カカの書塔 八

 そこはいつもと変わらない深い雪の中だった。

 大きな岩が一つあり、積もる雪に潰れそうな小さな家が一軒建っている。

 その扉の前には黒い鳥がじっとして、お婆さんの最期を見守っている。

 いつもと変わらない世界。けれどそこにトイはいない。


「本当にいないんだな」

「そうですね」


 もうトイは出迎えない。喜ばしい事だとは理解しているが、それでもシタは寂しさを拭いきれなかった。

 どちらからともなく、ザクザクと雪を踏み歩き出す。

 この世界にある物と言ったらしょっぱい雪か樹氷か彗星石の石柱群、それからお婆さんの家くらいのものだ。


「どこを探した?」

 シタは聞く。

「外をひと通り。スコップを拝借して雪かきもしましたが、この辺りでは見つかりませんでした」

「じゃあ少し遠くまで行くか」


 この塩の雪の降る終焉の世界にも、まだ黒い獣たちはいる。

 塩は毒のように彼らのデロデロとした心臓に染みて、いずれ勝手に倒れる。

 そうだとしても他に生きている人もいない、店もなければこんな銀世界では畑をやる事もできない。そもそも命が生きるのに不適切な世界なのだ。


 この最終巻に来る時はだいたい探し物ではなくトイと話す事が目的だったので、あのお婆さんの家の見える場所を離れるのは初めてだった。


 少し歩くと、樹氷の林の奥には湖があった。魚が泳いでいた格好のまま氷漬けになっており、その氷の上にも雪は積もっている。

 二人は注意深く氷の中に契約書を探したが、見当たらないのでさらに奥に進んだ。


 凍てつく世界の中で懸命に赤い花を咲かす木々の洞にも根本にも契約書はなかったし、打ち捨てられた神社を見つけたけれど本殿にも賽銭箱の中にも、手水舎の水の中にも契約書は無かった。


「なぜ見つからないんだ? さすがに可笑しくないか?」

 シタは言うけれど、カカは「塔が自分を主にしたくないのだろう」と落ち込むばかり。

 それでも「いや」とシタは思う。


「そうじゃない」

「何か理由があるって言うんですか?」

「ある。あるはずだ」

 そもそも契約書はあるのか?

 そう考えてシタはハッとする。


「契約書が無いんだ!」

「さっきからそう言ってるじゃないですか」

 カカは鳥居にもたれ、意味が分からないという風に首を傾げる。


「そうじゃない。そもそもウナを主とする契約書が存在しないんだ!」

「え? あ!」


 そうだった、と二人は気付く。

 ウナは自分の記憶を代償にワッカの主としての契約を破棄したが、それだけだ。

 ウナが塔の主になるという契約は交わしていない。


 すると、気付くのを待っていたと言わんばかりに鈴の音が鳴り響いた。

 近くというよりは耳の奥で鳴っている気がする。

 シタは激しい音の嵐に思わず目を閉じた。

 すると、次に目を開けた時には二人の間に塔の核となった、あの集霊器の遺物があったのだ。

 それも鈴の実をたわわに実らせた巨木となったそれが。


「塔の核?」

 カカが呟く。

 シタはカカが願わぬうちにと叫ぶ。


「契約だ! 書塔の核よ。山で起きた事件の全てを人々の記憶から隠せ! 代償は私だ。私が書塔の主になってやる!」


 その言葉に驚いたカカは見開いた眼でシタの口を塞いだが、契約の光は煌々としてシタを包む。

 そしてシタの目の前に、金色に縁どられた契約書が降りてきた。


「何やってるんですか⁉」

 カカがそう言って契約書を奪おうとするが、その手は空を切った。

 どうやら当人以外は契約書に触れられないらしい。

 シタはニコッと笑って契約書にサインをする。

 そして契約は成立し、光は消えていった。


「帰ろう。カカ」

「帰りませんよ。契約書を探して僕が主になるんです」

「もう解決したじゃないか。お前は家に帰れるし、塔の主じゃなくなったウナはちゃんと死ねる」

「これじゃあシタさんだけが死ねないじゃないですか」

「私が塔を建ててしまって、死ねるか死ねないか分からなかったんだ。この方がよっぽど良いさ」


 カカは雪の中に座り込み、膝を抱えた。

「二人は自由だ。私はこれでいいんだ。これからが楽しみだよ」

「嘘ばっかり」


 鼻をすするカカの肩を叩き、シタは「そんな事はないさ」と答える。

 塔の核はまだそこにある。おそらく、この鈴の実で元の場所に帰れるのだろうな、とシタは思った。

 いや、感じたという方が近いかもしれない。

 塔から教えられるといった感覚だ。情報が頭の中に迷い込んでくる。


「帰ろう」

 シタはそう言ってカカの手を取り、鈴の実を指ではじいて鳴らした。

 すると段々と海の底に沈んでいくような、とっぷりとした眠気に襲われる。



「お! 起きたか!」

 ポ助の声に体を起こすと、ちょうど目の前の海から朝日が昇る所だった。

 助手席でゴソゴソと起き出したカカも無言でそれを見ていたが、やがてぽつりと「ありがとうございます」と呟いた。


「どうって事はない。私が私の思う通りにしただけだ」

 そうしてラジオを流しながら車を走らせたけれど、塔に着くまで聞こえてきたのは他愛無い話と音楽ばかり。

 もう塔に関するニュースは流れなかった。


 人が自分たちのした事を忘れて笑うのは腹立たしいけれど、それでもシタはやっと訪れた平和を心から嬉しく思うのだった。



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