代打ダイヤモンド

紙季与三郎

第1話


 こと世の中は、善良なるスポーツマンシップを求める。


バッターボックスに向かうまでの間、ズルズルと木製バットを地面に引きずり回す悪態なんて、許されはしない。


従順で純粋な汗臭い高校球児像を押し付けてくる感覚。中には、実力のみで判断し、多少の素行の悪さに目を瞑って強さのみに期待を持ってくれる奇特な人間もいる。


しかし、飛ぶヤジも、身勝手な応援も、俺にとっては同じだった。

打撃の邪魔で、鬱陶しい自慢。


——野球の何が面白い。こんな奴らを楽しませる事が、そんなに愉快か?


バットを初めて握った小学五年生の頃から——


未だに答えは出ない。



「九番、代打。静山(しずやま) 祈(いのり)」


ウグイス嬢の声は、まぁ良い。感情を、心を、抑えているから。場内放送のイントネーションも現実味がなくて嫌いじゃない。


それよりも——、

「バッター集中‼」

「バッチコーイ‼」


虫唾が走るのはコイツラだ。適当で、沈黙を嫌ったその場しのぎで、何の気なしのくせに、やたらと声だけデカイ。


——別に野球漫画に出てきそうな才能に溺れる悪役に憧れている訳でも無いんだ。


そもそも、こんな球遊びが上手な事に何の意味があると疑問に思っているし、自分が野球に秀でた才能があると思った事など一度たりとも無いのだから。


さて、皆の想いとやらを背中に背負ってマウンドに立つ君は、さぞ美しき気持ちのいい汗を流して主人公ヅラを満喫している事だろう。



——ただ、ひたすらに、くだらない。


その手に握る白球に、本物の魂はあるか?


《さぁ、ピッチャー振りかぶって——‼》


俺には——ある。本物の感覚が——。


場内は、その瞬間——、いつも静かだ。


沸き立つ歓声、どよめくような落胆の悲鳴はその少し後。

球場スタンドに夢だけが詰まったボールが堕ちる頃には俺は一塁のベースの少し手前。


元気にグローブを掲げていた球児たちが、力なく両手をぶら下げる光景は実に滑稽だ。



《入った、入ったー‼ 走者一掃、静寂の一撃‼》


わざわざダイヤモンドベースを一周するのが面倒くさいが、監督に『全力で戦いを挑んできた者への敬意の意味もある』と仰々しく切々と一時間くらい説教を受けた身としては職務としてこなすのは吝かでは無くなっていた。


そういうのを、ちゃんとする代わりにホームベースでチームメイトの【お迎え】は禁止にしてもらっているし。嫌いなんだ、アレ。特にテンションが上がって強めに背中を叩いてくる感じが。


まぁそれでも——、

「ナイス、バッチ」

只一人、それを守らない奴も居るんだが。


「……」

「ほら、紙とペン」

「どうだった、去年ベスト4のピッチャーは」

「……」


本当に空気の読めない奴だ。

ふと、振り返った目線の先には小高いマウンドに茫然と立ち尽くす相手のピッチャー。


どうだった。どうだった。


俺は手渡された小さな画板の上に供えられたメモ用紙に文字を綴る。


『主人公じゃあ、なかったニャ(笑)』


簡単に描いた猫の絵を添えて。


「なんだそれ」


欲張りな欲しがりに、何と答えるのが正解だ。拍手を送ってくるベンチへと歩きながら少し考えた。教科書通りの安易なストライクゾーンに、安易な球を投げられて、いったい何を想えばいいのか。


ボールの回転数でも答えればいいのか。


ああ——、そうだ。

『青春のカオリ』

「どんな匂いだよ、それ」


帰り道に部活の皆と食べたコンビニアイスのような、ほのかな甘さ。

そう答えたい所だったが、まだ試合は終わってはいない。


「ナイス、ホームラン」


ネクストバッターサークルから抜け出してすれ違う先輩チームメイトがハイタッチを求めてきて。俺は再び筆を取る。


「……」

『初球、外逃げ。二球カウ、内スト』


「カウント取りに来たストレート狙いな、分かった。取り敢えず手を挙げろ」

「……」


人の手を無理やり掴んで、無理矢理なハイタッチの強要。とんでもない人権侵害だ。

豆だらけの包帯の巻かれた掌、わざわざ手袋を外して。


「小金井先輩、続いてヨロシクっす」

「おうよ」


野球選手として少し小柄な体が頼もしい限りだ。


努力を蔑む事は絶対にない。比喩ではあるけれど俺だって、バットは手が腐りきる程に振ってきた。


ただ——こんなお遊びに、必死に興じる意味が分からないだけで。


「良いスイングだった。最終回は藤宮で行く、キャッチャーの準備をしておきなさい」

「……」


そんなヒゲ監督のポーカーフェイスを皮切りに、ベンチ内に木霊する「ナイス」の掛け声を浴びながら、俺は隅へと逃げるように座る。用意されていたキャッチャーミットを始めとした装備品一覧を撫で、ようやくのひと息。


 希望ポジションはデグジネイト・ヒッター【DH】と入部時に言ったはずだが、高校野球には適用されてないからと未だにこの始末だ。


多投を強いられやすい未来に満ちた高校球児にこそ必要なルールだと思うのだが。


——しょうもない人間が壊れる感動ドラマがそんなに好きなのだろうか。


そう呆れていると、今度はマネージャーが俺の前に姿を現して。


「はい。スポドリ、それからゼリーね。今日、試合始まってから飲んでないでしょ」


「いいえ返事は要りません。書かなくていいから」


昔馴染みの手際の良さで、俺に掌を見せつけて、毒の混じるインクを堰き止める。


「じゃあ、私スコアブック書いてくるから」


応援の騒音に包まれる球場内に、ひと際の歓声。どうやら小金井さんが俺に続いてヒットでも打ったらしい。マネージャーが俺の肩を叩き去る中、俺は目線を流す。

三点差、ツーアウト、ランナー一塁。次の打者は二番バッター。


少し早めに最終回の用意はした方が良いな。


と、思い至り捕手の用意を始めようと使えない喉を潤していると——、


「静山。そろそろ準備しろよ」


またアイツがやってくる。

俺は、再び一息ついて筆を取った。


『肩は温まったのか』


「いつでも行けるっての。こちとら、試合前からヤル気満々よ」

『相手は四番』


「おう! ワクワクするな」


ロクでもない思考回路。全く以って俺とは対照的な野球バカ。

足の防具を付けながら、悪態を心に描く。


「それに俺は、お前のミットに投げるだけだからな」

「……」


八回裏の終わった落胆の声が聞こえ始めた。心のギアが一つ上がる感覚。

首の骨を鳴らし、メモ帳に乱暴に文字を刻む。


『ムリだろ、ノーコン』

「はは、キタネぇ字だな」


感情のこもる素晴らしい表現もコイツには効かないらしい。


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