初夏、時雨を呑む

那譜 彗音

初夏、時雨を呑む


私は七日に一度の貴重な休日を謳歌すべく、人々が行き交う歩道を歩いていた。


今日は散歩をする予定だ。

せっかくの休日をそんな事に浪費して良いのか?

良いのである。

私はただ青嵐を全身に浴びながら、ひたすら歩く。

それだけで、私は満足だ。


「──ん?」


突如、地面がパチパチと合唱し始めた。


嫌な予感を覚え空を見上げると、昨日から続いていた曇天がついにその均衡を崩していた。


「あぁ、貴重な休日が……」


通行人の殆どは、ビニール傘を開いている。

私は天気予報を見忘れた自分を呪いながら、どこか雨宿りを出来る場所は無いか辺りをざっと見渡す。生憎、雨宿りを出来そうな場所は一つしか無かった。私の目線の先にあるのは、地元でも有名なカフェだ。私もこのカフェは少し気になってはいたので、迷うことなくそのカフェに逃げ込むことにした。


「いらっしゃいませ」


カランコロン、と音が鳴り、私はふぅ、と溜息を吐く。ずぶ濡れのシャツの裾でずぶ濡れの鞄を拭くと、私は辺りを一瞥した。カフェの中は外見に反して清潔に保たれていた。木製の棚の中には雑誌が陳列していて、お洒落な雰囲気を醸し出している。カフェの中には客らしい人影は見当たらない。


私は窓辺の席に座った。ポケットから財布を取り出し、中身を確認すると、五百円玉一枚と十円玉数枚が入っていた。雨宿りをさせて貰ったのだから、何か飲んで帰るのが義理というものだ。喉も乾いていたし、丁度良かった。


手書きのメニュー表を開いて、何を飲もうかと悩んでいたら、カランコロンと音が鳴った。入り口に目を向けると、客らしき男がずぶ濡れのシャツでずぶ濡れの眼鏡を拭いていた。年齢は六十代前半に見える。白みがかった髭があった。客は辺りを一瞥した後、私と同じように窓辺の席に座って、手書きのメニュー表を開いた。


「いやぁ、困りますな、梅雨というのは」


客が振り向いて、馴れ馴れしくも私に話し掛けてきた。


「えぇ、そうですね」と私も振り向いて微笑した。話すつもりは毛頭無かったので軽く受け流す。


「貴方も雨宿りを?」


「えぇ」


私は首肯した。沈黙が流れる。私はその間、特別飲みたいものが見つからず悩んでいた。やはり飲み物というのは酒に限る。私は思い切って客に訊ねることにした。


「何を頼んだものかと、悩んでおります。このような店には疎いもので……。お薦めとか、あります?」


「なるほど、自分はいつも──」と客が言ったところで、いつ注文したのか、客の机に飲み物が置かれた。


「それは何ですか?」


「カプチーノです。お薦めします」


そう言うと、客は急に黙りこくって、カプチーノを飲み始めた。その間私はメニュー表を眺めていたが、やはり特に何も見つからなかった。私は水滴でぼやけた窓をずっと眺めていた。窓の外は依然として大雨が降っているようだった。やがて何か視界を黒いものが遮った。ぼやけた目をこすると、窓の外で、黒い車が店の前に停まるのが見えた。その途端、客が流れていた沈黙を破った。「では」と声が聞こえ、私は顔を上げた。そこにはいつの間にか会計を済ませた客が立っていた。

私が周りを見ていないだけなのか、はたまたこの客は代々忍者の血を引く家系なのか。

恐らく前者だろう。私は昔から周りをよく見られていない。

そもそも私がそんな立派な人間であれば、今ビニール傘を片手に帰路についていた筈である。


「また会えたら良いですな」


「えぇ」


心にも無い言葉を返す。カランコロン、という音とともに扉が閉まる。私は客の飲んだカップを眺めた。カップからは、未だに良い香りがしている。

やがて黒い車が発進した。あの男にも、家族がいるのだな、と私は気付けば憧憬の眼差しを向けていた。

いや、家族ではなく友人かもしれない、と自分を慰めながら、店員を呼ぶ。


「すみません、カプチーノを一つ」


何となく、そう頼んでいた。私にはカプチーノというものがどんなものかは知らない。私がカプチーノを頼む理由は、あの客が飲んでいた、それだけだった。腕時計に目をやる。時刻は昼を回っている。ぐぅ、と腹が鳴る。


「カプチーノです」


私は机に置かれたカプチーノを呷るように飲み干し、ふと窓の外を見た。


雨はまだ止む気配が無い。

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初夏、時雨を呑む 那譜 彗音 @feconicu

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