でもない事の様に答えた。

 強がりなのかも知れないけど、顔色を変えずに言い切れるって事は、それなりに耐性があると思って良いんだろうか?


「全然平気?」

「そうでもないです」


 意外に素直な返事をされて、僕は虚を突かれた。

 開道くんは小声で続ける。


「でも後ろに人がいれば、少しは大丈夫みたいです」

「そうなのかい?」

「いや、知らない人が後ろにいるのは怖いですけど……」


 僕は知らない人じゃないって事だろうか? 出会ってからの短い時間で、少しでも信頼してもらえたなら嬉しい事だ。

 ……いや、でもここまでの僕の行動に信頼してもらえる要素があったか?


「何はともあれ良かった。こうやって少しずつ慣れて行けば、恐怖症も克服できるんじゃないかと思う」

「本当にそう思いますか?」


 開道くんの反応は冷淡だった。半信半疑と言うか、自分を信じられないんだなと僕は感じた。

 少し前までは僕も同じ様な心理状態だったから、人の事は言えないんだけど。


「本当、本当。完全には無理かも知れないけれど、日常生活に支障が無い程度にまでは持って行こう」

「できるんですか?」

「やってみなくちゃ分からない。最初から諦めてたら何もできない」


 開道くんは納得していない表情だった。

 今はそれでも良い。迷っている証拠だから。「迷っている」は「無理だと決め付けている」から、半歩進んだ状態。

 自分で「快方に向かっている」という確信を持てて、初めて迷いが消える。そうなれば恐怖症の克服は近い。


「僕が後ろに付いているから、研究所の中を歩いてみないかい?」

「良いんですか?」

「訓練だって言えば大丈夫だと思う。フォビアが暴走しても僕が付いているし、研究所の外に出る訳でもないし、無理だと感じたら即やめれば良い」

「分かりました」


 素直に返事をしてくれて嬉しい。根は良い子なんじゃないんだろうか?


 それから僕と開道くんは研究所の地下二階を端から端まで歩き、その次にエレベーターで地上一階に向かった。

 一階に出た開道くんは足を止めて棒立ちになる。


「どうしたんだ?」


 慣れない場所で不安なのかと僕は思ったけど、そうじゃないみたいだった。


「……いや、その、明るいなと思って」


 入口や窓から日射しが差し込む地上階は、地下階よりも格段に明るい。電灯の明かりなんかじゃ、太陽には遠く及ばないんだ。


「明るい所は苦手だった?」

「そんな事はなくて……ずっと地下から出られないと思ってたから」


 後ろからだと開道くんの表情は見えないから、どんな気持ちで言っているかは分からない。ただ、声には戸惑いが感じられる。

 このままここで突っ立っていてもどうしようもないから、僕は簡単に一階の施設を説明する。


「正面が出入口。すぐそこに管理人室もある。左側には売店、ジム、大浴場がある。右側は食堂」

「ちょっと行ってみても良いですか?」

「ああ」


 開道くんは恐る恐るリラクゼーションルームに足を踏み入れた。そして周囲を見回しながら、何度も溜息を吐く。


「すぐ左手に見えるのが売店、そしてジム、大浴場」

「あの……やっぱり俺、帰ります」


 開道くんは落ち込んだ声で言った。現状の不自由さを改めて実感させてしまったんだろうか?

 僕は心配して声をかける。


「大丈夫かい?」

「……悔しいです」

「悔しい?」

「俺、今まで無意味な時間を過ごして来たんだなって。これからはちゃんと……まじめに訓練します。そしたら、自由に行動できる様になれるんですよね?」

「フォビアの事は内緒にしておかないといけないけど、ある程度は」

「よし、頑張ります」


 開道くんはやる気になってくれたみたいだ。

 それから僕達は地下の第四実験室に戻って、開道くんの背後恐怖症を克服する訓練を続けた。


 背後に誰かいる気がする、後ろに知らない人が立つと怖い、背後恐怖症。だけど、決して訳の分からない障害じゃない。誰だって背後に知らない人がいるのは気分が良くないだろうし、一人で歩いている時にふと後ろから何か来ていないか不安になって振り向く事だってあるだろう。

 それが病的なまでに過敏になると、不安障害や恐怖症と呼ばれる様になる。結局は程度の問題でしかない。だから克服する事だってできるんだ。そう信じる事が、克服の第一歩。

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