(02-05) 落ちたカレル橋
ぼくらの住んでいる都市の名前は、
人口20万人ほどの街だ。
分割統治されたこともあるので、道西の小ベルリンと言われることもある。東側に流れている大きな川には遊覧船も出ているが、あまり繁盛しているとは言い難い。どちらかと言うと、この都市から北の方の海にまで流れていこう、という学生と水難事故が相次いでいる。
街自体の歴史はそこそこある。ここでしか採掘できない珍しい石があったのだ。その珍しい鉱石を加工することを主たる産業としていた。当時――といっても数世紀も前の話だ――ある領主がこの都市に拠点を置くと決め、城まで建てた。彼が力を入れたのは、科辺川の支流の整備と拡張。領主の城からは、毛細血管のように張り巡らされた水路の上を往き来する船の屋根がよく見えたという。
今となっては、水路のほとんどが埋め立てられ、その上には道路が敷かれている。
鉱石の時代も終わり、情報産業が盛ん、といえば聞こえは良いが、実態としてはコールセンターが多い。企業側は雇用の創出というが、地価と物価が安いだけだ。足元を見られている、という人間もいる。けれども、それだってぼくにとってはどうしようもない。
ぼくが育ったのは、西側の山の方だった。東西を山に囲まれた吹き抜けのような住宅地であり、そこには特筆すべきものが何もない。ほんとうに何もない。南に行けば湖があるが、それだけだ。通過点のような場所。
もし何か一つをあげるなら、まだ生き残っている小さな水路があって、そこでは例の”珍しい石”の欠片が見つかることもあるくらい。今では、科辺とは別の名前を与えられ、川として扱われている。その名前は確か、小学校か中学校の校歌の中にも登場したはずだが、ぼくには思い出せない。
巨大スクリーンに表示されているのは、そんな科辺の全体図だった。
しかし、何かが物足りない。
たとえば、ぼくが通っていたはずの小学校が見当たらなかった。十五年以上も前に通っていた小学校がない――都市全体で見れば、人口は流出の一歩をたどっているわけだから、統廃合されたという線もありえる。違和感があるのは、あるべき場所にあるはずのものがない、ということではなく、あるべき場所そのものがなかったのだ。
ぼくはバス停のマークを数えてみた。最寄りの地下鉄駅(徒歩なら一時間はかかる)から、小学校までは12個ほどだ。9つしかなかった。バス停が廃止になることもあるんだな、と考えたがそれでも、納得仕切れなかった。バス停が廃止になったのなら、その間隔が変わるはずだ。バス停とバス停の距離が伸びるだろうし、ひょっとしたら短くなるかもしれないが――問題は、変わっていない、という点だった。
感覚はそのままに、あるべき場所がごっそり抜け落ちていた。
「これ、いつの地図なんだ?」とぼくは口に出した。
「去年の暮れです」と
「何か変じゃないか?」
よく見れば、あちらこちらにそういう箇所がある。ただ、確証がない。そこに何かがあったような気はするのだが、具体的に何があったかが思い出せないのだ。
「さすが地元の人間は違うね」と籤雨は言う。「もう一月前に戻してくれ」
「わかりました」
オペレーターは手際よく操作をする。
「……あれ?」
また地図に変化があった。バス停を数え直す。11個。増えていた。
「今度は2枚の都市を並べて見てみようか」
籤雨がそう言うと、去年の暮れの地図と、その一月前の写真が左右に並べられる。間違い探しだ。いや、探すまでもなかった。明らかに、去年の暮れの地図の方が情報量が少ない。その一月前の地図の方が詳細だった。じっと見てみると、こちらの方が、ぼくの記憶に近いと思われた。一月の間に都市の容量が減らされでもしたのだろうか。
「どういうことだ」とぼくは呟く。「これ、この街なんだよな?」
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」
「はぐらかすなよ」
「まあ見てなって――ランドマークを
籤雨の指示を滞りなく実行していく。
「仮想地図、出します」
最初に映し出された方――去年の暮れの方の地図が、膨らんでいった。ランドマーク――目印になるようなもの――それが一月前の位置に移動する。地図全体が引き伸ばされていく。そして、去年の暮れの地図には、黒い領域が現れた。
「去年12月25日の状態です」
地図上に置かれた黒い領域。それは科辺の至るところにあった。黒い斑点模様の箇所があり、黒いマーカーで適当に塗りつぶしたような箇所があった。丁寧に円形をしている箇所もあった。それらの中には、ぼくが通っていた小学校があるはずの場所も含まれている。
「籤雨」
「あれが、今この世界で起こっていることだよ。〈存在論的頭痛〉が〈頭痛の種〉を生み、それが充分に成長したところは、ああいう結果になる」
そう言いながら、彼女は黒い領域を指し示す。
「どういうことなんだよ」とぼくは言った。
「”頭痛。そんなとき頭痛を宇宙に投げこめば痛みは和らぐ。だが宇宙に
「ブラックホール?」とぼくは鸚鵡返しにしてしまう。「そんなものが街中にできてるってのか?」
「あくまでも
「あの中、どうなってるんだ?」
「一月前の方でしたら」と柿泉さん。「時間の流れが極度に遅くなっています。あくまで、理論の話ですけど……深度が深ければ深いほど、時間の流れるスピードは遅くなっていきます」
時間の流れるスピード。
「……すみません、よくわからないんですが」とぼくは白状する。
「時間はどこでも一律に流れるものじゃないんだよ。あれはニュートンが便宜的においた設定だ。場所によって、時間の流れが緩やかだったり速かったりする。かのアインシュタイン大先生は、”ストーブの上に手を置いた1分と恋人といる1分”みたいな話をしたそうだけど、まあ過ぎてみればあっという間ってのは、よくある話だよね」
苺大福を開ける籤雨。
「相対性理論の話?」
そういえば、こいつらは昨日の夕方、重力レンズがどうこうとか言っていたな、と思い出す。
「似たような感じ」
「去年の暮れの方の写真で、黒い領域が消えてるのはどういうことなんだよ」とぼくは言う。
「水面に石を落とす時のことを考えてください」と柿泉さん。「一旦は、石の周囲の水も沈んでいるように見えますが、やがては元に戻ります」
「それが起こってるって言うんですか?」
「そういうことになるんだよ」と籤雨。「〈存在論的頭痛〉の落ち込みの度合いが高くなると、周りの空間を巻き込んで、負の方向に沈み込んでしまう。そうすると当然穴が開くわけだけど、そこは水面の例だ――疵が塞がるように、エリアも閉じてしまう。そうすると誰も思い出せない」
籤雨の言うことだ。何かを誇張しているのかもしれない、とぼくは思った。
柿泉さんを見る。
「……そう解釈するしかないんです。先程も言いましたけれど、あくまでわたし達には想像するしかできないんです。だって、あの場所に入ったひとも、出てきたひともいませんし……」
ぼくは額を抑えた。
昨日はバトルで、今日はSFか。
「というか」と籤雨は言う。「お兄さんは体験しているはずだけどね」
「何を?」
「あれに似た空間――〈時間停滞領域〉。昨日の鹿人間の繭は、わりかし、あれに近い状況だったんだよね。一歩手前と言っても良い」
ぼくが金属バットで倒した鹿人間。
クリーム色の空間。
太陽がいくつもあったドームの中、”時間の流れ方が不安定なせいで”――とこいつらは説明していた気がする――空がところどころ焦げついているように見えたことを思い出す。
「あれが、そうなのか」
「そういうことになる」と籤雨は嬉々として答える。
だんだん話が見えてきた。
「”世界の危機”って、そういう日常的なことなのか? こういう、今まで住んでいた場所が消えるっていう?」
と言いながら、しかし待てよ、とぼくは思う。特別な頭痛を放置しておくと、ある場所が地上から消える。理解できないが、話は聞いた。でも、だからどうしたって言うんだ? あんな職場なんて無くなってしまえば良かったんじゃないか――それはぼくの中の頭痛の言葉でもあった。
「残念ながら」
我に帰り、見ると、籤雨はニヤニヤ笑っている。
「話はもっと大きい」
柿泉さんも頷いている。
「お兄さん、プラハに橋は何本あると思う?」
「プラハって、どっかの首都だろ。チェコだっけ」
確かビールが美味しかったはずだ、とぼくは思い出す。大学時代、海外のビールを飲める店に入り浸っていた経験がある。壁には各国の地図や写真が貼ってあり、モニターには現地の有志が撮影してくれたその街の映像が流れていた。観光名所から彼ないし彼女のお気に入りの場所まで――時差さえ考慮に入れれば、この国にいても、リアルタイムでその国を体験できる場所だった。
ぼくはそこでビールを飲みながら、その国の風景を眺めていたものだった。そういう意味では、当然、チェコのプラハにも行ったことがある。橋が有名なら、知らないわけがない。
「そう、その中でも有名なものの一つがカレル橋っていうんだけどね」
「聞いたこともない」
「だろうね」
「”だろうね"?」
「〈存在論的頭痛〉は人工的に作り出せるし、成長させる技術もあるんだよ」と籤雨は言った。「それを任意の場所で爆発させることで、その場所を地図上から消すこともできる。ていうか、実際、使われたこともあるんだよね」
籤雨は続ける。
「それがカレル橋。すでに落ちた橋だ――我々の世界から落ちて、消えてしまった。すでに疵は塞がれ、誰もその橋のことを覚えていない。まあ橋が一本落ちたところで、渡れるなら誰も困らない。だけどね、この事件をきっかけとして、一つのことが明らかになった」
籤雨は続ける。
「〈存在論的頭痛〉は兵器になる。それも世界を終わらせることができる程度のね」
ぼくは、彼女の言葉を思い出す。
――あなたの頭痛は世界の危機を報せるものです。
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