ハードボイルドJK
月暈シボ
第1話
「ふう・・・」
高遠ユウジ(たかとう ゆうじ)は男子トイレから出るとゆっくり安堵の溜息を吐いた。限界になりつつあった膀胱の緊張をつい今しがた解いたからである。もっとも、その独特で奇妙な恍惚感をいつもでも味わう余裕は彼にはない。次の授業の開始が迫っていたからだ。
ユウジが先ごろまで受けていた授業は哲学であり、今回は特別に本館とは離れた武道館の柔道場で茶道の作法を学んでいた。いくら形式的な体験学習でも、茶道ならば畳の上で行うべきだからだろう。
正直に言って哲学の授業はこの学園の中では楽な学科だ。テストがないので気楽に受けられるし、茶道にも大した興味はなかったが、授業中に茶菓子を食べられるのは悪いことではなかった。
こうしてユウジにとっては気楽な茶道体験だったのだが、慣れない正座あるいはお茶に含まれているカフェインのためか、授業が半ばを迎える頃には、彼の尿意は限界に近づきつつあった。
そのような理由でユウジは担当教員が終了を告げると同時に、武道館に設置されている男子トイレに駆け込んだのだった。痺れて生まれたての小鹿のようになってしまう足を必死に庇いながら。
地獄から天国、激しい心境の変化を味わったユウジだが、頭を切り替えて足早に武道館の昇降口に向う。この武道館は本館の校舎とは独立した建物なので一旦、靴に履き替えて外に出る必要がある。しかも、ユウジ達高等科第二学年生の教室は三階に位置している。当然ながら横移動だけでなく階段の上下運動もあり時間が掛かった。
もちろん、その辺りの事情は教員側も理解していて、今回に限っては早めに授業を切り上げていた。だから、トイレで長居しなければそこまでタイトなカリキュラムというわけでもなかった。・・・のはずなのだが、ユウジはのんびりと長居してしまったのである。
痺れの残る足で小便器を使用するリスクを避け、座って済ませられる個室を選んだ結果だった。
「あれ・・・?」
そんな出遅れたユウジだったが、昇降口の手前で思わず疑問の声を漏らした。既に本館に戻っているはずのクラスメイトの一人を見掛けたからだ。
「あ・・・」
ユウジとしては意外な状況への独り言なのだが、油断していたためか声が大きかったらしい。外履きを収納する下駄箱を見つめていた女子生徒はユウジに顔を向けると、居心地の悪そうな声を上げた。
「・・・あ、麻峰(あさみね)さん・・・ど、どうしたの?」
女子生徒と目を合わせたユウジは若干の緊張を持って未だに武道館に残る彼女に問い掛ける。何しろ、彼は二学期よりこの杜ノ宮学園に転校した身だ。新しい学び舎での生活は、ようやく一カ月が過ぎようとする頃で、まだ完全にクラスには馴染んでいなかったし、特にこの女子生徒〝麻峰レイ〟はユウジの所属する高等部二学年、いや中等部を含めた学園全体の中でもトップクラスと思われるほど整った容姿を持った美少女だった。
しかも、状況的に自分から声を掛けたようになっている。このまま黙って通り過ぎるのは気が引けた。
「ああ・・・高遠君。やはり君もまだここにいたんだな。恥ずかしいことに靴が見当たらないんだ。ふう・・・」
ユウジの問い掛けにレイは溜息交じりに答える。良質のフルートを思わせる澄んだ声は可愛らしいが、その口調は自嘲的で他人事を語るような客観性があった。良く言えば冷静で落ち着いている、悪く言うなら無愛想で年代掛かっている、そんな印象をユウジは抱いた。
「・・・え、靴がない?」
その可憐な見た目からは想像出来ないレイの語り方を面白い思いながらも、ユウジは昇降口の左右に並べられた下駄箱を順に眺める。
武道館の下駄箱は不特定多数の生徒が使用する前提で設置されている。そのため蓋や鍵はなく、そのまま小分けされた棚に靴を置くだけだ。だから、およそ100人分は収納出来ると思われる下駄箱も軽く見ただけで中身の存在が確認出来た。
中に靴が存在するのは21番と表示された下駄箱のみで、それはユウジの出席番号順から割り振られた場所であり、靴も彼のモノだった。
「・・・本当だ、これは俺のだし」
「そうなんだ。最初は15番の人物、つまり君が私の靴と間違って履いて行ったのかと思ったんだが、明らかにサイズが違う。頭がミジンコ並でもない限りそれはないだろう。それでどうしようか悩んでいたんだ」
「み、ミジンコ・・・いや、そういうわけだったのか・・・」
レイの独特の比喩に気を取られながらも事情を知ったユウジは相槌を打つ。
当事者のレイ本人はそれほど焦る様子を見せていないが、武道館から本館に戻るには一度外に出なければならない。距離はせいぜい30メートルほどだが、間が悪い事に今日は朝方まで雨が降っていて地面が濡れている。靴がなければ覚悟を決めて靴下を濡らすか、裸足で本館まで戻るしかないだろう。
そんなことを思いながらユウジはレイの姿を改めて見つめる。今更ながら彼女は非の打ちどころのない美人だった。女子としては背が高く、肩で切り揃えた髪は艶のある栗色で肌の色素も薄いため、プロのモデルのようだ。
紺色を基調にした学園指定の制服を当然のように着こなしており、スラリと長い脚の下半分を覆うハイソックスが映えている。更にその中間に位置する白い膝と腿は思春期の男子からすれば芸術品にも等しい。そんな美しい足が水たまりで濡れてしまうのは心苦しかった。
「えっと・・・麻峰さん、運動靴はどこにしまってあるの?」
「・・・ああ、取って来てくれるのか。ありがとう! 本館の下駄箱に入れてある。鍵は掛けてない、私の出席番号は30番だ!」
ユウジの提案に、その意図を察したレイは喜色を表わしながら答える。
「・・・わかった! ちょっと待っていて!」
初めて見たレイの笑顔に見惚れそうになりながらも、ユウジは素早く自分の靴を履いて武道館を一旦後にする。学園の生徒は制服の一部である革靴とは別に、体育の授業等で使用する運動靴を最低でも一足は用意している。ユウジはそれをレイの代わりに取って来るつもりなのだ。
「おお、早いな!」
しばらくして戻って来たユウジをレイは笑顔で出迎えた。
「いや、麻峰さんの場所はわかりやすかったからね・・・」
レイから向けられた賞賛の言葉にユウジは照れながら答える。もっとも、実際に彼女の出席番号は二人の所属する二年G組の女子の中では一番目であるため、レイの下駄箱を探す手間は大幅に短縮出来ていた。そんな理由もあり、ユウジは一分程度でレイの元に戻ることが出来たのである。
「とりあえず、ここに置くよ!」
「ああ、ありが・・・まずい、急ごう!」
レイはユウジが置いた運動靴に足を通すが、そのタイミングで休憩時間の終了と次の授業の開始を報せるチャイムが鳴り始める。
「そうしよ・・・おお?!」
もちろんとばかりに頷くユウジだが、その返事は驚きの声に上書きされる。運動靴を得た彼女はまさに脱兎の如き素早さで彼の脇をすり抜けたからである。脚の速さはもちろんだが、狭い空間を抜けるためのバランス感覚も高い水準で備えているに違いなかった。
「・・・いや、俺も急がないと!」
想定外だったレイのフィジカルの高さに圧倒されたユウジだったが、直ぐに自分に言い聞かせるように同級生の後を追う。チャイムが鳴り終えるまで、まだ三十秒近くはある。本気で走れば間に合う可能性は充分にあった。
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