(02-09.5)vs鳥人間

 鮮梨澄巳の足元の影が沸き立つ。そういう展開をぼくは見たことがある。昨日、クリーム色の空間で、ぼくの影もそうなった。籤雨という少女によって、ぼくの頭から引き摺り出された頭痛のコードが、影に刺さるとそういうことが起こる。

 同じことができる人間が、彼女の他にもいるとは思わなかった。しかし、今まさにぼくの目の前にいる。アンチ籤雨的な存在――晴之地がそうなのだと、よくわかった。

 熱せされたホットケーキの表面みたいに、ポツポツと泡が立つ。

「さーあ、おいでませい!」

 晴之地は、鮮梨の首元から立ち上っている黒煙を引っ張る。眠っている女子高生は糸人形のように、釣り上げられる。それを追うようにして、足元の影から大きな三角形が一組現れる――巨大な鳥の嘴だ、と気づいた時にはすでに遅かった。鮮梨澄巳は丸呑みにされる。

 モグモグとやるように、嘴の端が波打った。

 確かな形なんてない。粘ついた、黒い液体のようなものが、そういう形に見えているだけのことだ。鹿人間がそうだったように、黒い霧が集まってものの形に見えていると言ってもいいかもしれない。

 ぼくは鹿人間を見たことがある。

 黒い靄に覆われた、青い炎を目に宿す怪人。

 普通であれば、出会うはずのない存在。昨日の場合、ドーム上の空間はすでにそこにあり、怪人もすでにそこにいた。そういう空間ができる手順とか、そういう怪人が現れる瞬間は、見ていないのだ。直感的に、今それが起こっているのだとわかった。

 ひとの頭痛を象徴する形。

 鮮梨澄巳の場合、それは。

「まあこのままだと、この辺りは沈み込んじゃうんだけどね」と晴之地は言う。「だから、こうして――」彼は嘴に手を伸ばす。「――着ぐるみを脱がしてやる必要がある」

 ジッパーの開くような音。

 輪郭のあやふやな嘴の中から、鮮梨がこぼれた。

 晴之地は彼女をキャッチして、後方に飛び退く。

「気をつけた方がいいよ」

 不自然に膨らみ始めた嘴を示して、彼は言う。

「ここはそいつの場所になる」

 いやな予感がして、ぼくは頭痛のコードを思い切り引っ張る。かなり痛かったが、金属バットがぼくの手元に飛んでくる。意思は伝わった。「どうにかしろ!」とぼくは金属バットに言う。『フィールド形成』とそいつは応えてくれる。

 直後、靄の嘴は破裂した。

 粘性を持った黒い煙が辺りに飛び散る――飛び散るなんてものではなかった。突かれたキノコが胞子を振り撒くように、周囲の空間が穢されていく。

 金属バットが何らかの力場を発生させたらしく、ぼくらを迂回するようにして、煙は展開する。何か指向性があるわけではなかった。ある粒子は適当なところで止まり、別の粒子はもっと先に進む。拡散するに連れ、色は薄らいでいく。

 目を開くと、辺りは黒い網で覆われていた。

 見上げると夜のようなドームの下にぼくはいた。

 外では雨が降っていた。けれども、日没までにはだいぶ早いはずだった。

 意味がわからなくて、ぼくは立ち尽くす。

 少しすると、空は白くなっていく。ドームは崩れない。ただ脱色されているだけのようだった。ただし、かなりムラがある。ある部分は速やかに黒から白へ、透明になっていく。また別の場所は、色を失うことに抵抗しているようにも見える。透明になって、日差しをそのまま落とす場所もある。日差しをその場に留め、次第に焦げついていく部分もある。

 昨日と同じだ。

 クリーム色の空間ができあがる。

 ぼくは自分の足元を見る。影は全方向にばらけている。光の滞りが太陽代わりになっているのだ。これも昨日と同じ。

 そして、ということは。

 ようやく視線を下ろす。

「冗談だろ」

 目の前には、大きな翼を広げる怪人がいた。

 鳥人間。

「正確にはプテラノドンだな」と晴之地の声がした。いつの間にか、二階があったろう高さ、鉄骨の上に座っている。膝の上には鮮梨の頭を乗せたまま。「文字通り、高みの見物をさせてもらうよ。別に放っておいても良いんだけどさ。監視役は必要なんだよね」

 ぼくの目の前で、怪物はグルグルと唸っている。

 よく見ると、翼の他にも腕があり、それが自分の胴体を抱きしめていた。

 地面を見ている。

「鮮梨澄巳から分離されたそいつには、目的がない」と晴之地。「だが、意思みたいなものはある。自分が生まれたことに意味を見出せないってわけだよ。可哀想だよな」

 ぼくは金属バットを構えたまま、じりじりと後ろに下がる。

「――だから、オレが与えてやらなきゃな」


 そいつを殺せ、と晴之地は言った。


「悪いのはそのお兄さんだ」

 とんだ言いがかりだ。

 鳥人間が地面から目を上げた。長く伸びた嘴の奥に、青く燃える目があった。

 反応するように頭の中で痛みが弾けた。乱暴に脳みそが揺さぶられた。右目の奥にズキンと来る。

「やるしかないのか」

 と呟いてみたところで、何か妙案があるわけではない。

 正直なところ、逃げ出したかった。

 鳥人間は咆哮をあげる。

 ぼくは金属バットを握りしめる。

 鹿人間のあのバカでかい角だって叩き折れたくらいだ。

 嘴を砕くことだって、できるはずだ。

「グリップして、スイング!」

 金属バットの背面が火を吐く。ジェット・バットだ。それくらいはする。しかし、手応えは、なかった。打ち砕くべき場所に、そいつはいない。バットは嘴の先を掠める。当然ダメージはない。バットの軌道の下から、グンと脚が伸びてきた。いつか見た、巨大な猛禽類みたいな脚だ。そいつがぼくの腹に当たる。なんで鳥がカポエイラするんだ。

 バキンと音がする。

 すっ飛ばされるぼく。

 二転三転する視界。

 地面が断熱材のように柔らかかったのが幸いした。ぼくは転がった先でうずくまる。このまま黙って寝転んでいれば、鳥人間も諦めてくれたりしないか、と思った。咳を堪えた。口の中に血の味が込み上げてきていた。喉の奥から鉄のにおいが立ち上ってきていて、それだけでも吐き出したいくらいだった。

 翼のはためく音が聞こえた。

 薄目を開ける。

 鳥人間が飛んでいた。開いた嘴の中から、燃える目でぼくを見ていた。ズキンと来る。ぼくの頭痛にズキンと来たのだから、当然そいつにも伝わったはずだ。ぼくは生きていて、鳥人間そいつの目的は果たされていない。

 生きるためにじゃない。

 痛い思いをしたくなかった。

 だから、ぼくは立ち上がるしかなかった。

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