第10話

 毎日毎日、意識を刈り取るように強制的に眠りへと落とされていた。


 夢の中で待ち構えていたのは、赤いドレスを纏ったとても背の高い女性だった。

 見たことのない石造りの建物が並ぶ恐ろしく長い一本道を、女性はゆったりとした足取りで、私の方へと向かって歩いてくる。

 こちらに近づくにつれ、よく見え始めた女性の姿に血の気が引いていく。

 手足は枯れ木のように細く長く、その腰は驚くほど細い。

 纏う赤いドレスは薄汚れ、所々に焼け焦げた跡がついている。

 ふと見つけた袖口の白色の部分で、元々のドレスの色が赤ではなかったことを気づかされた。

 なぜ、ドレスの色が変わったのか?

 どんなに良い方へ考えようとしても、頭の中では嫌な想像が後から後から止めどなく湧き出てきてしまう。

 私は、恐怖に支配され震えて動けずにいた。そんな私に向かって、焦げ茶色の長いざんばら髪の隙間から覗く真っ赤な唇がゆっくりと上がっていった。


 逃げろ!

 本能でひしひしと感じる。これは、絶対に捕まってはいけない。

「……だ、だ、大丈夫、大丈夫。ま、まだ、距離は、あるよ。……あるから、……は、走る、走る、……走れ! 走れ!」

 私は、膝を掴みながら震える足を叱咤する。

 そして、決して早くはない歩みで徐々に近寄る女性に背を向け、思いっきり走り出した。


 それからの夢の中では、日に日に距離が詰められていく恐怖に耐え、蓄積されていく精神的疲労を抱えて、目が覚めるまで追いかけられ、ひたすら走り逃げ続けることを繰り返していた。


 それが、今日はどうだろう。

 どんなに走っても速度が上がらなかったのがまるで嘘のように、走る一歩一歩がとても軽くて速い。 重りが外され、足に羽が生えたよう。嬉しさに思わずスキップをしてしまうほどだった。

 しかも、すぐ近くまで距離を縮めて来ていた赤いドレスの女性の姿は、一本道の遥か遠くに小さく見える。

 ただ距離が開いただけ、これで解決した訳ではないのはわかっている。

 わかってはいるが、それでも喜ばずにはいられない。

「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます」

 私は軽やかにスキップをしながら、いつもの目覚めの時までひたすら感謝の言葉を呟き続けた。






「ありがとうございます」

 そう言いながら目を覚ませば、ここ最近感じられなかった素晴らしい爽快感が、カーテンの隙間からこぼれる日差しと共に私を包み込んでいた。

 毎朝の寝覚めの悪さがまるで嘘のようだ。

 その心地よさに浸りながら視線を巡らせ時間を確認する。深く眠れた充足感から、かなり寝過ごしてしまったのだろうかと思えば、起きた時間はいつもと同じだった。


 今日は、お父様と話をすると決めたのだ。

 夜に会えないからとお父様とお兄様は、朝早く起きて私との時間を作ってくれている。

 二人が作ってくれた大切な時間だ。

 少しでも長くたくさんの話をする、そのためには、急いで準備をしなくてはいけない。

 頭の中では、話すことが溢れかえっていた。

 視えること、庭園のこと、夢の中のことなどまだまだいっぱいある。到底、朝の限られた時間で話しきれるものではないが、気が急いて仕方がない。

 それに、今の私にとって最重要案件に躍り出た、清めの酒についても早く話さねばと思う。

 昨日ルーカス様に、じゃんじゃん食べさせられたどれかのケーキに使われていたお酒。

 そう、きっとそれが清めの酒に違いない。

 夢の中でありがたい力を発揮してくれたおかげで、こうして穏やかな朝を迎えられたのだ。

 これを毎日摂取できるように、庭園の件と一緒にお父様にお願いをしよう。

 決意を込めて、腕に抱えていた白猫のぬいぐるみを強く抱きしめた。






 ドン!!

 叩きつけられるような音とともに、私の部屋の扉が壊れそうなほど震える。


 ドンドンドンドンドンドンドンドン!!!

 突然、止まることもなく激しく叩かれ始めた扉に、心臓が早鐘を打つ。そのまま扉から視線を動かすこともできず、ベッドの上で恐怖に震える手でぬいぐるみをしっかりと抱きしめながら、早く過ぎ去ってくれるのを待っていた。


 ドン!!

『何、呑気に寝てるの?』

 一際、大きく扉を叩く音に聞き覚えのある声が混ざり始める。


 ドンドンドンドン!!!!

『起きなよ、起きなよ、起きなよ、起きなよ』

『おやめください!』

 激しく扉を叩く音と彼の地を這うような低い声。

 そこにそれを止めようとしている複数の制止の声が被さる。

 そして、少し遠くから『貴様、何をしている!』という怒号が響いてきた。


 ドンドン……ゴン。

『起きなよ、起きなよ、起き……うぐっ』

 お父様らしき人の怒鳴り声が聞こえたかと思えば、リズミカルに扉を叩く音と、それにあわせたおかしな音頭がぴたりと止んだ。


「……」

 私は、ベッドの横にある車椅子へと移動する。車椅子に座ったまま、ドキドキし続ける胸を落ち着かせるように押えた。

「……よし、行ってみよう」

 意を決し扉まで動かそうとした時だった。

 コンコンと小さく扉を叩く音がした。

 落ち着いたはずの心臓がぎゅっとなる。


「……はい」

 と恐る恐る返事をすれば、ゆっくりと開いた扉からお兄様が顔を出す。

 車椅子に座っていた私を見ると少し驚いた顔をしていたが、すぐに笑顔へと変わった。


「おはよう、ティアナ」

「おはようございます、お兄様」

 お兄様が現れた安心感から、全身のこわばりが解けた私も笑顔になる。車椅子を動かしながら扉へと近づいた。

 少しだけ開いた扉の隙間からそっと廊下を覗こうとする私の視界を、なぜかお兄様がその身体で塞ぐ。

「……お兄様?」

「大丈夫だよ」

「い、いえ、あの、廊下で……あの……」

「大丈夫だよ」

「……はい」

 何があったのですか? そう聞きたかったが、とても素敵な笑顔を向けられて聞くことができなかった。


 そんなお兄様は、お父様とクロス様の二人が私を呼んでいるからと迎えに来てくれた。


「え? ……クロス様?」

 聞き覚えのない名前に小首を傾げてしまう。

「ん?」

「……いえ、えーと、ああ。……あっ!! はい! はい! クロス様ですね。ごめんなさい。まだちょっと、寝ぼけているようです」


 その人は誰ですか?

 思わずぽろりと、口をついて出そうになった。

「クロス」様。

 今、初めて知った名前。白髪の彼の名前だ。

 クロス様と出会って、かれこれ一ヶ月は経とうとしている。

 それなのに、今日、今、この時まで、名前を知らなかった。このことをお父様とお兄様には絶対に知られてはいけない。それは、私とクロス様のためだ。なぜだかわからないが、私の勘が駄目だ、駄目だといつになく騒がしく訴えている。

 私を見つめているお兄様へ、ごまかすように笑みを浮かべて、そっと目を伏せた。


「じゃあ、準備ができたら呼んで。待ってるから」

「はい」

 答えながら、ふと見るともなく見た笑顔のお兄様の向こう側に、お父様に連れて行かれる白いものが暴れているのが一瞬ちらりと見えた。


 えっ? 二人が呼んでいるのでは?

 お兄様に問う前に、そっと扉は閉められてしまった。


 そのままボーとしてしまった私は、お兄様に連れられ部屋で待機していた二人の侍女の手で、あっという間に身だしなみを整えられていた。

 用意されたのは、私の瞳と同じ水色の可愛らしいパフスリーブ袖のワンピース。白色の襟には、小さな花の刺繍がされていた。

 腰よりも少し高い位置に前で結ばれた大きめのリボンがワンピースの可愛らしさを一層に引き立てている。

 肩にかかるくらいの長さの亜麻色の真っ直ぐな髪は、左右の耳の横で編みこまれ水色のリボンで止められていた。


 準備ができた私は車椅子を押してもらい、お兄様が待つ廊下に出る。

「お兄様、お待たせしました」

 そう言った私を見たお兄様は、ドキリとするくらい柔らかい笑顔になった。

「いつも可愛らしいけれど、今日は特に可愛いね。それに、すごく顔色もいい。……良かった」

「あ、ありがとうございます」

 髪を乱さないように優しく頭を撫でるそんなお兄様に、私の顔が赤くなってしまうのは仕方がないと思う。


 そして急ぐからと私を抱き上げ、エントランスの方へ足早に進む。そのまま玄関を抜け、近づきたくない場所へ向かって歩いて行く。無意識のままお兄様に抱きつく腕が強くなってしまう。

「大丈夫だよ」

 お兄様はそう言うと、私を庭園の入口にいるお父様へと渡す。


「おはようございます、お父様」

「おはよう、ティアナ」

 庭園を視界にいれないようにしながら挨拶をする。

 お父様に抱きかかえられた私の目の前には、黒い靄に覆われた庭園といつも以上によれた服で目の下に真っ黒な隈が出来ている白髪の彼がいた。


「お、おはようございます」

「……おはよう」

 不機嫌さをまったく隠しもせず、それでも挨拶は返してくれた。


 顔を俯かせ「眠い、眠い、眠い、眠い、眠い……」とブツブツ言うと動かなくなった。

 えっ? 寝たの? 立ったまま?

 あまりの驚きに身を乗り出しよく見ようとする私を落ちないようにお父様が支えてくれていた。


 しばらくするとクロス様はゆっくりと顔を上げた。

「始めるけど?」

「ああ」

 言葉少なにお父様に声をかけた彼の手には、いつのまにか無数の金色の大小様々な形をした結晶が閉じこめられた球体があった。


 何が始まるのだろう。

 ぎゅっとお父様にしがみつき、じっとクロス様を見る。

 彼は、手に持った球体を空へ向かって軽く放った。そのまま球体は、ぐんぐんと速度を上げ上昇していく。

 邸の屋根をかなり越えたところで止まり、その場で勢いよく回転すると音もなくはじけた。


 それはまるで昔見た花火の枝垂れ柳のように、いくつもの金色の光が地上へと降り注ぐ。

 その光は邸を含む敷地全体を守るかのように覆っている。

 とても幻想的で美しいその光景に、目の奥が熱くなった。




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