(02-03) 良いニュースと悪いニュース

 今時珍しい、車輪のついた車だった。

 振動はある。ということは、高い車だ。前の職場の同僚が言っていた――車は、高いほど上品に揺れる。その揺れ方が自然であればあるほど、高級な車なのだと。もちろん、上には上があり、車輪で走る車もあるらしい。にわかには信じられないし、公道でも見たことはないが、博物館にはいると聞いた。今日こんにち、タイヤが地面に接しているわけはないから、この振動は専用の機構が演出したもの、ということになる。

 なぜ車輪のついた車に乗っているか。

 ぼくがからだ。

 女子高生を怒らせるとこうなる。

 

・・・♪・・・


 写真を消せと言う女子高生――鮮梨アザナシ澄巳スミミと、写真を消さない籤雨クジサメラチア。

 はたしてお前はどちらにつくんだ、とぼくの中の頭痛は訊いてくる。

 そいつの声を押し流すようにして、ぼくは七本目の大瓶を空けた。裏のラベルに曰く、一本あたり633mlとのこと。大体4.5ℓは飲んでいる計算だ。しかそこは、ぼくこと白波シラナミ冬海フユミ。腐っても、学生時代は酒豪サークル鯨飲会ゲイインカイの主席だった男だ。これくらい、序の口である。

 八本目。どこぞの黒ビール。ここまでくると全てがサプライズになる。


「ソンザイロンテキ」と鮮梨澄巳は口に出す。嫌な味がしたらしく、彼女は眉間をさらに寄せる。いかにも忌々しい様子だったが、彼女は正確に繰り返した。それが少し気になった。”存在論的”なんて言葉、日常生活では滅多に使わない。若者の間では流行っているなら別だ。

 記憶を手繰るように、女子高生は額をつつく。

 共感するように、ぼくの中の頭痛が騒ぎはじめていた。何を興奮することがあるんだ。ぼくはビールを勢いよく流し込む。そうすることで、頭痛が少しでも遠のいてくれれば良いと思った。もちろん無駄だ。こいつはシンクロナイズドスイミングのプロでもある。こと、自分の住まう脳髄液のプールでは、自由にやりたい放題だ。

「あなた、名前は」と女子高生。

「話が早い!」と叫び、歌うように答える「籤雨ラチア、だよ」

「どうりで」

 どうりで? ビールを口に含んでいなかったら、実際に声に出すところだった。籤雨は”話が早い”と言ったが、少し急すぎる。

 籤雨ラチア。

 薄い藤色の髪に、濃い紫色の瞳。ぶかぶかの服は、純然たるグレーを基調とし、赤い色の稲妻模様が入っている。大きい流れが斜めに入っていて、そこから細かく枝分かれしている。小脇に抱えたシャチのショルダーバッグと合わさって、その模様はサメの歯茎も連想させる。食われているのか、それとも食う方かといったデザイン。春には暑すぎる格好にも見えたが、存外通気性は良いのかもしれない。

 そんな少女のことを、一度見て忘れたというなら、そいつは病院に行った方が良い。記憶喪失の疑いがある。上書きされて忘れてしまうほどの規模の大事件が起こったというなら、お祓いに行った方が良い。きっと呪われているだろうから。

 そして、ぼくは呪いの類を信じない。

「お姉さんとは初対面のはずだけどね」と籤雨は言う。

「あんたのことは、よく知らない」と女子高生は言い、果敢にも籤雨を睨んだ。

「”全く”、ではないってことだね」

「厄介なことになるって言われた」

「だろうね。今のところはどう?」

「言われた通り、最悪」

「ふうん、なるほどね」

 籤雨はうなずく。

 やはりこの女子高生、籤雨のことは聞いていたらしい。問題になるとすれば、、という点だ。籤雨ラチアのような存在について、あらかじめ伝えておく必要がどこにあるんだ? ここまでくると、ぼくにはさっぱりわからなかった。黒猫が前を走り去った、烏が三度鳴いた、茶碗が割れた――籤雨ラチアがやってきます。気をつけましょう――どうやって?

 世界はぼくの知らないところでちゃんと進行しているのだと、痛感した。どれかは忘れたが、本にも書いてあった通りだ。今にはじまったことじゃない。解説を求めないのは、ぼくが酔いつつあるからだった。あくまでも進行形だ。まだ、完全には、いや半分すらも酔ってはいない。酔えば思考は立ち消える。頭の中のロンドンの霧と同化してしまう。

 籤雨は笑う。

「写真を撮られたくらいじゃん」

「ただの写真と、盗撮は、違う」

 女子高生は言って、足の間隔を少し広げて、立つ。虚勢を張るにも姿勢は大事だ。

「写真、消しなさい」

「もう遅いんだよね」

 籤雨が手を振ると、携帯端末が現れた。

 カードマジックみたいな感じだった。掌の甲に隠していたカードを、素早く表に出すやつだ。

 その端末には、見覚えがあった。ぼくのものに似ていた。というか、間違いなくぼくのだった。ポケットにもテーブルの上にもない。いつの間にかられていたのだ。しかし、時代は21世紀――プライバシー保護の技術も、十分進歩している。指紋や顔面認証や、その他諸々の機能がある。高度にパーソナライズされている。他人のものは使い物にならない――普通なら。

 そして、籤雨ラチアは普通じゃない。

 なにしろ、人の後頭部に手を突っ込むような少女だ。市場に出回っているレベルのセキュリティも、こいつには敵わないのだろう。携帯端末も彼女の言うことを大人しくきいたらしい。

「すでに送信済みだ」

「あんた――」

「安心しなよ。警察に、じゃないからね」

 そう言いながら――用事は済んだのだろう――籤雨はぼくの方に携帯端末を投げてくる。後ろに目がついていないことくらい、こいつにとっては大したハンデにならない。キャンピングチェアに沈んでいるぼくの足の間に、それは綺麗に収まる。

 鮮梨は明らかにホッとした様子だった。もっとも、それも長くは続かない。籤雨はニヤニヤ笑っている。斜め後ろのぼくにも、こいつが唇の端まで笑っているのがわかった。

 女子高生にとって、状況はいささかも好転していないのだ。そうと気づくくらいには、賢い子のようだった。

「じゃあ、どこに」

「わたし達の所属している組織」短く答える籤雨ラチア。

「それ、答えになってないのよ」

 ぼくもそう思います。

「〈レデイクプルーフ〉――詳しく知りたければ、検索しなよ。国際機関WEISSヴァイスと、この国の気象庁が共同で企画した、ワーキンググループと出るはずだ。実態については、それ以上の情報は出てこないだろうけどね」

「あんたが説明してくれるわけ?」

「わたしにその義務はないし、お姉さんにも知る権利はない。残念ながらね」と言って、「説明がなされるとしたら、それは全き善意から――そういうことになる。でも、喜びなよ、お姉さんを安心させるような内容だ」

 籤雨は胸元に手を入れる。

 ぼくならそこに煙草を探す。そこは昨日の今日で学んだと見えて、籤雨ラチアはペルブロイを取り出さない。空の手を取り出し、肩をすくめる。やれやれと呟いたのがちゃんと聞こえた。

「良いニュースと悪いニュースがある」

 籤雨、それって、こういうタイミングで言うようなセリフじゃないと思うんだよ。という言葉を、ぼくはビールと共に流し込んだ。


 どこからか、フィンの回るような音が聞こえてきた。耳鳴りかとも思った。なんとなしに、女子高生の頭の上を見る。虹は健在だ。そう簡単に消えるものでもない。ただし、どこかいびつだった。ボコボコいっている。沸騰しているみたいに、弧のあちらこちらが、膨らみ、元に戻り、膨らんでいた。ホットケーキみたいだ。

 籤雨の観測を信じるなら、鮮梨の〈頭痛の種ピヨピヨ〉が、そうさせているということになる。

「どちらから聞きたい?」

「良いニュース」

「同感だね」と籤雨は言う。

 さてはこいつ、元々そちらから話すつもりだったのだ。

「良いニュースは、わたし達はしばらくこの写真を警察に通報しないという点だ。材料としてストックしておく。お姉さんは、わたしが信頼に値するかだけを悩めば良い。そしてわたしは嘘をつかない」

「信じられると思う?」

「まったく」首を左右に振る、籤雨ラチア。「まったく、思わないよ。だからこう考えなよ。仮にわたし達がこの写真を警察に提出したからといって、警察が重要性に気づくと思うかい。わたしはそちらの方こそ懐疑的だね。彼らはそれほど優秀ではない。百人に一人はいるかもしれないけどね」

「全然、”良いニュース”に聞こえないんだけど?」

「先がある。重要性に気づかない諸兄諸姉に、一から百まで説明するのは、骨なんだ――その点は、ここにいる飲んだくれのお兄さんが詳しい」

 いきりなり話を振られたぼくは、はたしてどこから説明を引き継ぐべきかと逡巡した。

「簡単に言うと、手間がかかる。一種のプレゼンテーション能力が求められるんだ。パフォーマンスだよ。相手の顔色――ぼくの場合は声だったけど――を伺いながら、相手が理解しやすいように、情報を加工したり整形したりしなければならない」

 お客様が、”わかりました”と言っても、なんの意味もなかった。言質は取れたとしても、それが品質向上を名目とした録音の中に残っていたとしても、それ自体はほとんど何の意味も成さない。大事なのは、お客様自身が納得することだった。問題解決はゴールに思われるが、数ある指標の一つに過ぎないのだ。

 インターネットに繋がらない、という問題があるとする。

 表面的には、インターネットに繋がれば問題は解決する。それで「万事相済みました」となるかといえば、そうでもない。

 もちろん、なかにはそれで納得する利用者もいる。

 一時的であれ、お客様が自分の中で納得できるか、他の誰か――たとえば上司とか――に理由か原理を説明できるか、あるいは実際にインターネットに繋げか、だ。問題が解消する手順は、あくまでも手順にすぎない。問題が解消したときの開放感とか、解決しない場合は理由を説明できるという優越感――電話をかける前と後で何かが向上しているという感覚、それこそが大事なのだ。

「ですから」とぼくは言ってみる。ここから先は即興だ。「警察に通報するなら、そこにはなんらかのアクションが必要になってくる。逮捕とか取り調べとかそういう……何らかの状態変化が必要になってくる。水が氷になったり、水蒸気になったりするように」

 何かが前と変わっていること、そしてその変化を強調すること。

「あるいは、表彰される、とかね」と籤雨。

「ただ通報するだけじゃ割りに合わないってことだな」とぼくは言った。籤雨が面倒がるのも無理はない。「単純な計算だよ。コストに対してリターンが低い。それだったら、質草は手元に残しておいて、チラつかせた方が使い道は――」

 とここまで言って、ぼくははたと思い至る。

 じゃあ、籤雨は何をしようっていうのだろう。

「そう、そこに悪いニュースがあるんだよね」と籤雨は言って、指を鳴らす。「あくまで、お姉さんにとっての、だ。わたし達は、お姉さんが虹を歪めるに至った理由を知っている」

「は?」と女子高生。

「え?」とぼく。

「動機についてはプライベートに踏み込むから、語らないし、知らないフリをするよ。誓ってもいいけど、納得したければ、。それはもう、魚の小骨みたいなものだよ。わたし達が関心を寄せているのは、以下の設問だ――お姉さん、隠れて煙草とか吸っていない?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る