(01-02)

 自分の瞳の色くらい、ちゃんと弁えている。

 明るい茶色だ。その色を自慢に思ったことも、他人と比べたことも特にない。頭痛と乱視と近視のせいで、いつも細めているから、なかなか灯りが反射しない。そのため、死んだ魚のような目に見える。もっとも、これだって、子どもの頃からの話だ。特筆すべきことは、やはりない。

 しかし、そのぼくの眼が、今は紫色をしていて――ライラック色の煙が目の中を泳いでいる。あくまで、鏡の中の出来事だ。視界に不具合はない。顔を上げて、白い壁のような雨を見てみる。それはちゃんと白く見える。一体どのレイヤーで起こっている出来事なのか、眼科医でもないぼくにはわからない。

「科学的な理由はわたしも知らないよ」

 と彼女は行って、コンパクトをしまう。

「お兄さんが知るべきなのは、二つ。まずはその色だけど、有効成分が自然に排出されれば元に戻る。安心しときなよ。で、もう一つは、そういう現象が起きてしまったなら、お兄さんには素質がある、ということになるね。それゆえに、三つ目――おや、増えちゃったね――お兄さんには、このままわたし達の仲間になってもらうからね」

「仲間?」

「同僚でも良いよ。〈存在論的頭痛〉を排除する公的組織のひとつ。〈レデイクプルーフ〉って名前でね。ほら、防水のことをウォータープルーフ、防弾のことをバレットプルーフって言うでしょ。頭痛に対する組織だから、そんな感じ。上のひと達は”ヘデイクプルーフ”にしたかったみたいだけど、なんとなく冠詞のLをつけたんだってさ――あまり興味ないけどね、わたしも」

 気怠げに、新しいペルブロイに火をつける彼女である。

 ぼくは思わず息を止めた。

 彼女の言う通り、それのせいでぼくの目の色が変わったのなら、これ以上吸い込むわけにはいかなかった。

 それを見て、彼女は笑う。

「変なの」

「何が」

「目の色がちょっと変わったくらいで、困るような仕事でもしてるの、お兄さん」

「それは……」

「していないよね。実際にお客さんと会う仕事じゃないし、周りのひともお兄さんのことを気にしていない。頭痛は本物なのに仮病と思われてる始末だ。わけのわからない電話が鳴り響き、早退しても真っ直ぐお家に帰れない。街は明るすぎるし、うるさいからね」

 まるで見てきたかのように彼女は言う。

「どうしてわかるんだ」

「わかるからだよ。わたしは特別なんだ――そういうことにしときなよ」

「超能力とか」

「こだわるタイプ?」

 今回は、ぼくは乗らなかった。こだわる、こだわらないの問題ではない。自分の身に起こっていることが不安だった。目の色が変わる――比喩ではなく、鏡の中では事実そのものだ。

「わたしからすると、”超”でもなんでもない。目が見えて、耳が聞こえるみたいにね。直観が先に立ち、それを説明するために推理推論があるんだよ、わたしの場合。まあ、これもまた重要な話じゃないな。脱線しがちなんだよね、わたし」

 やれやれと首を振って、彼女はぼくを指差す。

「――ところで、そろそろ熱くないのかな、煙草」

 彼女からもらった煙草は、もうほとんど灰になっていた。今時珍しいフィルターなしのもので、指のすぐ近くまで火が迫っている。もともとフィルターがついていないものだ。しかし、不思議と熱くは感じなかった。温度が低いのか、それともぼくの痛覚がいよいよ不具合を起こしているのかはわからなかった。

「お兄さんもまだ慣れていないんだし、お気に入りの携帯灰皿にしまった方が良いと思うよ」

 そんなこと、言われるまでもなかった。

 ぼくはいつも通り、吸い殻を灰皿にしまう。

「気づいていないかもしれないけれど」と彼女は言った。「今のお兄さんは、わたしの言う通りの行動をしているんだよ。主導権はわたしにある。ペルブロイは喫煙者の思考能力を鈍らせる――〈存在論的頭痛〉に囚われている人間は、堂々巡りの思考に陥るからね。まずは、リラックスして、そういうシガラミから抜け出す必要があるわけだ。どう、頭がぼんやりしてきたでしょ」

 確かに、頭にもやがかかっている感じだった。

 

 頭の中でアラームが鳴り響いていた――それは、かなり遠くからのものに聞こえた。濃霧の向こうの汽笛とか、戒厳令下にあるロンドンの「蛍の光」ようだった(そんなシチュエーションがあったのかぼくは知らない)。これは現実の音ではなく、ぼくの頭の中だけの音だった。幻聴とまではいかないが、単なる比喩とかイメージにしては、妙に具体的なのが気になった。

 ぼくは元々想像力が豊かな方ではない。

 だから、今までであれば「嫌な予感がする」の一言で済ませてきた。

 目の前のこの子のような危機感には覚えがある。学生時代には何度かこういう輩に絡まれたことがあった。ぼくの在籍していた大学には、ぼくの知らないカリスマ的な存在がいたらしく、そいつもまた、世界の終焉を喧伝していたらしい。そして、その手先がぼくを勧誘しようとしていた、それだけの話だ。

 未遂で終わったのは、ぼくがうまくと逃げおおせたからだ。

 そう、逃げるに限る。今回もそうすべきだった。嬉々として世界の終焉を語る奴に、ろくな奴はいない。 

 逃げてきた実績もある。躱す方法も心得ている。しかし、それはもはやただの知識にすぎなかった。ぼくの体はすっかり鈍ってしまっていて、機敏さは失われている。ここにあるのは、ただマニュアル通りに応答するだけの自動的な機械にすぎない。

 何しろ目の色が変わっているぼくである。

 鏡の中の自分の目に揺蕩う、紫色の煙のことが頭から離れない。

 煙は文字をかたどって、「いつ逃げるのか?」とぼくに問うてくる。そのタイミングを、ぼくはほとんど逸していた。”ほとんど”――つまり、まだ決定的なラインは超えていない――そう気づいた時、気合いのようなものが浮かんできた。バネが弾けるように、とはいかない。使い捨てカイロがじんわりと温まるように、逃げろ逃げろと声が大きくなっていった。

 その様子をニヤニヤと見守っているこいつのことが、憎たらしく思えてきた。

 しかし、彼女は何も言わない。わかっているよ、と言いたげな表情だった。お兄さんの考えていることくらいお見通しだ、と言うような。そして、そのことにぼくはゾッとする。もはや、決意が温まるのを待っている暇はなかった。

 勢いよく立ち上がる。

 そこにズキンと来た。頭痛だ。

 たまらず、ぼくは座り直した。

「あっあー、ダメだよお兄さん」と彼女は人差し指を振りながら言う。「頭がぼんやりしてきたからって、頭痛が消えて無くなったわけじゃないんだから。ペルブロイにそこまでの効果はない。あくまで、頭痛を丸め込んだだけ。〈存在論的頭痛〉とお兄さんの間に、ふわふわとしたものを挟んだんだよ」

「抽象的すぎる」

「そうかな」

 ぼくはかろうじてうなずいた。頭の中で、釘バットが収縮と膨張を繰り返していた。

「じゃあ苺大福みたいなものだよ。苺が頭痛で、ペルブロイが大福。まあ本性は煙だから、わたあめの方が近いかもしれないけどさ」

 どちらでもよかった。

 もう少しぼくにも優しい説明をしてくれと願った。でも、それはこの少女には望むべくもなかった。得体がしれないだけでなく、怪しげな薬物――このペルブロイとかいう煙草にしても、きっとそうに違いなかった――をぼくに喫煙させるような女だ。

 全ての主導権は彼女にある。

 いや、まだだ。まだ全てが奪われたわけじゃないんだ。

 やはり逃げるに限る。

 

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