(01-04)

 彼はスーツを着ていた。ぼくが着ているものよりも、ずっと上等なものに見えた。横たわって身動きしない状態でも、ビシッと決まっている。多分、彼の体格に合っているのだろう。雨と泥にまみれ、ゴミクズのように倒れているのに、様になる。

 そういうスーツがあるのだな、と定まらない頭でぼくは考えた。

 いくら待っても、唸り声のひとつもない。そうすると、不安になってきた。ひょっとして、彼は死んだんじゃないか、と思った。あるいは、もともと死体だったのかもしれない。

 たとえば、白い壁の向こうで何かがあり――籤雨クジサメの言葉を信じるなら、それは〈頭痛の種〉との戦いということになる――それで命を落としたのだ。

 どちらにしても嫌なことには変わりなかった。

 籤雨のスカウトに応じるかどうかは決めていない。多分応じないだろう、とぼくは思う。頭痛のせいで自動化された毎日に、ぼくの思考能力は最適化されてしまっている。この人生がいつまで続くのか、ぼくにはわからなかったが、変えるために自ら動く気概もなくなっている。

 それにしても、命懸けの事態だなんて思っていなかったのだ。

 目の前の状況は飲み込みづらく、ぼくは戸惑う。

 助けを求めて籤雨を見上げた。

 こんな少女に助けなんて求めたくはなかった。でもなにかしらの説明が欲しかった。そして、それができるのは、この籤雨ルチア以外にいなかったのだ。

「あれが”遅い”って言ってた対象だよ」と少女は言って、ようやくぼくの視線に気づき、鼻で笑う。「心配しなくても、生きてるよ。どれだけ痛くたって、笑って生きている。そういう奴なんだ、彼という奴はね」

 彼女はいつの間にか咥えていた煙草ペルブロイを離し、声を張る。

「いつまで寝てるんだよ、硝子戸ガラスド!」

 あまり聞きなれない名前だな、とぼくは思った。

 ガラスド、と呼ばれた青年は立ち上がる。右腕が変な方向に曲がっていた。しかしそれを庇う風でもなく、また気にもかけないかのように、ぶらぶらとさせたままこちらへ歩いてくる。手足が妙に長いから、フーコーの振り子みたいに見えた。

 金髪の青年は、ヘラヘラと笑っていた。ピアスまで開けている。総じて、軽薄そうな印象を与える奴だった。年齢はぼくと同じくらいだろう。夜の街の商売をしている人間に見えた。似たような印象の男達を、繁華街の巨大な広告中に見たことがある。

「いやあ、やっちまいました」と彼は言う。

 折れているように見える腕のことだ、とぼくは思った。

「大した〈頭痛の種〉じゃないと思ってたけどね」

 違ったらしい。籤雨もまた、本人以上に折れている腕には無関心らしかった。

「そりゃクジちゃん先輩にしたら、そうかもしれないっすけどね。でもおれ、一応この業界初めてっすよ?」

「きみには素質があるからね」と彼女は言う。

 ”素質”――ぼくに繰り返された言葉でもあった。ぼくはガラスドと呼ばれた彼に同情した。というのも、ぼくに言ったのと同じ意味合いで言ったのなら、彼もまた〈存在論的頭痛〉とやらに苦しめられていることになる、と思ったからだ。

「ああ、お兄さんとは別だよ」と籤雨はぼくを見る。「こいつの場合は、体が異常に頑丈なんだ。お兄さんみたいに〈存在論的頭痛〉を患っているわけじゃないし、わたしみたいに感じ取れるわけでもない。ただ頑丈で、おまけに痛みに鈍感ってだけなんだよね」

 すでに腕が折れているにも関わらず、体が頑丈と言われてもよくわからなかった。

「本来なら、二階建てバスが突っ込んできても大丈夫なくらいには、頑丈だよ」

 そう彼女は補足してくれるが、それでも了解にはほど遠かった。

 今ほど頭がぼんやりしていなかったとしても、きっと彼女の言うことはわからなかっただろう。

 ガラスドは、ペルブロイを半分ほど吸ったところで、ぼくに目を向ける。そして微笑む。それが彼なりの挨拶のようだった。とても自然な仕草に見えたが、天性のものには思えなかった。ぼくの謝罪癖と同じように、ある種の職業の中で培われてきたものに違いなかった。

 そうでなければ、ぼくはきっと嫉妬しただろう。

 嫉妬?

 そんな感情が自分の中にあったことにぼくは驚いた。頭はぼんやりとしている。

「――で、こちらの方は?」

「〈存在論的頭痛〉の被害者。そしてわたしにライターを貸してくれた人」

 ぼくとしては、ほとんど説明になっていないように思われたが、青年にとっては違ったらしい。全てを了解したような調子で「へえ、ライターを! それはそれは」と握手を求めてきた――変に曲がった方の手で。

「いや、あの……」

 さすがに握り返すのは憚られた。

「あ、すんません、手汗ね」

 そういうことじゃなかった。彼はスーツの裾で右手を拭こうとするが、当然うまくいかない。

「あ、これ、もしかして折れてる系っすか」

「もしかしなくても百割、折れてるね」と籤雨は言う。

「百割ってそれ、粉々こなごな骨折じゃないっすか」爆笑する青年である。笑ってでもしなければやってられないのかもしれない。「薄力粉かよ」

 全然意味がわからなかった。ちょっと怖い。

「ふふっ」と籤雨は笑う。

 こいつら二人とも頭がおかしいのかもしれない、とぼくは思った。

「あー、わかりますよ、お兄さん。想像できます。おれもね、慣れてるとはいえ、折れてる腕って気色悪いんすよね。んなわけで、握手はまた次回! 自己紹介だけにしときましょう」

 にこりとまた微笑む。

 痛くないのだろうか。

「おれは、ワタル・ガラスドっていいます。硝子の戸と書いて、硝子戸ガラスドです。前の彼女がウィンドウショッピングが趣味だったんすよ。で、そっから取ったのが、この名前ってわけです。お兄さんは?」

「白波冬海」

「寒そうな名前っすね。由来とかあるんすか?」

「本名だよ」

 こいつらとは一緒にされたくなかった。そして、寒そう、という言葉は何度も言われてきた。

「そっすか。じゃあ、ミミくんですね」

 勝手にあだ名をつけられてしまった。どうでもよかった。どうせ籤雨が目の前からどけてくれて、ぼくの頭痛が治れば、それでこいつらとはお別れなのだ。もう二度と会いたくなかった。ノリが掴めないし、多分こいつらは普通じゃない。ぼくとは違う種類の異常さだ。

 待っている男も来たわけだし、籤雨が早く退けてくれることをぼくは願った。

「で、なんでミミくんはペルブロイを吸ってるわけっすか?」

「ん?」

 白い壁の方を眺めていた籤雨が、硝子戸を見る。

「なんでって、〈存在論的頭痛〉に苦しんでたからだよ。現在進行形だ。困っているひとは放っておけないタイプだからね」

「あー、そういうことですね。了解しました」と硝子戸は言った。「マズいですよ、クジちゃん先輩」

「マズいって何が。きみが排除に失敗したことかい?」

「いやあ、それもそうっすけど。クジちゃん先輩、大事なことを忘れてますよ」

「硝子戸、勿体ぶらない」

「すんません。いえね、ペルブロイって未承認だし、”喫煙可能な者は構成員に限る”って説明会で言われたじゃないですか。一般の人に渡しちゃダメなんですよ。合法ではないわけだし――」

 なんだか雲行きが怪しくなってきてないか、とぼくは思った。

 合法ではない、ということは、やはりぼくの吸ったこれは非合法的なものということになる。大麻の類は所持すら禁じられていなかったか?

「そんな話、あった?」

「ありましたよー」

「どの説明会」

「クジちゃん先輩が寝てたやつです」とそこで硝子戸は気づき、ため息をつく。「あーそっすね、寝てましたよ、クジちゃん先輩。ていうか、全部寝てますもんね」

「わたし、特別だからさ」

「まあ、そうですけどね」

「つまりどういうことなんだ?」

 硝子戸はぼくを見て例の優しい微笑みを見せる。笑顔は何も語らない。ぼくは籤雨を睨みつけた。

「ごめんね、お兄さん。このままじゃお兄さんは犯罪者になっちゃうんだよ」

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