第1話 邂逅

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「夢は今も巡りて 忘れがたし ふるさと」 

 右手に行灯(あんどん)、左手に籠を持ち、古い歌を口ずさみながらゆっくりと歩いているうら若き日本人女性となれば、大抵の者は条件反射で服装は着物だろうと思うかもしれないが、彼女は、『白地に朝顔』という定番模様の浴衣だった。

 体感温度は夏なので、浴衣でもおかしくはない。

 オカシイのは、場所と時間帯と彼女の持ち物だった。

 彼女がゆったりと歩いている場所は、『シンガポール日本人墓地公園』という名の墓地公園。読んで字のごとく、『墓地』と『公園』を兼ねた不思議で珍しい場所だ。

発祥は明治二十四年に遡る、由緒正しき墓地で、ある時代には、敷地内にあった寺や火葬場が白蟻の餌食になり、建物は廃墟となったこともある。

 雑草が生い茂った結果、近所の人が放った牛に墓碑が蹂躙されたこともあったし、別の時代には、土地自体が政府に没収されたり、望まぬ戦火で荒れ果てたりしたこともある。

 ここは、紆余曲折した歴史を持つ場所なのだ。

 一九八七年にシンガポール政府から接収令が出された時、在星――シンガポールに住んでいる、という意味――する日本人関係者の尽力によって、そこは『墓地公園』として生まれ変わることになった。

 『墓地』ではなく『墓地公園』として、という条件付きで三十年の借地権を認められたのだ。

 そういった条件だったので、一九八七年以降は、シンガポールで死亡したから……と埋葬を希望しても叶わなくなったが、代々の墓守が今まで以上に保守に力を入れるようになったので、よく管理の行き届いた墓地公園として有名になり、今日に至っている。

 その約9000坪の土地には、様々な墓がある。

 立派な墓標もあれば、木標が朽ちたもの、木標が朽ちてコンクリートの礎石だけになったもの、石柱の折れたもの、西洋式のもの、中国式のもの、有名人の碑、供養碑、納骨堂、地蔵……。ここは和洋中、様々な文化が交錯している独特な墓地だ。

 ただでさえ墓地という一画は特殊で、不謹慎ながら昼間でもどこか「気味が悪い」と感じてしまうもの。

 そんな場所に彼女は一人でやって来ていて、この一風変わった場所に馴染んでいた。

 そろそろ日付も変わりそうだという真夜中の時間帯と、墓地公園という場所を除けば、浴衣姿で外を歩いている女性……は別段不思議ではないだろう。

 ――が、彼女は浴衣姿に加えて『行灯(あんどん)』と『籠』を手にしている。  

 それだけで人はぎょっとして我が目を疑うだろうが、よくよく彼女を見たらさらに魂消る事になるだろう……。

 何故なら、彼女の持つ籠の中には、溢れんばかりの『卵』が入っているのだから……。

 そしてなにより――。

 『彼女』はまだ十五歳の少女だったりする。

 自分以外誰もいない夜中の墓地公園で繰り返し同じ歌を口ずさんでいる少女は如月更紗(きさらぎ さらさ)という名で、そこそこ背が高くてすらりとしている。

 腰まである漆黒の髪は無造作にまとめてあり、浴衣姿にしっくりと似合っている。

 手にしている行灯しか光がない中、頼りない明かりに照らされて浮かび上がる肌はとても色白に見えた。

 漆黒の髪と瞳とその白磁のような肌を明るい場所で見たならば、自然とどこか品のある日本人形を連想するだろう。

 決して途切れない更紗の歌声は、真夜中の墓地公園内で凛とした響きを放ち続ける。

 そして、そこはかとなく漂う気配から、自分は必要とされていると感じ、自負している。

 でなければ、わざわざ夜中にこんな酔狂な真似はしない。必要とされているからこそ、雨の日も風の日も体調不良な日でも、一日も欠かさずに歌いに来ているのだ。

 時々、更紗(さらさ)は、敢えて足を止めはしないけれども、もと木標であったが年々朽ち果ててきて既に誰の墓だか判らなくなってしまったものと、『精霊菩提(ぼだい)』のみの文字を刻んだ小さな石の墓が集まっている一画で、それぞれに微笑みかけたり頷いたりしていた。

 『精霊』は『魂』を意味し、『菩提』は『死後の幸福』を意味する。すなわち、『精霊菩提』は、結果として身元不明になっている方々の墓だ。

 ゆっくりと時間をかけながら、更紗はひとつひとつの墓をしっかりと見て確認するかのように歩いている。

 順路を決めて歩いているので、それなりに広い墓地公園内を効率よく回っている。

 その『精霊菩提の碑石』区域、通称『からゆきさん』区域をまっすぐに抜けると、道は行き止まる。

 行き止まりには明治時代の小説家兼翻訳家だった二葉亭四迷(ふたばていしめい)の碑、金鳥蚊取線香社長の墓、南方軍総司令官寺内元帥の墓が並んでいる。

「?」

 その行き止まりを右折して次の区画へ行こうとしていた更紗は、眉を寄せて首を傾げ、立ち止まった。

 人魂の類いではない、おそらく懐中電灯であろう小さな明かりがふたつ見えた。

位置から察するに、二葉亭四迷(ふたばていしめい)の碑の前だ。そこに、誰かがいる。その『誰か』は、まだ更紗に気付いていない。

「……」

 更紗は息を凝らした。

 耳を澄ますと、心地良い微風に乗ってふたりの男の話し声が聞こえてきた。まだ少し距離があるので、何を話しているのかまでは鮮明に聞き取れない。

 更紗は気を引き締め、籠を肘で固定し、行灯(あんどん)の火を吹き消して左手に持ち替えた。空いた右手で卵を掴み、いつでも投げられるように準備する。

 行灯(あんどん)の火が消えたので周囲は純粋な闇に包まれたが、慣れ親しんだこの墓地公園内なら目を瞑ってでも移動できる自信があるので、何ら支障は無い。

 更紗(さらさ)がそっと気配を殺しながら碑へ近づくと、懐中電灯を持った成人男性と少年が口論しているようだった。

 ……日本語だ。

 少年の方が激昂していて、成人男性がなだめすかしている――というか、のらりくらりと交わしている様子。

 昼間でも独特の静けさが漂うこの墓地一帯は、夜中になると更に静寂を極める。

 小声でも驚くくらいに反響するので、ある程度の至近距離になれば聞き耳を立てなくてもはっきりと話している内容が聞こえてしまう。

 どうやら、少年は早くここから立ち去りたいらしい。

 当然の反応だろうと納得しつつ、そうは問屋が卸さない……と、更紗は戦闘態勢に入った。

 この墓地公園はシンガポールの観光名所のひとつになっているのだが、博物館や動物園といったような所とは違い、門に鍵はついていない。監視カメラなど防犯に関するものもひとつとしてなく、昔ながらの佇まいだ。

 過去に何度か墓荒らしや墓泥棒の被害に遭遇したにも拘らず、現代のハイテクを取り入れずに明治時代からの面影を大事にしようとしているのには、理由がある。

 墓守である更紗の一族は、なによりも、この場から動けないでいる哀れな魂をそっとしておいてやりたいと考えている。

 墓地公園に眠る九割は、『からゆきさん』と呼ばれるうら若き女性たちだ。

 現在、シンガポールは日本から飛行機で5時間くらいの距離だが、からゆきさん全盛期の明治時代は船で何ヶ月もかかった。その船も必ずしも無事に目的地へ到着する保障はなく、海の藻屑となってしまうことも珍しくなかったという。

 開国したとはいえ、行動範囲が極端に狭かった当時の女性たちが、自発的に命がけの危険を冒してまで新天地を目指すとは到底考えられず、彼女たちの大半は、騙されてこんな遠くの異国へと連れてこられただろうと言われている。

 差別も酷ければ貧富の差も激しかった明治時代、特に被差別部落民として生まれた者は、死ぬまで苦労したという。

 その計り知れない苦労や苦悩を少しでも軽減するためにがんばる娘たちの足元を見る悪党が後を絶たず、女工に、芸者に、郭に、そして『からゆきさん』として海外へと売り飛ばしていた。

 いわゆる『人身売買』だが、当時の日本でそれは合法だった。

 だから、凶作の年は娘たちを安く大量に買い叩けるので、女衒(ぜげん)と呼ばれる悪党の連中は大儲けをしていたという。

 からゆきさんの仕事は、娼婦のみ。

 誰もが嘆き哀しみ、自身の運命や境遇を呪い、辛酸を舐め尽した事は想像に難くない。

 子は親を選べない。好きで部落民として生まれてきたわけではないのに、何故にここまで屈辱を味わねばならない?

 きっと誰もがそう思っていたことだろう。だから……、絶望の淵に佇んでいた何人ものからゆきさんたちは、次々と自ら命を絶ったと語り継がれている。

 同胞の壮絶で孤独な死を目の当たりにしながら、言いがかり以外のなにものでもない借金をなんとか返してから円満に祖国へ帰ろうとがんばっていたにも関わらず、病にかかれば容赦なく娼館を追い出され、着の身着のまま野垂れ死ぬしかなかったからゆきさんも……同じように後を絶たなかったらしい。

 『女』としてどころか『人間』としてのささやかな幸せも掴めなければ、天寿をまっとうしたからゆきさんも皆無に等しかったと聞く。

 それは、『精霊菩提』の数の多さを見れば、一目瞭然。

 ついでに、墓場にありがちな幽霊の目撃談も日常茶飯事。皆が口を揃えて古い着物姿の若い日本人女性を見たと言うのだから、浮かばれないからゆきさんの多さが容易に想像できる。

 墓守は、墓を守ることしか出来ない。

 彼女たちが自発的に成仏してくれることを願うしか出来ない。

 だから――。

 時間が止まったままの彼女たちの領域を出来る範囲内で当時のままで維持するため、墓守である更紗(さらさ)の一族は労力を惜しまない。

 それとは別に、更紗は更紗で、朝な夕なと歌いながら巡回をすることによってからゆきさん達を慰めようとしている。

 墓地公園の門に鍵がかかっていないことは周知の事実。

 更紗の祖母が墓地公園の裏に居を構えているので、夜間でも何か用事があればまずそちらへ声をかけるのが近所では暗黙の了解。

 付け加えるのであれば、この界隈に住む日本人は更紗の家族以外にはいないし、3~5年が一般的な海外赴任期間の日系企業の在星邦人が、わざわざ夜中にこんな縁もゆかりもない辺鄙な場所へやってくることも考えられないので、日本人限定で可能性があるとすれば……それは『観光客』でしかない。事実、過去にお気楽かつ酔狂な日本人観光客が墓地公園で『肝試し』をやろうとし、異様な騒がしさに様子を見に行った更紗の祖母とひと悶着を起こして大騒ぎになったことがある。その場に居合わせた更紗(さらさ)も開いた口がふさがらなかった。

 旅の恥は掻き捨て、なのかもしれないが、住んでいる者としては、やって良いことと悪いことの区別がつかない輩に情け容赦は無用。

 タチの悪さ加減では問答無用で地元警察に突き出すし、そこまでオオゴトにしなくてもよさそうな場合でも日本大使館に通報することもあるし、ほんの出来心で反省もしているのであれば、更紗なりの制裁を加えて厳重注意で終わらせる。

 警察にも大使館にも通報した経験はあるけれど、大多数は更紗の『特製制裁』でカタはついている。

 不法侵入者ふたりのうちの一人が墓地公園から早く出たいと怒鳴りつけているのが聞こえているので、今回もちょっと脅かして厳重注意するパターンで済みそうだった。

 更紗は籠の中から卵を取り出した。

 そして、懐中電灯の光付近をめがけ、矢継ぎ早に不法侵入のふたりへと卵を投げつけた。

「――うわっ!」

 『べしゃ』とも『ぐしゃ』とも聞こえる卵の割れた音と共に、混乱状態に陥ったであろう驚きの声が響く。

 このふたりは懐中電灯を取り落とさなかったので、更紗(さらさ)はありがたくその明かりをめがけて、そこまでしなくても……というくらい沢山の卵をぶつけた。

 当然の反応として、卵をぶつけられた相手は驚き、立ち止まってしまう。そこへ畳み掛けるよう全身にまんべんなく卵をぶつけると、相手は完全にその場から動けなくなる。

 そうやって足止めをし、その後の対応次第で更紗は警察か大使館か厳重注意かを決める。

 万が一、最後の悪あがきで逃走したとしても、卵まみれの姿から、墓地公園へ不法侵入したんだな、と察した近所の住人が警察へ通報してくれるから問題なし。

 忙しない都心はともかく、少し郊外に出ると、人種を問わずご近所のつながりが頼もしい。これも多民族国家の特徴だろう。

「うわっ! 誰だよ! なんだよっ! ちくしょ―っ!」

「頼むっ! やめてくれっ! 話せばわかるっ! 暴力反対!」

 割れた卵の殻を悔しそうに踏み潰す強気な少年と、頭を抱えてしゃがみこむ弱気なおじさんの元へ、更紗はすたすたと歩み寄っていく。

 見た目の年齢差から判断すると、親子か師弟関係のようだが、どっちにしても、どこかしっくりこない妙な組み合わせを訝しく思いながら更紗は躊躇うことなく、渾身の力でとどめ用の卵を少年の頭へぶつけてやった。

「――イテェッ! なんだよ! ゆでたまごかよ――っ?」

 見事に直撃を喰らった少年は、腹立たしそうに叫びながら懐中電灯を放り投げ、うずくまった。

 さすがに、『ゆでたまご』までぶつけられるとは夢にも思っていなかったらしく、何がなんだかわからないといった感じだ。

(今夜もナイス・コントロール!)

 満足げに微笑んだ直後、更紗は今夜もまたやるせなく顔を曇らせた。

 『なまたまご』だろうと『ゆでたまご』だろうと食べ物には変わりなく、食べ物を粗末にするのは許されることではないと重々承知なので、こういうことに遭遇すると多少は胸中複雑になる。 

 それでも敢えて生卵攻撃をしているのは、更紗(さらさ)なりの苦肉の策、だった。

 いかにして不法侵入者を速やかに撃退または警察に突き出そうかと考えていた時に、ふと、ある実話を思い出したのだ。

 第二次世界大戦中、日本はシンガポールを占領し、『昭(しょう)南島(なんとう)』と名づけ、シンガポールで生活する全員に『日本語』を強制した。

 日本語以外を話したら殺す、という無茶苦茶なことを平然とやってのけたのだ。シンガポールに住む人間にしてみれば、それだけでも十分すぎるほど屈辱だったというのに、ある日、日本軍は問答無用の大虐殺を行った。

 大人も子供も関係なく、十人くらいを一括りにして縄で縛って浜辺に立たせ、銃殺。

 一人がバランスを崩して倒れれば、全員が倒れる。倒れたところを今度はご丁寧に銃剣で刺して回ったという。たまたま他人の血を浴びたので死んだフリをして助かった人が、その時の光景を「人間が、浜に打ち上げられたマグロのようだった」と証言している。

 一説によると、日本軍が虐殺の場に浜辺を選んだのは、波が遺体を処理してくれるから……だそうだ。

 ところが、二十世紀も終わりに近づいたある日、なんの建設だったかは忘れたが、工事中にその浜辺からたくさんの人骨が出てきたものだから大騒ぎになった。

 おかげで、一時はおさまっていた戦争体験者であり遺族でもある方々の怒りが再び激しく表面化した。特に、華僑のお年寄りの積年の怒りと恨みは半端なく、中華街を訪れた、戦争を知らない世代の日本人観光客に生卵をぶつけるという出来事が相次いだ。

「あんた個人にはなんの恨みもないけれど、日本人は許せない」

 涙ながらにそう言いながら卵をぶつけ続けるお年寄りたち……。

 何度思い出しても胸が痛む話だし、何故にお年寄りたちが『卵』を選んだのかは謎のままだけれど、卵なら怪我をしないと思ったので、使わせてもらうことにしたのだった。

 ここ最近見かけなかった不埒者を久しぶりに仕留めた更紗(さらさ)は、ひと段落ついたので手早く行灯に火をつけ、不埒者の顔を確認した。

 一体、何が起こっているのかわからずにいる二人は放心状態だったので、浴衣姿で行灯を手にしている更紗を見ても無反応だった。

 純和風な顔立ちをした浴衣姿の女が夜中の墓地にいる、とくれば、大抵の者は条件反射で『幽霊』を連想して腰を抜かす。

 時には失禁というオマケもついてきてかなりの迷惑ではあるが、足止め効果は抜群なので、更紗はそれも狙っての浴衣姿だったりする――のに、どうやら今夜は不発に終わったらしい。

 無反応は予想外だったので、おもしろくない。

 やや憮然としながらも更紗は二人を一瞥し、重装備で来る墓泥棒・墓荒らしの類ではなく、逃走する気配もないと確信した。

 弱気だったおじさんは、見た感じでは三十代後半くらいだが、更紗が見慣れている

会社員には……とてもじゃないが見えなかった。

 教員にも旅行者にも飲食関係者にも政府関係者にも医療関係者にも見えない。

 かと言って、芸能人の類いでもなさそうだ。

 年齢不詳さを醸し出しつつそこそこの美形だから人目は惹くが、芸能人程のオーラはない。テレビや映画関係のスタッフにも見えない。

 時と場合によっては、人を見かけで判断してしまうのは失礼だし危険な事でもあるけれど、それでも大抵の人間は、生き様や職業が服装や雰囲気に滲み出ている。それを見て育っている更紗だから、首を傾げてしまう。

 年齢不詳はさほど問題ではないが、職業が読めないオトナは初めてだったからだ。

「……なんかムカつく」

 睨みつけられながらぼそっとそう言われたおじさんは、条件反射で肩をすぼめた。

 ――と、その時。

【――せつ……?】

「――えっ?」

 更紗は我が耳を疑った。

 この弱気そうなおじさんでは到底出せないであろう、とても貫禄のある渋い男性の声がはっきりと聞こえたのだ。

 それも、極度の驚きを含んだ声だった。

(せつ?)

 発音からして日本語なことは確かだったか、何を意味するのかさっぱりわからなかった。

 ……(季)節?

 ……(その)節?

 ……節(度)?

 ……雪(月花)?

……(そのまんま)拙? ――男性だし。

 瞬時にそれだけのことを脳裏に浮かべながら更紗(さらさ)は注意深く周囲を見回したが、この場には、生卵でぐちゃぐちゃになっているおじさんと、更紗とそう年齢は変わらなさそうな少年しかしない。

(誰が、居る……?)

 他の場所ならともかく、この墓地内で感じたことはありのまま素直に受け止めている更紗は、神経を研ぎ澄ませて周囲を窺った。

 墓地公園内で男性の気配は本当に珍しいので、丁寧にソレをたどって行くと、その出どころはすぐに特定できた。

 ――少年だった。

(……コイツ?)

 卵まみれで座り込んでいる少年を訝しげに凝視していると、その背後に誰かが立っているのが視えた。

 姿かたちははっきりしないでぼやけているが、どうやら成人男性のようだ。

(誰……?)

 その姿を、その存在をきちんと知ろうと、更紗は正面から『彼』を見て、声を出さずに語りかけてみた。しかし、更紗の存在に気づいた『彼』は、慌てて消えてしまった。

(消えた……?)

「何? なんだよ?」

 少年が気味悪そうな表情で声をかけてきたが、更紗(さらさ)は無視して彼の背後を怖いくらいじぃーっと見つめていた。

(コイツから離れたわけじゃない……よね?)

 何かが人間に憑依しているのであれば、それがどれだけ気配を消していても、完全かそれに近い状態で同化でもしていない限り、視える人には姿がブレてふたつ視えるという。

(ま、あたしは本職じゃないしね~。はっきり視えなくて当たり前か)

 詮無きことにはこだわらない更紗なので、あっさりと張り詰めた空気をほどき、二人に向かって声をかけた。

「こんばんは。あたしはココの墓守。貴方たちは?」

「――墓守ぃっっ?」

 すっとんきょうな声をあげ、飛び上がらんばかりの勢いでおじさんは反応した。

 先程まで見せていた弱気のかけらもなく、その変貌ぶりに更紗は少しばかりたじろいでしまった。

「……そう……ですけど?」

「おぉ~~っ!」

 おじさんは満面の笑みを浮かべながら立ち上がり、更紗の手を取ろうとした。

「――っ! ちょっと待って! そんな状態で触んないでよ―っ!」

 そんな状態――卵まみれにした張本人なのに、更紗は敏捷に後ずさりながら全身で激しく拒絶した。

「が~ん……」

 おじさんは打ちひしがれた声とあからさまに傷ついた表情で固まってしまった。

(な……なんなの? この人……)

 更紗は今までお目にかかったことのない反応をする不法侵入者に警戒心を強めた。

 一瞬でも怯んだら形勢逆転される……と更紗は強気なまなざしと高飛車な空気を醸し出しながら言った。

「動かないで。寄らないで。あたしの質問に正直に答えてくれたら、シャワーを貸してあげるから。だけど、少しでも挙動不審な態度を取ったら、この防犯ブザーを鳴らすわ。このブザーを聞いたら、墓地公園に不法侵入したヤツがいる、と近所の人が警察に通報してくれることになってるの。そうなったら、貴方たち、逃げられないからね。シンガポールは外国人の犯罪には特に厳しいから。嘘だと思うならその身で知ればいいわ」

「……てめぇは鬼か悪魔か?」

 卵まみれにされている少年が怒り心頭のまなざしを更紗に向けたが、それくらいのことで動じるほど更紗(さらさ)はやわじゃない。

「どこをどう聞き間違えたら『墓守』が『鬼』や『悪魔』になるのかしら?」

 揶揄を通り越して嘲弄になっている更紗に、少年の堪忍袋の尾が切れた。

「て……めぇ――っ!」

 勢いよく立ち上がり、更紗に詰め寄ろうとしたのだが――

「君はどれくらい『からゆきさん』について知っているのかな?」

 絶妙な間合いで、しかもまったくもって場の空気が読めていない口調のおじさんが、更紗に拒絶された卵まみれの姿で強引に二人の間へ割り込んできた。

「……」

「……」

 わざとなのか素なのか判断しづらいそのおじさんの言動に更紗と少年は勢いを殺がれ、なんとも言えない居心地の悪さに憮然とするしかなかった。

 更紗のしかめっ面を困惑と解釈したおじさんは、コホンと咳払いをした。

「驚かせてすまないね。私はこういう者です」

 おじさんはGパンの尻ポケットから一冊の文庫本を取り出し、更紗に差し出した。

「――えっ? ……嘘――っ」

 その文庫本のタイトル、『ガラスの迷宮』という言葉を見て、更紗は初めて動揺を露にした。

「え? なに? おまえ、知ってんの?」

 驚く少年に、更紗も驚きを返す。

「知ってるも何も……あたし、この『ガラス』シリーズの大ファンだよ……。著書は全部持ってるし。その最新刊も一昨日やっと入手できて一気に読んだもん」

「は? 一昨日に入手? その新刊、先月発売してるぜ? コイツ、そんな売れっ子じゃねーから、いくらなんでもそこまで取り寄せに時間かかんねーだろ?」

「……身も蓋も無い言い方してくれるねぇ~、辰哉(たつや)くん。そんなずけずけと無神経に物を言う息子に育てた覚えはないんだけどなー。とーさん、悲しいよ……」

「うるせーうるせー。事実は事実だろが!」

「しくしく……」

「――えぇ~~~っ?」

 さっきまでの大人びた冷静さはどこへ行ったのか、更紗(さらさ)は自分でも気付かないうちに年相応の素の表情に戻って驚いていた。

「貴方があの二葉亭辰郎(ふたばていたつろう)で、アンタが息子なのぉっ?」

「いかにも」

「……つーかさ、コイツの著書全部読んでんなら、コイツの顔くらい知ってんだろ? 全部に著者近影入れてんだからさ」

「……生憎、あたし著者には興味なくて、一度も著者近影なんて見たこともないのね」

「が~ん……」

 著者には興味が無い、とはっきり言われてしまった作者の二葉亭辰郎はへなへなと座り込んでしまった。

 その演技過剰にしか見えない言動に怯みつつ、煙に巻かれないよう気を引き締めながら更紗は強引に話を戻した。

「で? ラノベだけれどミステリー作家として有名な二葉亭辰郎センセイが、こんな夜中に墓地公園へこっそり忍び込んで何がしたかったんですか?」

「――っ!」

 今更?と突っ込みたくなるような間合いで、辰郎は我に返った。

 そして逡巡し、腹を括ったような表情になったかと思えばすぐにバツが悪そうに視線を泳がせ、しばらく百面相をした後にやっと蚊の鳴くような声で答えた。

「…………取材を……」

「取材?」

 更紗は首を傾げた。

 辰郎の言葉の意味がわからなかったのだ。

「えぇ……。ここに眠る『からゆきさん』についての取材を……したかったんです……」

「……」

 からゆきさん、という言葉がさらりと出て来たことに更紗(さらさ)は驚き、息を飲んだ。

 更紗がどう対応しようかと大慌てで考え始めた時、息子が呆れた口調で言った。

「はぁ? 取材? まさかコイツに? こんなイカれた格好してる――」

 みなまで言わせずに、更紗は渾身の力で籠の中身をひとつぶつけてやった。

「――イテェ! ちくしょーっ! またゆでたまごかよっ!」

 ゆでたまごの直撃を頭にくらった息子は勢いでバランスを崩して尻もちをつき、反動か弾みで後ろにひっくり返った。

「口は災いの元。特にこの国では、事情を知りもしないで、見た目で人を判断すると痛い目に遭うわよ」

 更紗のその大上段な言動に我慢ならなかった息子――辰哉――は素早く立ち上がって更紗に詰め寄り、何事かと一瞬怯んだ更紗に構うことなく彼女の持つ籠から卵を奪い、軽やかに数歩下がってから、奪った卵を更紗の頭めがけて投げつけてやった。

「――っ!」

 見事に直撃を喰らった更紗は、初めての経験(こと)に何が何だかわからず、ただ目をぱちくりさせるしかできなかった。

 辰哉は更紗をまっすぐ見据えながら言う。

「口は災いの元。事情を知りもしないで、見た目で人を判断すると痛い目に遭う――っての、そっくりそのまま返してやんよ!」

「……」

 半端ない怒気に、更紗は不覚にも言葉を失ってしまった。

 ややあって気押されていることに気付いた更紗が、負けずにやり返そうと頭をフル回転させた時だった。

「取材をね……したかったんです。――『からゆきさん』の……」

 一触即発な空気を感じて……いない二葉亭辰郎(ふたばていたつろう)が、更紗(さらさ)と辰哉の間に再度割って入り、怖いくらい真剣なまなざしで更紗にそう告げた。

「…………」

 更紗は大きくため息をついた。

 今、何が起こっているのか正確に把握するためには、まず、この作家・二葉亭辰郎の話を聞くしかないな、と更紗は気持ちの態勢を整え直した。

「夜中の墓地公園に忍び込んでまでしたかった『からゆきさん』の取材って何ですか?」

 更紗の真面目な対応を感じ取ったらしく、二葉亭辰郎も姿勢を正して答える。

「私なりに色々と調べたところ、この平成の世になっても、シンガポールの日本人墓地公園には夜な夜なからゆきさんの幽霊が目撃される、と知ったので……もし本当なら、会って取材をしてみたいと思って……」

「……貴方は幽霊とお話ができるんですか?」

 少々どころかはっきりと呆れている更紗の冷たい表情を気にすることなく、二葉亭

辰郎は生真面目に答える。

「いえ、会いたいと思っても幽霊に会えたことはないし、話もしたことありません」

「それなのに?」

「ええ。それでも、墓地公園に来れば……墓地公園は特殊な場所ですから、『からゆきさん』に会えなくても、話ができなくても、何かを感じることができるのではないかと思って……」

「……はぁ」

 あながちソレは間違いではないけれど……

「新作は、『からゆきさん』がモチーフなんですか?」

 二葉亭辰郎は『ライトノベル』と呼ばれている種類の作家なので、更紗は疑問をそのままぶつけていた。

 二葉亭辰郎は微苦笑を浮かべた。

「いえ、違います。さすがに、十代から二十代をターゲットにした、娯楽性の高い小説として市民権を得ているラノベで扱えるほど、『からゆきさん』は軽くないですから」

 だよね……、と合点がいって安心した更紗(さらさ)の傍らで、寝耳に水、と言わんばかりに辰哉が驚いて思わず口を挟んでいた。

「――えっ?マジでっ?」

 視線を移した二葉亭辰郎は、微笑を浮かべた。

「その様子だと、また、辰哉くんは人の話を最後まできちんと聞いていなかったね?」

「……」

 心あたりがあるのか、辰哉は視線を泳がせた。

「いずれ何かの形で『からゆきさん』のことを小説に書けたらいいな、とは思っているけれど、そんな不確定な未来の為じゃなくて、……君の為に現地取材に行くよ、って、とーさん何度も確認して了承得たはずなんだけどなー」

「……そうだっけ?」

 渡りに船だ!と思ったことしか覚えていない辰哉は、反応に困る。

「辰哉くん、机に向かいながら、時々、「からゆきさん」とか「信じらんねー」とかぶつぶつ言ってたろ? 歴史に目覚めた息子の為に一肌脱ぐのが親ってモンだからね!」

 ……最近の流行り言葉で言うところの『ドヤ顔』の二葉亭辰郎に軽く引きつつ、このあたしに生卵をぶつけるという前代未聞の暴挙に出た息子に一矢報いてやろうと、更紗は意地悪な口調で言った。

「へぇ~、アンタ、『からゆきさん』に関する歴史に目覚めたんだ? 『からゆきさん』関係って複雑な歴史だし、多くの『からゆきさん』が眠るこの墓地公園の墓守としては、生半可な知識を振りかざされるのもイラつくのよね」

「……何が言いてぇんだよ?」

「……『からゆきさん』って、何? 過不足なくきちんと答えられたら、シャワーを貸してあげるし、着替えも用意してあげる」

「……答えられなかったら?」

「シャワー、貸してあげない。そのままの姿でホテルへ帰ることね」

「オマエ、筋金入りの鬼悪魔だな……。サイテー」

「負け犬の遠吠えは、結構」

「……」

 マジでムカつく、と不機嫌全開になりながらも、辰哉は更紗(さらさ)を正面から見据えてはっきりと言った。

「……『からゆきさん』ってのは、外国に行って金を稼ぐ女のこと」

「それだけ?」

「うるせぇ。黙って最後まで聞きやがれっ!」

「はいはい」

 更紗は肩を竦めた。

「……いちいちムカつく奴だな」

「まぁまぁ辰哉くん、そんなにイライラしないで、早く正解を言って、シャワーを借りようよ。自業自得とはいえ、このたまごのぬるぬる、気持ち悪くてとーさん泣きそうだよーっ」

「触ンな!」

 頭や顔や腕などに当たって割れた生卵が垂れてきた手で肩をポンポンと叩かれた辰哉は、心底嫌そうにその手を払った。

 そして気を取り直し、続けた。

「……『からゆきさん』の『から』を漢字に直すと、『唐絵』とか『唐織』とか中国からきたものを表す『唐』になる。だから、『唐』は『中国』を指し、そこへ『行く』人、ということで、『からゆきさん』という言葉が生まれた。そのうち、『唐』は中国だけではなく『外国』を意味するようになり、『からゆきさん』とは『外国に行ってお金を稼ぐ女性』という意味で使われるようになったんだよ」

 へぇ~、と更紗は素直に感心していた。

 自分とそう年齢が変わらないであろう男子が、そこまできちんとよどみなく『からゆきさん』の説明ができるとは露ほどにも思っていなかったからだ。

 からゆきさんや歴史に目覚めた、というのは、どうやら本気で本当らしい。

 でも、何故? 何がきっかけで?

 好奇心が芽生えた更紗は、素直にそれを口にしようとしたのだが……

「おぉ~っ!辰哉くんっ!すごいじゃないかっ!」

 狂喜乱舞、に近い反応で二葉亭辰郎が辰哉の両手を取ってブンブン上下し始めたのだ。

「……」

 なんなんだこの親子は……。

 友達親子、みたいなノリの父親は初めて見たので、どう接すれば、どの間合いで口をはさめばいいのか……見当がつかない。

「最近、ぶつぶつ独り言が増えてるような気がして、とーさんとても心配だったんだけど、声に出して色々覚えていたんだね!」

「……だからぬるぬる状態で触ンなって!」

 あぁもうっ!と鬱陶しそうに父親の手を跳ねのけつつ、辰哉は微かに動揺しているような視線の泳がせ方をしていた。

 見るとはなしに二葉亭親子のやりとりを見るしかなかった更紗(さらさ)だから、息子のその不自然な空気もばっちりと捉えていた。

(……なんなの?)

 何かがしっくりとこない。

 一体、何がひっかかるんだろう?と、更紗が目を凝らして辰哉を見ようとしたら、辰哉と目が合った。

「正解、だろ?」

「――え?」

「からゆきさん、の説明。文句なしの満点レベルだろ?」

「……そうね。悔しいけれど、大正解だわ」

「やったね!」

「どこで習ったの?」

「え?」

「そんなに詳しく、きちんと丁寧に、どこで習ったの?」

「え……いや、別に――」

「学校?」

「え?いや……」

「そうよね……。日本の中学校で『からゆきさん』を詳しく教えるなんて聞いたことないし」

「……」

「そもそもなんで、あんたみたいな運動や部活や遊びに全力投球していそうな雰囲気の十代男子が、知る人ぞ知る、レベルな『からゆきさん』に興味を持ったわけ? 日本でふつーに生活してたら、まず、接点ないわよね?」

「……」

 うっ、と言葉に詰まったままバツが悪そうにしている辰哉に、二葉亭辰郎が助け船を出した。

「それはきっとたぶん、倉で何か資料を見つけて興味を持ったからなんじゃないかな?」

「倉? 資料?」

 更紗(さらさ)は二葉亭辰郎に視線を移した。

「ええ。うちは、先祖代々物書きの家系でしてね、一番売れて有名になって歴史にも残ったのが――」

「ストーップ!」

 突然、辰哉が父親の言葉を遮った。

「それ以上言うなって」

「どうしてだい?」

 心底不思議そうな表情の父親に、息子は呆れる。

「先祖は文豪。それに比べたら、親父は邪道なラノベ作家の端くれ」

「辰哉くん……それはあんまりじゃないかい? とーさん、悲しくて泣いちゃうよ?」

「泣け泣け。泣いてその『思い立ったら即行動』を反省して二度と繰り返すな」

「しくしく……」

 出会ってからさほど時間は経っていないけれど、その間に何回、この泣き真似を見たかなぁ?と、いささかうんざりしている更紗に、辰哉が続けた。

「聞いての通り、ウチは、親父の代まで先祖代々物書きなんだよ。売れたヤツもいれば、無名のままだったヤツもいて……。親父に関しては、親父の名誉の為に伏せとく

けどさ」

「しくしく……」

「たまたま、学校の社会で調べ物があってさ。ウチの倉は古い書物とか専門書とか資料をごっそり保管してるから、そこらの図書館より使えるんだ。そこでがさごそ何か使えねーかなって探してたら、偶然『からゆきさん』に関するモノが出て来て……何気なく読んでみたら気になって、読み漁っただけの話」

「ふーん」

 そういうこともあるんだ、と更紗(さらさ)は納得していた。

「で、親父がどこでソレを嗅ぎつけたのかはわかんねーけど」

「嗅ぎつけた、なんて失礼な……。辰哉くんが読書しながらぶつぶつ何か言ってたり、虚空を睨み据えながら『からゆきさん』とか、どうやら歴史的なことの独り言を口にしてたりする時間が増えたように感じたから、だったら、『からゆきさん』ゆかりの地に連れて行った方が何かすっきりするかもしれない、って思った親心なのに……しくしく」

「……」

 また、辰哉はバツが悪そうな表情になって目を泳がせた。

 ややあってから、辰哉は言った。

「ま、親父の話は話半分で流しといてよ。作家だからか、すぐ話を盛るからさ」

「盛ってない~~~っ!」

「う、うん……」

「悪かったな、夜中に」

「――え?」

「コイツ、思い立ったら即行動、でさ」

「あ、うん……」

「次からは、取材する時には先にきちんとアポ取らせるから、今日のところは勘弁してくれね?」

「え? あ、う、うん……」

 急に話を変えられ、たたみかけられ、何が起こったのかと状況を整理する暇も与えられず、この件は辰哉によって強引に終りにさせられる流れになっていた。

「じゃあ、約束通り、シャワー貸してよ」

「……わかった。あたしはまだやることが残ってるから案内できないんだけど」

「やること? こんな夜中に? 墓地で?」

「詮索するな、とは言わないけれど、今は時間がないから色々と訊かないで」

「――わかった」

「ありがと。……ここから時計回りに進むと、裏口へ出るから。裏口を出ると、母屋と離れのような造りの建物があって、手前の小さな建物が、シャワー・ルーム。サイズが合うかどうかはわかんないけど、一応、着替えも置いてあるから自由に使って」

「わかった」

「助かります」

「シャワー浴びたら、そのまま帰っていいわ」

「――え?」

「言ったでしょ? あたしはまだやることがあるって。だから、タクシー呼んであげられないけど、大通りへ出ればタクシー拾えるから」

「わかった」

「じゃあね」

 更紗は行燈に火を点け、踵を返した。

 卵の殻の掃除は、夜が明けてからだ。

 短時間で色々なことが起こり過ぎたので、頭を冷やして状況を整理するためにも、とりあえず、日常に戻ろう。

 更紗は深呼吸をしてから、再び歌をうたい始めた。



               2



【もし……】

 不意に、背後から声をかけられた。

 聞いたことのない声だったが、イヤな感じはしなかったので、更紗(さらさ)は立ち止まって振り返った。

 藤色の着物姿と華奢な身体つきが印象的な二十歳前後の女性が、碑の傍で佇んでいた。

【夜分に遅く、お忙しいところ申し訳ございません……】

 誰だろう? と更紗は首を傾げた。

 正確な数がわからない程のうら若きからゆきさんたちが眠るこの墓地公園では、夜な夜な、ふらふらと当てもなく彷徨っているからゆきさんと遭遇することが珍しくない。

 からゆきさんたちは、似たり寄ったりのみそぼらしい着物姿と幸薄い独特の空気を醸し出しているので、見ればすぐに分かる。そして、ほぼ全員、更紗を感知するとすーっと消えてしまうのが特徴だ。

 更紗に危害を加える者もいなければ、更紗と接触しようとする者もいない。

更紗が歌う、懐かしい祖国の古い歌に少しずつ心を癒されているようだけれども、

皆、まだまだ自分の殻に硬く閉じこもっている。

 死してなおこの世に留まり、憎んでも憎みきれないこの異国の地から離れることができないくらい、彼女たちの魂は傷ついているのだ。

 それを感じ取っている更紗は彼女たちを見かけてもそっとしていただけに、まさか声をかけられるとは思わず、きょとんとしてしまった。

(……あれ? この女性、どこかで見たことがあるようなないような……?――って、ここで眠る人に知り合いなんていないのに?)

 更紗に声をかけ、そのまま更紗の反応を待っている女性――間違いなく、幽霊だ――は、絽(ろ)の着物をきていた。

 裏のない単(ひとえ)は、夏の着物を意味している。絽や紗(しゃ)の着物は裏がなくて透き通る素材なので、下に模様がより浮き出るよう意識した薄い着物を着るのがたしなみだ。訪問着の着こなしを自然としているので、それなりに裕福な家柄の出身だろうと見当がつく。

 ……となると、彼女はからゆきさんではなさそうだ。

 墓守が所有するからゆきさんや墓地公園に関する文献によると、からゆきさんは高額な報酬で仕事をしている割には取り分が非常に少ないので最低限の生活もままならず、一度病気をすると情け容赦なくあっさりと解雇されたという。

 解雇後は、身寄りはいないしお金もないので満足に医者にもかかれず、のたれ死ぬしかなかったらしい。

 だからなのか、死後、彼女たちはこの地で怨霊化して暴れていた。

 あからさまに昔の日本人女性だとわかる姿で、誰彼構わず危害を加えるので大問題になり、苦肉の策として、代々の墓守が鎮魂歌(レクイエム)を歌って魂を慰めること試みた。

 それが功を奏し、それなりに長い年月をかけ、更紗(さらさ)の代になってやっと沈静化の兆しを見せ始めたのだ。

 とはいえ、今まで誰一人として更紗に対して親しげに声をかけてきた幽霊はいない。

(からゆきさんじゃないとすれば……誰だろう?)

 墓地公園にはからゆきさん以外にもいろんな人が眠っているが、きちんとした名簿や顔写真付きの資料があるわけではないし、眠っている人がどういう人生を歩んだのかも知る手立てがないので、墓標で名前は確認できても顔と一致することはまずない。更紗が反応に困るのは、自然なことだった。

 そんな更紗に、幽霊の女性は微笑みかけた。

【突然姿を見せ、驚かせてしまって申し訳ありませぬ。わたくしは、如月雪子(せつこ)と申します】

「え……? 如月……雪子?」

 更紗は、鳩が豆鉄砲を喰らったような表情になって固まった。

【ええ……】

 笑顔で肯定されてもそんなすぐに信じられない更紗はしばし強張った表情のままだったが、言われてみて思い出し、納得した。

 どこかで見たことがあるようなないような……と感じたのは、からゆきさんに関するちょっとした資料館も兼ねた別棟にある先祖代々の肖像画のひとつに面影が似ていたからだ。

 目の前の姿はどう見ても二十代前半で、肖像画の方は三十代以降らしいからすぐにはわからなかったけれど、よくよく見れば、間違いなく、肖像画の本人だった。

 安心した更紗(さらさ)は呼吸を整え、それから新たに浮上した疑問を口にした。

「えっと……、如月雪子サンと言えば……ご先祖サマ……ですよね?あ、あたし、如月家の末裔の如月更紗……です」

【知ってるわ。いつも、手抜きをしないお掃除と素敵な歌をありがとう。皆、感謝しているはずよ】

「あ……それはどうも……」

 更紗は照れながらも続けた。

「あのぉ……」

【なにかしら?】

「如月家……というか、シンガポールで墓守としての如月家は、雪子サンから始まったと聞いているんですけど……」

【ええ。そうね】

 雪子は、どこまで上品なお嬢様といった感じの声と雰囲気で佇んでいる。

「波乱万丈の人生を送った雪子サンは、当時にしては珍しく長寿で……老衰で亡くなったと聞いてるんですけど……」

【ええ。間違いないわ】

「……」

 更紗はなんと言えば失礼にならないかと考え込んでしまった。

【それが、どうかしたかしら?】

「えっと……」

 不思議そうな表情で先を促され、更紗は雪子の顔色を窺いながら、言いにくそうに言った。

「長生きして……老衰で亡くなったのに……その……えっと……ハタチくらいの……姿なのは……何故……なんでしょうか……?」

【ああ……】

 なんだそんなこと? と、雪子(せつこ)は少し寂しげな微笑を浮かべながら淡々と答えた。

【わたくしの人生の中で、この時代が一番幸せでしたの……】

「……」

【わたくしもまた、輪廻転生の輪に戻ることを拒んでいる『からゆきさん』の一人です】

 雪子は、愛しそうに……せつなそうに碑に頬を寄せた。

「……」

【一生のうちで五年にも満たない短い時間だったけれど、あの人と過ごした時間が、一番幸せだったの……】

「……」

 あの人、とは、雪子の夫となるはずだった男性を指していた。

 雪子の悲恋話は更紗も祖母から聞かされて知っているので、それを本人の口から聞くのは辛いものがあった。

【あの人は新聞記者としてモスクワからの帰国途中にベンガル湾洋上病死し、遺体はここで荼毘(だび)に付されたけれど、骨は日本へ帰った……。墓地公園にあるのは、彼が新加波(ここ)と縁があったことを示す『記念碑』のみ……。中は空っぽ……】

「……」

【彼はきっと……すでに輪廻転生の輪の中に戻ってるわ……。何も感じないもの……。彼が亡くなった直後から、ずっと……】

「……」

【それが正しい……自然な流れだと頭で理解していても……わたくしは、……わたくしだけは、忘れたくない……。あの人と過ごした時間を忘れてまで……来世を生きたいとは……思えない……。輪廻転生の輪に入らなければ遅かれ早かれ消滅するしかないけれど、……それならそれで、せめて一言―――】

「……」

 言いかけて、雪子は静かに首を横に振った。辛そうに目を瞑って眉根を寄せ、そっと碑に寄り添った。

 せめて一言――。

 雪子(せつこ)が続けたかったその先を、更紗(さらさ)は容易に想像できていた。

 せめて一言、伝えてから消滅したかった。

 それが良い知らせなのか悪い知らせ……恨み言なのかはわからないが、雪子はずっと何か一言を伝えたかったのではないかと更紗は思った。

 ――愛した人に。

 成仏できずにこの世に留まる魂には、何かしら心残りがある。

 その心残りが無事に消化されれば自然と輪廻転生の輪に戻れるのだが、心残りを抱えたまま長時間この世に居座ると、魂は消滅してしまうらしい。

 それも祖母の受け売りだし、当然のことながら更紗にはそんな経験はないので、消滅する基準だとか消滅する予兆があるのかどうかもわからないが、消滅した魂を見たことはある。……この墓地公園内で。

 雪子は、愛した人の死に目に会えなかった。

 会えなかっただけではなく、その時、既に身ごもっていたことも伝えられなかった。

 その後、生まれた子供は双子で、一人は男子だったので跡取りとして彼の実家へ養子縁組をさせ、自分は娘と共に彼との思い出の地で『墓守』として生きることを選び、骨を埋めたのだ。

 からゆきさんとして生きた時代、愛する人と生きた時代、愛する人に先立たれてからの時代……、彼女が何を思い、どんな風に過ごしてきたのかはわからないけれど、天寿を全うしてもこの世から離れられないところをみると、何かしらの心残りがあるに違いなかった。

 そして、その心残りをもう内に秘めておくことができなくなった。

 ひょっとしたら、雪子の魂も消滅間近なのかもしれなくて、それで、姿を現したのではないかと……更紗はとてつもなく不安になった。

 かといって、それを本人に言うのも気が引けたので、言いたいことがあるなら聞く、と更紗は言葉ではなく醸し出す雰囲気でそう伝えながら雪子と対峙している。

 それが伝わったのか、雪子はそっと目を開き、碑を見つめながら言った。

【とても懐かしい気配がしたの……】

「懐かしい気配?」

【そう……あの人の気配が、したの……】

「あの人……?」

 更紗(さらさ)は、訝しげなまなざしと口調で問い返した。同時に、先程の得体の知れない、この墓地公園の住人ではない成人男性の霊体を思い出していた。

(もしかして、あの成人男性……?)

 更紗は、雪子の愛した男性の姿を知らない。

 知っているのは、名前と職業だけだ。

 だから、人違いだったら雪子を傷つけてしまう。さっきの成人男性の霊体のことを言おうかどうしようか迷っていると、雪子が自嘲気味に言った。

【有り得ないのにね……。墓地公園には骨もないし、あの人はとっくの昔に成仏しているっていうのに……あの人の気配がしたなんて感じて……。いい加減、長く自然の摂理に逆らいすぎておかしくなってしまったのね、わたくし……】 

 雪子は疲れ果てたような溜息をひとつこぼした。

【ごめんなさいね……。いきなり姿を見せて驚かせてしまって……また、おとなしく

眠りにつきますわ……】

「待って!」

 すーっ、とそのまま消えようとした雪子を、更紗は呼び止めた。

【……?】

 不思議そうに首を傾げる雪子に、更紗は言った。

「あのっ、彼の気配がどんなのかあたしにはわからないけれど、それって、えっと、見た目も声も渋くて……結構イケメン……えっと、ハンサム……男前な中年男性、ですかっ? 時代的には、結構前! 明治が大正か昭和初期くらいかも! なんとくなくの雰囲気ですけど……。戦前・戦中・戦後っぽい感じじゃなかったから……その前の時代かなぁ?と」

【―――っ!】

 雪子は驚愕に目を見開いて息を飲んだ。

「なにがどうなってるのかよくわかりませんけど、さっき、一瞬だけだったけど、そんな男性が、居たんです! 『せつ……』って一言だけ言って、あたしに気づいたら消えちゃったんですけど……」

【……】

 雪子(せつこ)は驚いたまま、ふらりとよろめいた。

「雪子サン!」

 支えようと更紗は雪子に手を差し伸べたが、更紗の手は雪子の体をすり抜けた。

「あ……」

【あ……ごめんなさい……。大丈夫よ】

 雪子は大きく息を吐き出しながら居住まいをただした。

【ねぇ、更紗(さらさ)】

「はい?」

【お願いがあるんだけど……】

「……なんでしょう?」

 雪子の鬼気迫る勢いに、更紗は少しだけ後ずさった。

【貴女が感じた『彼』が誰だったのかを……調べたいの。協力してくれないかしら?】

「……は?」

【ほら、わたくしたち、ちょっとおいたが過ぎて……墓地公園から出られなくなったでしょう?】

「あ……はい……そうですね……」

 更紗は苦笑した。

 その昔、あまりにもからゆきさんたちが悪さをするので、迷惑を被った人々が地元の霊能力者……というか拝み屋さんに頼んで、成仏できないからゆきさんたちを墓地公園から出られないようにしてもらったらしい。

 更紗が生まれる以前の古い話なので信憑性には欠けていると思っていたのだが、雪子の反応からして、未だにそれが活きていることに更紗は驚いていた。

(あのババア、ほんとに凄いんだ……)

 思い出したくない相手を思い出した更紗は、無意識で嫌な顔をしていた。

【更紗?】

「え?あ、ごめんなさい。聞いてます」

【そう? 嫌なら嫌だと言ってくれて構わないんだけれど……、そういう理由で、更紗のカラダを貸して欲しいの】

「え、えぇ……っ?」

 魂消る更紗(さらさ)に、雪子(せつこ)は微笑む。

【警戒しないで。カラダを乗っ取ったりして危害を加えるわけじゃないから。ちょっとの間、更紗を隠れ蓑にさせてもらいたいだけだから】

「え? それって、どういうことですか?」

【髪の毛でね、繋がらせて欲しいの】

「は? 髪の毛?……?」

 更紗は、無造作に結わいている髪に手をやった。

【更紗。髪を、おろしてくださる?】

「あ、はい……」

 言われるまま更紗が髪をほどくと、雪子は自分も束ねていた髪をほどき、ひとすじの髪を更紗の髪へと近づけてそっと絡めた。

【これでわたくしたちはつながりましたわ】

「はぁ……」

 半信半疑な更紗に、雪子は微笑みかける。

【わたくしたちは血族なので、一緒に行動していてもまず気付かれないはず】

「……」

自信たっぷりな雪子とは対照的に、更紗は渋い表情だ。

「もう……雪子サンはあたしから離れることはできないんですか?」

【……え? そんなことはないけれど……。ひょっとして更紗、迷惑だったのかしら? ……ごめんなさい。離れるわ。この話はなしにしましょう】

「いえ、違うんです!」

【え?】 

「未だに……って言っていいのかわかんないけど、拝み屋、ちらほら健在です。あたし、ひとり厄介な拝み屋に目をつけられてるんです。墓守だからか、墓地公園以外でも幽霊と接触する機会が少なからずあって……それがどこからともなく拝み屋たちの耳に入ったらしく、結構、幽霊が出現した現場で鉢合わせするようになっちゃったんです。あたし、幽霊に対する考え方が拝み屋たちと違うから……それで余計に犬猿の仲みたいな関係になってて……」

【……】

更紗(さらさ)は心底嫌そうに溜息をつき、雪子(せつこ)は心配そうに更紗を見ている。

「だから、拝み屋たちって、あたしに対しては必要以上に厳しい目を向けていると思うんです。彼女たちは幽霊に関するプロだから、何かの拍子に少しでも身の危険を感じたら、とりあえず、全力で逃げて欲しいから……雪子サンの意思で自由にあたしから離れられるのかを訊いたんです。ヤツら、成仏できずに彷徨っている浮遊霊を見かけたら、問答無用で消滅させちゃうので」

【―――っ!】

 雪子の顔色が変わった。

「だから、気をつけてくださいね」

【……ありがとう。墓地公園から出たら、充分気をつけるわ】 

「お願いします」

 ぺこりと頭を下げた更紗に雪子は微笑んだ。

【ありがとう。では、わたくしは、そろそろ失礼するわ。用事があれば、いつでも声をかけてくださいな。姿を現しますから】

「わかりました」

おやすみなさい、と雪子は静かに姿を消した。

更紗は再び歌を口ずさみながら、墓地公園を後にした。



               3



【会いたい】

「あ?」

 今度はなんだよ? と辰哉はげんなりしながら反応していた。

 唐突に訳の分からないことを口走るのは父親だけで充分なのに、血は争えないことが証明された昨今、いずれ自分もそうなりかねない遺伝子が含まれていることを思い知らされて気が滅入る辰哉だ。

【会いたい、と言ったんだよ。ぼうず】

「それは聞こえたさ」

【だったら、いちいち聞き返すな。二度手間だろうが】

「聞き返したわけじゃねーよ。誰に?って意味だったんだよ。それくらいわかれよな、おっさん」

【日本語はきちんと使え】

「……」

 文豪なだけあって、その一言はずしりと辰哉の心に響いた。

 ちえっ、と言い返す言葉が見つからない未来は、本日二本目のコーラを飲み干した。改めて、熱いシャワーを浴びた後の火照った体に冷たい飲み物は心地良い。

 二十四階建ての高層マンションの最上階を、辰郎と辰哉の父子(おやこ)は借りていた。

 最上階は一戸の内部が2階にまたがるメゾネットという造りで、シンガポール国内では、どこの地域でもメゾネットのマンションは高級とされている。

 ふぅ~、と息を吐き出しながら、辰哉はベランダにて夜空と夜景を眺めていた。傍らには、体格がよくて渋い中年男性が佇んでいる。

「で、誰に会いたいわけ? いい加減、名前とか特徴とか教えてくれてもいいんじゃね? 『からゆきさん』だけじゃ、わかんねーよ、オレ。あんま詳しくないし。ま、手掛かりとか慣れ染めとか詳しく言いたくないなら無理に聞きやしねーけど、見つかったんなら、約束通りオレから離れてくれよな。おっさん」

【期待に添えなくて申し訳ないが、探し人はまだ見つかってない……。というより、来星して数時間で見つかるわけがないだろうが】

「そうかぁ? 結構、ほっつき歩いたじゃん、今日」

【日用品を買いに走っただけで見つかるか】

「そうでもないだろ?」

【?】

「墓地」

【あ……】

「オレにとっては最低・最悪だったけど、おっさんにとってはラッキーだったろ?」

【……そうだな。収穫は充分にあった】

 おっさんは、やるせなさそうに夜景へと視線を移した。そのまま辰哉とは目を合わせず、半ばひとりごちるような口調で言った。

【哀れなものだな……】

「え?」

【あの地に留まる者……とくに『からゆきさん』と呼ばれていた女性は皆、己のことしか見えておらん。己を抱きしめ、何かから身を守ることだけに必死になっている。何かから逃げようとそればかり考えている。もう何も彼女たちを苦しめることはないというのに……。自分で自分を苦しめていることや、既に己が死んでいることすら理解できていない者も、少なくなかった……】

「……」

【それだけ、生前が辛く、悲しみしかなかったのだろうな……。想像に難くない】

「なぁ……」

 辰哉も遠くの夜空を見たまま、遠慮がちに口を挟んだ。

【なんだ? ぼうず】

「嫌でなかったらさ、も少し詳しく、その探してる人も含めて、『からゆきさん』っての、教えてくんない?」

【……】

「オレが倉でめっけた資料だと、通り一遍のコトしかメモってなかったような気がして……イマイチよくわかんねーんだよな。その『からゆきさん』が生まれた事情も、なんでおっさんが彼女たちに興味を持ったのかも……」

【……】

「も少しオレがきちんとその『からゆきさん』に関する情報を正確に丁寧に理解できたら、明日からの捜索に多少は貢献できるかも、じゃん? ココに滞在できるのも、期間限定だし」

【そうだな……。ありがとな、ぼうず】

 おっさんは目を細め、やるせなさそうに一息ついてからゆっくりと話し始めた。

【おさらいになるが、『からゆきさん』とは、昔……明治の頃、家が貧しく、家計を助けるためにと必死で働いていたら騙され、異国へと売られた娘たちのことだ。ここにも多数の娘が売られてきた】

「遠いよな……明治時代だったらなおさら」

【ああ……。ここは……船で一ヶ月くらいかかったかな? 船は船でも密航だから、狭い船底に二十人前後が押し込められ、飯は日に三度、ひからびた握り飯が上から落とされるだけだったらしい。到着するまでそこから出して貰えず、道中、命を落とす者も多数いたらしいな。皆、ぼうずとそう年齢(とし)は変わらない娘たちだった】

「マジかよ……」

 若い娘、とは資料に書いてあったが、まさか、そこまで若いとは思っていなかった辰哉は驚いておっさんの横顔を見上げた。

 おっさんはとても悲しそうだった。

【家が貧しい故、郷里の親兄弟たちに少しでも多く送金できる仕事が欲しいとせつに願う娘たちの心につけこんだ汚い商売が当たり前だったんだよ。あの当時は。人身売買も、合法だったからな……】

「……」

【命からがら異国へ辿り着いた娘たちは訳が分からないまま『せり』にかけられ、多額の借金を背負わされ、女郎になった】

「じょろう?」

【……遊女のことだ】

「ゆうじょ?」

 真剣にきょとんとしている辰哉に、おっさんはニガワライした。

【……遊女とは、宴席で歌い踊り、場合によっては客と一夜を共にする商売をしていた女性のことだ】

「それって、売春みたいなモン?」

【……そうとも言うな】

「……」

 命がけで辿り着いた外国で売春……家族に送金するためだけに、外人相手に売春……。

 たまんねーな、と辰哉は胸が痛むのを感じた。

【娘たちは、娼館の主人(おやじ)や女将(おかみ)に買われて行くんだ。おまえを六百円で買ったんだから、最低六百円分はきっちりカラダで稼いで返せ、というわけだ】

「マジひでぇな……それ」

 そんなことがまかり通っていたという事実に、辰哉は唖然とするしかなかった。

【借金もそうだが、春をひさぐことに耐えられなくて首をくくる娘もいれば、海に身を投げる娘も後を絶たなかった】

「……想像つく」

【元は、朝鮮や中国など、比較的日本に近い異国へ出稼ぎに行くのが主流だったから、『唐行(からゆき)さん』と呼んでいたんだ。そのうち、インドやロシアやシンガポールなどへも出稼ぎに行くようになり、まとめて『からゆきさん』と呼ぶようになったんだ】

「インドやロシアまで……」

 辰哉は絶句していた。

【自分で言うのもなんだが、失敗と不運続きの波乱万丈な人生を送っていた時に『からゆきさん』の存在を知り、個人的な興味から調べていたというわけさ】 

「そうだったんだ……。で、どうやって調べたんだ? そんな世界中に散らばる『からゆきさん』のことなんて……明治時代、だろ……?」

 首を傾げる辰哉に、おっさんはさらりと答えた。

【決まってるだろう? 現地取材だよ】

「現地取材?」

【シンガッパに用事があったこともあってな】

「シンガポールで……『からゆきさん』の現地取材……?――ってことは、おっさんっっ! おまえ、まさか!」

 おっさんは意地悪げに微笑んだ。

 瞬間、おっさんも『からゆきさん』を金で買ったんだ、と辰哉は思い、なんだかそれが汚らわしくて許せなくて……考えるよりも先におっさんの胸倉を掴んでいた。

 しかし、相手は実体を持たない存在なので掴めるわけが無く、そのまま勢いあまって金網にぶつかってしまった。

「辰哉くん?」

 派手な音がしたので、辰郎(たつろう)が慌てて開けっ放しのベランダへとやってきた。

「辰哉くん? 今、ものすごい音がしたけど?」

「来ンな! なんでもねーから!」

 辰哉は怒鳴りつけた。

 辰郎は悲しそうな表情になりながらも、言われた通りにベランダへはやって来なかった。

「……大丈夫ならいいけど、気をつけて。その金網も相当古いらしいから」

「――げっ!マジっ?」

 辰哉は慌てて金網から離れた。

 地上二十四階の高さから落ちたら……と思うだけで背筋が凍る。

「それと――」

「ンだよ! まだなんかあンのかよっ!」

 紐無しバンジー・ジャンプはぜってー御免だ! と心臓が恐怖にばくばく音を立てている辰哉は、さっきにも増してキツイ態度になっていた。

「最近、辰哉くん、独り言……増えた?」

「――え?」

 今度は違った意味で心臓がどきどきしてきた辰哉である。

「いや、独り言ならいいんだけど、……とーさんも理由はよく知らないんだけど、噂によると、シンガポールは今でも頻繁に幽霊が出るらしいから、知らずに仲良くなって魅入られてあっちの世界に連れて行かれないように気をつけてほしいな、と」

「……なんだそれ?」

「さぁ……」

「さぁ……、じゃねーだろがっ! 怖ぇだろ! そんな曖昧だとっ!」

「いや、ほんとに、詳しくは知らないんだよ。ただ、聞いたところによると、シンガポールでは、生きている人間と間違えちゃうくらいはっきりした姿かたちの幽霊が

頻繁に目撃されるらしいよ」

「……なんだそれ。ふつーに怖ぇじゃないか!」

「幽霊の大半は、古い時代の服装だったり、髪型だったり、どことなく妙な雰囲気で気づくらしいけど、時代が近かったりすると、服装や髪型では見分けがつけにくく、それこそ、有名な『耳なし芳一』のように、知らず知らず仲良くなってしまって、気付いたら引き返せないどころか魂を持ってかれちゃってたりするんだって。実際、不可解な変死事件とか神隠しとかが後を絶たないんだって。怖いよねー」

「……」

「だから、シンガポールでは、現代でも『拝み屋さん』とか『霊媒師』とか、心霊関係の商売が立派なビジネスになってるらしいよ。悪霊退散!ってやつ」

 言いながら、辰郎はお札を貼り付ける真似をしてみせた。

 それを見てふつふつと怒りが沸いてきた辰哉は、ものすごい目つきの悪さで辰郎を睨みつけた。

「そうと知りながら、オマエは真夜中に墓地なんぞに出向いたってか?」

「あ……」

 はっ! とした辰郎に、辰哉はますます怒りが込み上げてきた。 

 小説を書く以外は、何かにつけて間抜けだと知っていたが……ここまで間抜けだとは思っていなかった辰哉である。多少のことなら目もつぶってきたが、今回ばかりは、看過できなかった。

「なんかあったらどーすんだよっ! すぐに書くかどうかはわかんねーけど、近い将来絶対『からゆきさん』に絡んだ話を書くってことで、今回、取材費全額出してもらってんだろうが!」

「――っ」

 辰哉の落としたカミナリに、辰郎は肩を竦めた。

「同じ取材するなら時間帯を考えろってんだ! 幽霊出るんだろ? 取り憑かれたらどーすんだよ!」

「辰哉くん……」

 辰郎は呆気に取られながら言った。

「一体、どうしたんだい? 何かあったのかい? つい最近まで、幽霊とか非科学的な事は一切信じないで笑い飛ばしてたのに……」

「うっ……」

 今度は辰哉が固まった。 

 今現在、自分が幽霊と行動を共にしてるから考えとか価値観とか変わったんだよ! とは口が裂けても説明できない。

 万が一、おっさんのことがバレてしまったら、おっさんの貴重な時間が奪われる。

 それだけは絶対に避けたいから。

「とにかくだ!」

 辰哉は強引に話をまとめた。

「その噂が本当かも知れないってのなら、用心に越したことはないから、互いに、幽霊には気をつけようぜ。な?」

「……辰哉くん、本当に、大丈夫? 最近――」

「大丈夫大丈夫! 独り言にも気をつけるからさ!……大丈夫だって!」

 ははははは……、と辰哉はわざとらしい乾いた笑いをした。

 わかった、と辰郎はそれ以上踏み込んでは来なかった。

「辰哉くん。いくら南国とはいえ、湯冷めはするよ? 風にあたるのもそこそこにして戻りなさい。明日は早いんだからね」

 もっともらしいことをもっともらしい声音で言い終えるや否や、辰郎は気持ち肩を落としながら室内へと姿を消した。

 辰郎の姿が完全に見えなくなってから、辰哉は改めておっさんの方を向いた。

 おっさんの姿が辰郎には視えないのは既に確認済みなので、辰哉もおっさんも慌てず騒がずやり過ごしている。

 おっさんは、ずっと夜景を見ていた。

 辰哉は敢えて話を戻した。

「で、おっさんは、他のオトコとおんなじようにからゆきさんを買ってたわけ?」

【いや。そんなことは一度もしなかった。取材をさせてもらったから、謝礼は払ったけどな】 

「は?」

【……彼女が、『からゆきさん』だったんだよ】

「……ああ、そうか。そう言ってたよな。からゆきさんを探してる、って」

【そうだ】

「だから……会って話が聞きたいのか? あの――」

 見ず知らずの他人に鬼の形相でタマゴなんぞをぶつけまくるイカれたオンナに? と言いかけて、辰哉は言葉を飲み込んだ。

 フェミニストなおっさんだから、女に対してそんな言い方をしたら、やぶへびになりかねない。

「あの墓守に会って、その探してる『からゆきさん』の話を聞きたいのか?」

【……それもある】

「それも、ってどーゆー意味だよ?」

 訝しがる辰哉を見やり、おっさんはニヤリと笑った。

【純粋に好みに近かったんだよ】

「あ?」

【あの墓守の彼女……『せつ』にどことなく雰囲気や面影が似ているように感じてな】

「えーっ? マジでっ?」

 『からゆきさん』は、ひ弱で幸薄いイメージがある辰哉なので、あんなじゃじゃ馬が?と理解不能だった。

【あの墓守の少女が……『せつ』の生まれ変わりだったりしたら……やるせないな】

「……」

【いつの間にか、この国も変わった……。当然とはいえ、目の当たりにすると……物悲しいもんだな……】

「……」

【ここまであの頃の面影が何一つとして残っていないとはなぁ……。確かのあの時代、この国で儂と『せつ』は懸命に生きたというのに……】

「おっさん……」

 辰哉はかける言葉がなかった。

【儂は『せつ』より早くに死んだからな、彼女のその後がとても気がかりだった。彼女が天寿をまっとうしたら迎えに行こうと決めて待っていたのだが、……彼女はこっちの世界に来なかった。成仏できないのか拒んでいるのか解からず、気になりすぎた儂も自然と輪廻転生から外れた……】

「……」

【『せつ』がその後どうなったのかなぞ知る手だてはなかったが、それでも、シンガッパへ行けば何かしらわかるかもしれぬと思い、一族の者で旅行でもいいからシンガッパへ出向く者が現われるのを待ち続けた】

「なんでおっさん単独でここまで来れなかったんだ? 霊体の方が動きやすいだろ?」

【輪廻転生から外れた者は、外れた地から動けないんだよ。儂は日本で埋葬されたからな】

「そっか。それで、子孫の中でも波長があったオレにとり憑いたってわけか」

 なるほどなるほど、やっと謎が解けた、と辰哉はすっきりした表情になった。

【もう一度、『せつ』とこの国を……街を感じたかったんだがな……。ここまで変わってしまっていては、仮に『せつ』と逢えたとしても、何も懐かしくは思えないだろうな】

 おっさんは悲しそうに溜息をつきながら首を横に振った。

 やれやれ……といった感じで、辰哉は金網に背を預けながら座り込んだ。

「おっさんってさ、いつも下ばかり見てた人間?」

【?】

「オレさ、下、見たことないんだ。観覧車乗ったり、展望台とか高いトコ行ってもさ、下、見たことねーんだな」

【……?】

「今夜、この二十四階のベランダ出ても、真っ先に上見たぜ」

 辰哉は夜空を見上げた。

「オレ、星空よく見上げるんだ。好きでさ」

【……】

 辰哉が星空を見るのが好きと聞いて、おっさんは驚いた。自分も好きだからだ。

「星ってさ、なんかすげぇって思うんだ。何があっても、自発的に輝くことをやめないんだからさ。まったり初志貫徹してるわけじゃん? オレたかだが十五年しか生きてねーけどさ、日々それなりに色々あるんだ。凹んだ時に星空見てっと、なんか励まされるんだ。自分のペースでやってきゃいいのかな?って」

【星、か……】

 ずっと寂しそうに地上の星を眺めていたおっさんは、初めて夜空を見上げた。

 街が明るいのであまりたくさんの星は見えなかったが、それでも、日本で見るよりは、ずっと多くの星が肉眼で確認できる。

【星か……。よく眺めたな、ふたりで。他に行くところもなければすることもなかったからな、自然と星を数えていた。今以上にたくさんの星が見えた時代だったからな】

「だったらいーじゃん。その『せつ』さんとやらと共通で懐かしめる話題、あるじゃねーか」

【そうだな】

 おっさんは辰哉の髪をくしゃっと触ろうとしたが、幽霊なので素通りしてしまった。

「おっさんおっさん! アンタ、幽霊だから」

 辰哉は屈託なく笑った。

 おっさんもつられて大笑いした。

【そうだったな。最近、物忘れが酷いんだ】

「ああ。解かる解かる。おっさん、超高齢者だもんな」

【そういえば、儂は生きていたら何歳なんだろう?】

「数えなくていいって。怖いから」

【いや、せっかくだから……】

「いいよ。その見た目四十代くらいの渋い中年オヤジの姿が定着してんだからさ」

 辰哉とおっさんは、とりとめもない会話をしばらく続けていた。

 そんな辰哉を、辰郎は不思議そうに室内から眺めていた。もちろん、辰郎には辰哉の姿しか見えていない。

「楽しそうでいいなぁ~、辰哉くん」

 辰郎は真剣にその場に混ざりたいと思った。

 おそらく辰哉は気付いていないだろうが、日頃、バスケットボール部で声を出すことに慣れている辰哉は、普通に話をしていても声が大きい。だから、熱中していると更に声が大きくなるのだ。

 開け放しにしているベランダから室内へと、辰哉の言葉は辰郎の耳へと筒抜けだった。

 それは今に始まったことではなかったので、別に辰郎も驚きはしない。

 ただ、内容がとても気になっていた。

「……『おっさん』に『せつさん』かぁ~。誰なんだろうなぁ? 『せつさん』は、あの『せつさん』なんだろうか? 楽に会話できてるところからして、相手は日本人なんだろうけど。……私も、辰哉くんのように気楽に撫子(なでしこ)さんと話がしたいなぁ~」

 撫子さん……と辰郎は呼びかけてみたが、当然のように誰も何も反応しなかった。

 辰郎は気落ちした。

「そうだよね……。そう簡単に逢えたり話ができたら、世の中の均衡が崩れるよね……。だから、恐山のイタコさんやら、サニワやら口寄せが存在するんだよなぁ~。……今度は、死者の霊を呼び出すとかいったホラーを書いてみようかなぁ?……いやいや、それはダメだ。撫子さんが愛したミステリーに作家生命を注ぎ込むと誓ったんだから……。けど、逢いたいなぁ~」

 撫子さぁ~ん、と辰郎は肌身は出さず持ち歩いている、最愛の妻の写真を泣き出しそうな表情で見つめた。


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