霊廟堂殺人唱歌

鈴ノ木 鈴ノ子

第1話

 

 山々の雪解けがゆっくりと進んでゆく。

 駒ヶ根岳が冬の寒さに羽織っていた白い衣を脱ぎ捨ててゆく。やがて衣はときほぐされて水滴に融けると、自然の紡績工場で梳綿され精紡され硬い岩々の織り機によって水の帯となってゆく。


 その、水の帯から少し離れたところに住む勝俣政吉は孫の加奈と一緒に外を眺めていた。


 じーじ


 愛嬌のある可愛らしい顔をした、世界一の加奈が政吉に微笑む。普段は頑固者で融通のきかない政吉も孫の笑みと声という甘味には、顔を溶かしてしまっていた。


 かなちゃん、どうしたの?


 優しい声で政吉は問う。


 おじさんが木にいるよ?


 窓の外、対岸の木々のあたりを指差す。


 おじさん?


 痛む腰を我慢して、愛孫の視線の高さに顔を合わせ、指差した方向に視線を向けると、確かに木々の合間に人がいた。


 加奈ちゃん。おじいちゃんと下に行こうか。おもちゃで遊ぼう。


 うん!


 気を逸らして孫娘と下におりると妻の孚子を呼びつけた。


 孚子!おい、孚子!いないのか?


 奥のキッチンからゆっくりと孚子が姿を表して、足早にこちらへとやってきた。


 どうしたんです?そんな大声ださなくても、聞こえてますよ。


 加奈を頼めるか?


 また、タバコですか?と言おうとして、いつになく神妙な声の政吉に孚子も不安になった。


 どうしたんです?


 加奈が対岸におじさんがいると言ったんだが、どうやら死体のようだ。


 政吉は孚子の耳元でそう言った。

 見間違いでは?とは言えなかった。猟友会の山撃ちで政吉は何度も死体を発見している。ある種のカンのようなものが働いて気がつくと死体が前にあるらしい。

 

 分かりました。加奈ちゃん。ばーばとあっちで遊ぼう。


 うん!じーじ、ばいばい。


 孚子に手を握らせれてリビングへ向かった愛娘のバイバイに、一抹の寂しさを感じて足が止まったが、気を取り直すと、愛用の双眼鏡と、最近、加奈を撮るために買い直したスマホを持って2階に上がる。


 あのあたりだったか?


 双眼鏡で見ると木々の上の方にそれは映り込んだ。

 中年の男であった。明らかに生気のない青白い顔色をしており、口元は抉り取られ…下顎がないように見えた。そして腹部のあたりから下はなく、破れてぼろぼろの上着と腸のようなものが風に靡いて揺れていた。


 スマホに入っている交番巡査の番号をコールする。


 はい、本宮交番の橋本です。


 やっちゃんか?


 あ、政吉さん。どうしました?


 長野県駒ヶ根署、本宮交番勤務の橋本弥子巡査が、和かな声で話しかけてきた。


 あんな、うちから対岸の公園をみてるんだが…。


 また、若者が騒いでます?


 以前、その公園で夜中に花火をして喧しくしていた若者の通報を受けたことがあったので、同じようなことがまたあったのかと橋本巡査は思った。


 いや、違う。死体が木にぶら下がっとる。

 

 え!本当ですか?


 ああ、今、双眼鏡で見たから間違いない。


 すぐ行きます!動かないでくださいね。


 数秒後には遠くからサイレンの音が近づいてくるのが政吉の耳にも聞こえてくる。


 これが霊廟堂殺人唱歌と呼ばれる殺人事件の始まりであった。


 


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