第8話
部屋に差し込む日の光りを浴びて、すみれ色の瞳を柔らかく細め笑みを浮かべる姿はとても可愛いらしいけれど、こうして近くで見れば、やっぱり男の人だった。
彼には、女性の丸みを帯びた曲線などどこにも見当たらない。骨格はしっかりしているし、細身ではあるがきちんと筋肉がついているのが見てとれる。
私を見つけてくれた命の恩人にお礼を伝えるために会いにきたのに、とんだ早とちりをしてしまった。
女性に間違えた上に、お兄様の恋人だなんで……。
恥ずかしさに、顔に熱が集まるのがわかる。
そんな勘違いもすべてわかっているように、お兄様は慈愛に満ちた目で見つめてくる。
恥ずかしさが倍増するので、お願いだから見つめるのをやめてもらいたい。
「ティアナ」
お兄様にゆっくり促され、顔に集まった熱が下がらぬまま私は、お礼を伝える当初の目的を叶えるべく口を開いた。
「ティアナ・リンドヴェイルです。先日は、わたくしを見つけてくださり、ありがとうございました」
「えっ? 見つけた? いやいや、殿……」
ヒルデバール様は、私の横に立つお兄様を慌てたように見ながら驚きに目を瞬かせ、すぐにぎゅっと口をつぐんだ。
その視線を追って、何か間違えてしまったのかと不安気にお兄様を見つめれば神々しいまでの優しい笑顔が降ってくる。そして、大丈夫だよの合図にぽんぽんと背中を叩いてくれる。その笑顔と合図に私はほっとした。
ただ、心なしか部屋の温度が少しだけ下がった気がする。ひんやりとした冷気を感じたながら「まじか……」とヒルデバール様の小さな呟き声が聞こえた。
「いや、うん。そうだね。今日は、とりあえず、そういうことにしておこうかな……」
言葉を濁しながら、彼は深くため息を吐いていた。
ところで「デン」とは、いったい何のことなのだろうか。
そして今、この部屋には私とヒルデバール様しかいない。
お兄様といえば、セバスに耳打ちをされると「すぐに戻る」そう言って席を外した。
だからここには二人しかいないのだ。
テーブルの上を見れば、色とりどりのケーキが並んでいる。
目を疑うくらいのおかしな量である。
私も初めのうちは次々と運ばれてきたケーキに両手を合わせ「わぁ!」なんて喜んでいた。
しかし、どんどん並べられていくケーキに呆然としてしまう。
え?嘘でしょう?
この量はあきらかにおかしい。たとえお兄様の分を用意していたとしてもおかしな数である。ちなみにお兄様は甘党ではない。
「いただきます」弾んだヒルデバール様の声が聞こえてきたが、あまりの出来事に私は固まったままだった。
気を取り直してとりあえず、目の前にある苺のタルトを食べようかなと思いながら、ふとヒルデバール様を見て私はフォークを持ったまま再び固まった。
え?嘘でしょう?
ちょっと前に「いただきます」の声が聞こえてきてから、まだそんなに時間はたっていないはずなのに、彼の周りにはすでにケーキはなかった。
…………。
私は、目をゆっくりと閉じてからゆっくりと開けてみた。
現実だった。
てきぱきと片付けられていくお皿。空いた場所に運ばれていく、様々な種類のケーキたち。どこかの選手権を彷彿とさせる光景がそこにあった。
気がつけば彼のペースに巻き込まれ「これ、美味しいよ」「こっちも美味しいよ」次々差し出されるまま食べていた。
彼によって私は、限界への挑戦をさせられていた。
私の体が横に広がらないことを祈るばかりである。
選手権も終わりを迎えた頃には、彼の一人称は私から俺に変わり、そして私はルーカス様と呼ぶようになっていた。
とても穏やかな時間だった。
それは、前触れもなく唐突に訪れた。
床から這い上がってきた冷気が体に絡みつく。
ぞくりと全身の肌が粟立った。
私がその気配にこっそり視線を向ければ、ルーカス様も同じようにこっそり視線を向けていた。
そして、驚きに開いたお互いの目と目を合わせ同時に頷いた。
気がつかないふりをしよう。
ルーカス様は、苺を刺したフォークを持ったまま動かない。
私は、ティースプーンでひたすら紅茶をぐるぐる回す。
そして、二人揃って別の方へ視線を送りながら、ひたすら息を潜めていた。
回し過ぎて渦を巻く紅茶を見ながら、ふつふつと沸き上がってきたのは怒りだろうか。
なんだか私は、釈然としないのだ。
知り合いでもなんでもない、ただの通りすがりのようなものに、なぜこんな恐怖を覚えねばならないのか。だからと言って、知り合いならばいいわけではないが。
ここにいたというだけで、なぜ楽しい時間を奪われ、息を潜めていなければならないのだ。
そもそもここは私の家である。
不法侵入は、そちらではなかろうか?
これはその理不尽さに対する怒りなのだと判断した私は、持ち歩くように言われているポシェットに手を忍ばせ目当ての物をぎゅっと掴んだ。
因みに、猫の顔の形をした可愛いポシェットで、もらったぬいぐるみと同じ白猫ちゃんである。
私のお気に入りだ。
思いきって顔を上げた私の目に入ったのは、私には一切見向きもせずルーカス様へ近づく髪の長い女性だった。
「はあっ?!」
思わずそんな声が漏れたのは仕方がないと思う。
それでも、私をまったく見ずにニタニタ不気味に笑いながら彼の顔を覗き込む女性。
その気配を察したルーカス様の顔色が段々と青褪めていく。
(いけない! ルーカス様を助けねば! そう、これを使う時が来たのだ!)
今の私の気分はお姫さまを救う勇者そのものだった。
ポシェットからそれを取り出し、「えいっ!」と力の限りルーカス様に張り付く女性へと投げつけた。
それは、今朝方摘んだばかりの新鮮なローズマリーだった。
意気揚々と投げつけながら、私はふと気がついた。
このなんとも言えない高揚感は……。
そう私は、ケーキに使われていた少量のお酒で酔っていたのだった。
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