翁草.13
剛気は結妃に引っ張られるまま、エントランスを抜けエレベーターに乗っていた。
狭い箱の中で、ずっと手を握られていた。
その力強さは、一人にしないでと強く訴えているようだ。
結妃が玄関を開けたところで、剛気は声を上げる。
「待ってください。壮快先輩が知ったらまずいんじゃないですか」
「関係ないわ!」
半ば叫ぶように吐き捨てると腕が抜けるかと思うほどの力で連れ込まれてしまう。
扉が閉まり、二人だけの空間になった途端、手を解いた結妃が剛気の胸に飛び込んでくる。
何も話さず、ただただ泣く事しかできない彼女を見て、その震える背中に手を添えてしまった。
この時、妻の存在は完全に忘れてしまっていた。
実際の時間は一分ほどだったかもしれない。だが剛気には五分以上にも感じられた。
泣き止んだ結妃に促されるまま座ると、結妃がワインを持ってきて二人分のグラスに並々と注ぐ。
とても酒を飲む気にはなれなかった剛気だったが、結妃は喉を鳴らして飲み干すと、すぐさま二杯目を注ぐ。
それを半分ほど飲んで、口紅が滲むのも構わずに口元を拭った。
「ごめんなさい。取り乱したところを見せて」
そう言ってまた一口。
「壮快先輩と何かあったんですね」
皇太と何かあったのは剛気も先ほどの結妃の反応で察した。
しかし、これほどまで取り乱す原因が皆目見当もつかない。
結妃は二杯目を飲み干し、バッグから茶封筒を取り出した。
それをテーブルの真ん中、剛気の手の届くところに乱暴に放る。
考えを巡らせるが、封筒の中身に心当たりはない。
「中を見ても?」
結妃は三杯目を飲みながら頷く。
許可をもらったが、中々中を見る勇気が湧かない。
見たら、昨日までの平穏が音を立てて崩れそうな気がしたからだ。
しかし見なければ、結妃は帰してくれないだろう。
恐る恐る手を伸ばして中を見ようとしても、接着剤で固められたように開かない。
違う。本能が中を見る事を拒否しているのだ。
「これは私だけの問題じゃない。貴方にも深く関係していることなのよ」
勢い任せに開くと、瞳が封筒の中に収められた情報を全て視界に収めようと限界まで見開かれる。
見て後悔した。
これが現実なのかと一瞬疑うも、情報量の多さと正確さは、どう見ても夢ではなかった。
「興信所に頼んで、皇太の動向を監視してもらったの」
言葉は届かない。それでも結妃は続ける。
話すことで心の膿みを吐き出しているようだった。
「結果報告は予想を大きく上回っていたわ。まさか相手が」
剛気の脳裏に刻みつけるように、一旦区切り叫んだ。
「相手が鈴だったなんて!」
叩きつけたグラスがバランスを崩して落ち、フローリングの上で砕け散った。
剛気はグラスが割れたことにも気づかず、中にあったファイルを読み耽る。
何枚も貼付された写真には、夫である剛気にも見せたことがないような頬を上気させた鈴が写っている。
こんな魅力的な表情をする妻と一緒に写っているのが自分だったら、どれだけ幸せだったか。
しかし写真の場所に行った記憶は全くない。
妻が屈託のない笑顔を向けているのは皇太だった。
写真が撮られた日時を見ると、鈴が仕事をしているはずの時間が記されている。
それでも信じられずに行動記録を読む。
読み進めていくとある日付の行動が目に止まる。
それは皇太が編集長を務める雑誌社の取材の日だ。
取材を終えた二人は一緒に雑誌社を後にする。
変装し近くにある高級レストランに入った。
(店員に確認を取ると、事前に予約をしておいたようだ)
レストランを出てバーへ。
(とても仲がいい様子。周りに人がいてもそれを隠そうともしない)
バーを出た二人はホテルへ入っていった。
翌朝、チェックアウトした二人は別々のタクシーで帰路に着く。
これ以外にも皇太と鈴の蜜月が事細かに書かれていたが、もう読む気にはなれなかった。
「分かった? あの二人はこういう事を平気でする奴らだったのよ」
「信じられない」
だが、テーブルにあるファイルが現実逃避させてはくれない。
「貴方が信じなくても、これは現実よ。皇太にも確認を取ったわ」
剛気は顔を上げると、結妃は自嘲気味に笑う。
「あの人。鈴と付き合って何が悪いって言ったのよ」
「いつから、二人は、こんな関係だったんですか」
結妃は何が可笑しいのか鼻で笑った。
「私が恋愛研究部を作った時にはもうそういう関係だったみたいよ」
「その時から……全然気づかなかった」
剛気は高校時代を思い出す。
皇太と鈴は兄妹のような印象を抱いたが、まさか恋人だったとは思わなかった。
しかも自分と結婚しておきながら皇太と関係を続け、その事を何とも思っていないとは。
剛気は今まで妻を応援してきた事が阿保らしくなり、鉛を詰められたように全身が重くなる。
「貴方はどうしたい」
脱力していた剛気には、意味が測りかねた。
「二人を許す事が出来るかと聞いているの」
頭に浮かぶ答えと、口から出てきた言葉は真逆のものだった。
「妻に、話を聞いて見てからでないと何とも言えません。そうだ四人で集まって話しましょう。もしかしたら何かの間違いかもーー」
「何寝惚けた事を言っているのよ!」
結妃に面罵されて、霞がかっていた意識がハッキリしてきた。
「このファイルを見たでしょ。ここに書いてあるのは全部真実なのよ」
結妃が何度もファイルをテーブルに叩きつける。
「これだけの証拠があるのに怒りが湧かないの? ずっと騙してきた二人を許せるっていうの!」
叩きつけられファイルから、写真が飛び散った。
テーブルが皇太と鈴が笑顔の写真で埋め尽くされる。
その罪悪感の欠片も感じられない妻の笑顔に、今まで感じた事のない熱くて冷たい感情を覚え、すぐに閉じ込める。
この感情は表に出してはいけないものだと瞬時に悟ったからだ。
肩で息をする結妃が口を開く。
「今から報復するわ」
宣言するとバッグを持って立ち上がり、涙で化粧が崩れたまま出かけようとしている。
剛気が目で追うと、結妃はキッチンに向かい、包丁の柄を握りしめていた。
光を反射する刃は、よく手入れされていてどんな肉も深々と突き刺せそうだ。
「何してるんですか」
バッグに抜身の包丁をしまった結妃を引き留める。
「殺しにいくのよ。今は仕事しているはずだから仕事場に行って。あの女を引き寄せる顔に突き刺してやる。その次は鈴よ」
「そんな事をしたら駄目です。これからの人生を棒に振る気なんですか?」
「煩い。今まで騙してきた二人を殺せるなら死刑になっても構わないわよ」
剛気は玄関へ向かう結妃の前に立ち塞がる。
「どきなさい。どきなさいって言ってるのよ」
結妃は包丁を取り出した。
「包丁を置いてください」
剛気は怯まずにゆっくりと手を伸ばす。
「邪魔しないで」
結妃が我武者羅に包丁を振り回す。
剛気は自分の身体が傷つくのも構わずに手を伸ばし、宙を舞う刃を思いっきり掴んだ。
痛みは感じなかった。掌が熱くなり、ぬめりのある液体が手首から腕に伝う。
流れる血を凝視したまま、結妃は固まっていた。
包丁を奪おうと力を込めると、更に傷口から血が流れ、結妃の手を赤く赤く染めていく。
「離しなさい。傷口が広がるから早く離しなさい!」
「先に包丁から手を離してください。そうじゃなきゃ僕の手はずっとこのままです」
結妃が何度か引き抜こうとするが、手の力を緩めはしない。
「手を離してください」
この一言が決定的となった。結妃は柄から手を話すと、力なくその場に座り込み、剛気の血に塗れた手で顔を覆う。
その手の隙間から嗚咽が漏れてきた。
「私はどうすればいいの。あの二人を許す事なんて出来ない」
「貴女に人殺しはさせない」
剛気の言葉に結妃は顔を上げる。
しゃがむと無傷な手で、結妃の涙を拭う。
「僕が二人を殺す」
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