視えすぎちゃって困る
かずさわこ
第1話
落ちたのは、母が大切に育てていた花壇の上だった。
激しく鳴り響く雷。その音を消すように降りだした雨が、花壇に横たわる私の体を無情にも濡らしていく。
花壇に群生する草花が、落下の衝撃を和らげてはいたが、かなりの高さから落ちたので相応の痛みがある。左側を下にしたまま動くことができない。おそらく、どこかの骨をやってしまったのだろう。
そのうえ頭の中では、今の私の8年と前の私の29年の人生の記憶がぐるぐると入り乱れているのだ。
渦を巻く記憶は、早送りの映像で映し出されていたため、すごく気持ちが悪くなった。
それに頭の痛みまでも伴い始めたのは、完全にキャパオーバーである証拠。脳は、もはやパンク寸前だ。
ふと感じる気配に視線を向ければ、私を落としたバルコニーに禍禍しい蠢く黒い塊がまだいた。
その塊についている無表情の白い顔が、こちらをじとりと見ていたのだ。眉はなく、切れ長の目、少し口角の上がった赤い口元。その面立ちは、まるで能面のようだった。
暗がりの雨の中で見るその姿は、より一層の不気味さを醸し出している。
その不気味な能面は、私をバルコニーから落としただけでは満足せず、再度の攻撃を狙い見ているのだろう。体が動かない私には、逃げ場などはどこにもなかった。
(こんな大怪我をしている小さな子供の私に、まだ何かしようというのか……)
逃げられない焦燥とやるせない怒りが、私の中で荒れ狂う海のごとく溢れかえっていた。
(……?)
おかしい。
ただ見ているだけで、能面は何もしてこないのだ。
一瞬で恋に落ちた若人達のように、なぜか私と能面はずっと見つめ合っている。
(……?)
おかしい。
先ほどから能面がいる方から『ちっ、ちっ』と何かの音が聞こえ始めたのだ。
雨の音にかき消されて少々聞こえづらいが、まぎれもなくあれは舌打ちをする音である。
(えっ! 能面が舌打ち?)
能面から聞こえるリズミカルな舌打ちに衝撃を受けながらも、仕掛けてこようとしない理由について考えを巡らせれば、その答えは私の体の下にあった。
気づいた私の口角は自然と上がる。
どうやら母はこの花壇でハーブも育てていたようだ。
私の下敷きになっていたハーブ。
それは、魔除けでも使われるローズマリーだった。
私は、痛みに耐えながら動く右手を伸ばした。傍らに落ちていたローズマリーを拾い、離さないように強く握りしめ、ぎゅっと胸に抱きしめた。
それを見ていた能面は、舌打ちの速度を上げ続けた。きっと、悔しいのだろう。無表情だが、表現は豊かな持ち主のようだ。
その舌打ちも段々と遠ざかる。
だが、決して舌打ちの速度は緩まない。
そんな能面は、私に対し『なんて、忌々しい』という思いの丈を、こちらに向けてきた視線に残しながら、プツリと消えていった。
魔除けのハーブ、『ローズマリー』
効果は、蚊取り線香のように絶大だった。
それにしても、能面のあの態度には苛立ちを感じざるを得ない。ぶつけることのできない苛立ちが精神的苦痛となっていった。
「ちっ」
うっかり出てしまった。
しかし、私の舌打ちは能面とは比べものにならないくらい可愛らしいもののはずだ。
気持ちを落ちつかせるため、ゆっくりと息を吐き出す。
ローズマリーの匂いを吸い込むと、安堵感に包み込まれると同時に、張り詰めていた糸がぷつりと切れてしまった。
私は、とうに限界だったみたいだ。
頭がガンガンと締めつけられるように痛い。早送りの映像のせいで吐きそうなほど気持ちが悪い。もう、左半身全てが痛い。
しかも、バルコニーで能面に掴まれた左足には、握り潰されるような痛みが断続的に続いている。
とにかく体中が痛いのだ。
限界をむかえてしまった私には、もう耐えることなどできやしない。限界のその先に我慢などありはしないのだ。
『この状態異常の中でよく頑張ったね、私』と今すごく褒めてあげたい。
降り続く雨は激しさを増し、打ちつけてくるその冷たさで私の体温を奪っていく。震える体は、生命の危機感を募らせ始める。
生きているうちに誰かが見つけてくれるのが先か、このまま息を引き取り天使のお迎えがくるのが先か。
それは時間との戦いではあるが、どちらにしても今の私にできることは待つことだけ。
能面のお迎えだけは、絶対に遠慮したい。
普通の人が来てくれるのを、ただここで待っている。
『待ち人来ず』一瞬、前の世で最後に引いたおみくじのありがたいお言葉を思い出した。今、絶対に思い出したくないお言葉だった。
(普通の人に見つけてほしい。ここでまだ死にたくない。健康に長生きしたい。こんなに痛いのはもう嫌だ。能面とは二度と会いたくない。恐怖体験はしたくない。恋がしたい。イケメンとの恋ならなおよろしいが、面倒なことになりそうならそれはなしでいい。最終的には、何もしないで完全に引きこもりたい。)
煩悩も含むほのかな望みをブツブツと願いながら、私の目は閉じていく。
いつの間にか体の震えは止まっていた。雨の冷たさも感じていない。
そして、私の周りにゆっくりと暗闇が広がっていった。
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