貴方の為のブルー・スピネル
酒井果実
第1話 青色の探偵
私立探偵、碧山小夜子。
東京の都心から幾つか市と区画を跨いだ先、鬱蒼と茂ったセイヨウトネリコの森に邸宅を構える変種、または珍種。
毎朝飲み友から貰ったハーブティーを嗜み、庭のレモンの木をこまめに手入れし、新作の伝奇小説を読み耽る姿はいつ見ても飽きない。
儚い生命の美に一身を注ぐ人物こそが彼女、碧山小夜子という者です。
人里離れた場所を塒とし、探偵という職業に就いている小夜子の人となりは変わっているものの、彼女自身は特に何ら変哲もない人間です。
それ程口座に貯金がある訳ではないが、浪費癖の素寒貧という訳でもなし。他人から金を無心するような怠け者ではないが、かといって勢いから命を燃やそうと躍起になる働き者とも違う。
ほんの些細な興味から始めた競馬で万勝ちしたかと思えば、その金で希少な宝石を買おうともしていました。全くもって訳が分かりません。
ああ、それが大きく関係してくる訳では無いのですが、私が常日頃から愛用する濡羽色のスカーフには。まるで飾り気のない素朴な繊維質に巻かれた胸元には、穏やかな光を浴びて微睡む青蓮の花が咲いているのです。
……ただ、彼女の形を率直に表すのなら。
一に自分の価値観を行動基準に据えて、二にあまねく事象を逆立ててゆく、まるで年端もいかぬ少女のような全能の人でした。
何ともまあ、下手に自意識過剰な部分はともかく、その上昇志向とポジティブな心意気は私も見習いたいと常々思っております。
彼女は探偵以外にも幾つか仕事をこなしておりまして、稀に仕事が被ることがある以外は何とも変わり映えのない一日を少しずつ、全てが一分刻みであるかのような心持ちで過ごしているのです。
私には彼女の心が分かりません。
かち、からん。
と、正面玄関の方角から穏やかな振動が伝わってきた。鍵を開けた音を聞く限り、小夜子が仕事から帰ってきたのだろう。
ああ、些細な音で違いが分かるんです。
「はぁい、ただいま帰りました。仕事頑張りました」
この間の抜けたような喋り口調が小夜子。
彼女は今日も会社のイメージモデルとして立派な役目を果たしたようで、また社員の誰かに奢ってもらったのでしょうか、香ばしく焼けた動物の肉の匂いを全身に漂わせながら帰ってきたのです。
僭越ながらも私は大判の表紙を閉じて、小夜子の元へと駆け寄りました。無論、栞などという些細な存在は全く気にも留めておりませんでした。
「おかえりなさい、小夜子。今日はどうだった?」
「多大なるギャラと人件費を駆使した撮影技術、そして常に浪費されている貴重な時間様の苦労に拍手喝采を贈り届けたいものですねぇ」
今回の仕事が近年稀に見る大凶だったとは、彼女は意地でも言葉にしないようでした。
しかし、類稀なる演技力とこの美貌で仕事をしないアリを黙々と働かせましたけどね、とも言いたげな小夜子が鼻高々とした講釈を垂れる姿を見て、私は心の底からの悦びを感じました。
これほどまでに自己肯定感が素晴らしい様相で、尚且つ他人に対する態度が一貫して清々しい女性はいないのではないだろうか。
いやしかし誰にも猫を被らない辺り、私個人の話として特に小夜子を好ましいと存じます。
例え長年の付き合いである私を相手に据えようとも、彼女の愛嬌で誤魔化しきれぬ言葉の数々が私の心を八つ裂きにしてくれるのです。
普段と同じようにして無造作にソファーベッドに垂らされた艶髪を団子の形に束ね、比較的楽な格好へのお召し替えを手早く済ませる。ほぼ毎日疲れたままの状態で帰宅する小夜子には、夜間の生活能力が極端に下がる傾向にあった。
ええ、きっと私を事務所に雇っている理由の1つでもあるのでしょう。
決してどのような形であれ、心から信頼する為の努力を兼ねて私に甘えてくれているのには違いありません。
「小夜子、今日もアレから依頼が来ている。どうする? やるの?」
その言葉を聞いた途端、小夜子の顔色は秋の空模様になりました。小夜子を一枚の写真に収めることが可能だとしたら、きっと永遠に素晴らしい景色が見られたことでしょう。
金になる仕事と聞けば小夜子は大抵無茶でもやりたがるはずなのですが、今回ばかりは随分と疲労が溜まっているようです。
「あら、1ヶ月きっかりで来るアレの依頼ですか……うーん、そうですか。まあ、依頼人が一度お帰りになったのなら後日連絡をお願いしましょう」
「いやまだ俺帰ってないからな」
「赤星さんってば、帰ってなかったんですね」
「そりゃまあ、俺は住み込みで働く弟子だから勝手に帰る訳にはいかないだろう。月謝代わりの家賃は一銭違わず払っているんだから、仕事をしなければ意味が無い」
「どうにもあなたは生真面目な人ですねぇ。本来その調子でゆっくり休んでくれるのなら問題はありません。しかしね、残業され続けたら事務所を運営する側の人間が困るんですよ、分かりますか。シフトコントロールも何も楽ではないんです」
小夜子はこのようにパーソナルスペースが広いものの、何故か距離感が近い。
浅く広く、そして適当に「あ、今日の約束忘れたな。まあ後で連絡すればいいや」程度のお付き合いが、彼女にとって一番最適なコミュニケーションだと思われる。
ただし業務中には適用されない。
さて、今しがた私と小夜子の会話に途中参加した人物の話をば。
現在進行形で甘ったるい匂いの紫煙を吹かす男。それが彼、赤星秀和。人付き合いを苦手としているのが大きな特徴です。
ああ、私の説明に他意などございません。
元は警視庁刑事部捜査一課に所属していたエリートでしたが、先日のとある事件にて1年以上は復帰が出来ない程の精神的重傷を負ったらしく、現在はうちの事務所に弟子を取る形でそっと置かれいているとのことです。
……もちろん私には何も分かりません。
彼の実歴も、人となりも、今までの生き方も全て知る必要はないのです。無論、あの子がそこまで言うならばと一応納得はしております。
前まで彼女が使っていた赤いガラケーの同色同機種を持っている時点で、彼女に信頼を置かれていることは間違いありません。
私達3人には共通点が複数存在する。
今現在では既の事実であり、どう足掻いても隠しきれない事実。
とある事件に巻き込まれ、私達は何かを一つずつ失ってしまいました。
たかが一つ、されど一つ。
何かを失った者同士、その事件の全貌を探る為に作られたのが碧山探偵事務所という機構でした。
そして2つ目。
私達は表社会から爪弾きにされた、異形の怪物でもある。
あとの3つ目は……また機会のある時にでもお話しましょうか。
貴方の為のブルー・スピネル 酒井果実 @sakaikudami
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