南の島の鎮魂歌(レクイエム)

愛奈 穂佳(あいだ ほのか)

プロローグ 遭遇

 


 ……騙された?

 頭上から、汚物ではなく、干からびてはいるけれども握り飯が落とされたのを確認した雪子(せつこ)は、暗闇の中、手探りでそれを探し当て、重い溜息をこぼした。

 日に三度、頭上から干からびた握り飯が落とされると、周囲に少しだけすすり泣きが漏れる。

 畳半枚くらいの場所に、二十四人の娘たちが、腰巻一枚の姿で膝を抱えて座っている。 

 動きたくても身動きがとれない。

 声を限りに涙が枯れるまで大泣きして疲れきり、ロクな食事を与えてもらえず、上からは船員たちの汚物も落ちてきて、自分たちは糞も小便も垂れ流し状態のまま何日も過ごせば心身ともに衰弱するし、身動き一つ取ることすら億劫になる。

 あれから何日経ったのかさえ、もうわからない。

 窓もなければ、灯り取りすらない、暗く狭すぎるこの船底。ちょっとしたはずみで座礁でもすれば、間違いなく、真っ先に溺れ死ぬだろう。

 この粗末な造りの船はあれよあれよという間にバラバラになり、泳げない自分は海の底へと沈みながら魚たちに食べられ、いつしか綺麗に消滅する……。

 誰にも迷惑をかけず、誰に知られることもなく……。

 ――どうしても胸の奥底から消えない屈辱・恥辱・憎悪・自己憐憫の情なども完全に葬り去ることが可能になる……。

 その方が……マシ……かしら――?

 雪子(せつこ)は、船室の隅へと視線を移した。

 そこは、更に闇が深い。

 溺死ではないが、精神的に追い詰められた上に栄養失調で、既に三人の娘がこの場で静かに息絶えている。

 遺体を清めることも荼毘に付すこともできないまま、船室の隅にて徐々に腐敗していくのを感じながら生きていくのも……辛いものがある。

 だけど、この常軌を逸した事態で発狂する者がこの瞬間まで現れていないのは、不幸中の幸いだろう。

 皆、場所は違えど、それなりに辛酸を舐めて生きてきたはずだから、多少は辛抱強いことを期待せずにはいられない。

 この狭苦しいところで発狂でもされたら、それこそ、もうどうしたらいいのかわからなくなるのだから……。  

 力尽きて死ぬのが先か、生きて新しい世界の扉を開けるのが先か……、雪子(せつこ)はどちらも想像できず、静かに目を閉じた。



 ……騙された!

 半幽霊のような格好を着替えさせられ、臭気を洗い落とし、どうやら一ヶ月くらいかけて辿りついた『シンガッパ』という名の異国の地で『せり』にかけられた雪子は、血の気が引く思いでその場に凍りついていた。

 船着場の倉庫前で、雪子(せつこ)と共に生き残って上陸した十二~十七歳くらいの娘たちが、次々と値をつけられて売られていった。

雪子は『六〇〇円』だと言われた。

「聞いての通り、おまえの借金は六〇〇

 両親はとうの昔に相次いで他界しており、親代わりに面倒を見てくれている兄達に迷惑をかけたくなくて、十歳で小学校を中退後、子守奉公に出た。 

 それから数年、一般的な娘たちと同じように子守奉公をしながら工場でも働いていたが、ある日、奉公先の主人に、「工場とは比べ物にならないくらいの稼ぎになる仕事がある」と言われ、少しでも多くのお金を郷里の兄達に送ってやりたくて……新しい職に就こうと決めた。

 そこまではとんとん拍子で話が進んだのだが、いざ、新天地へ向かおうとした時、なにやら不穏な風を感じた。

 夜中に叩き起こされ、どこに行くのかも告げられず、追い立てられるようにして船へ乗せられたのだ。

 わけがわからぬまま船底に押し込められた上に信じられないような酷い扱いを受け、かろうじて生き延びて船から出たら、借金を背負わされた……?

 雪子(せつこ)は思いきり首を傾げた。

 子守奉公は、賃金が出ない。

 子守奉公へやる家の口減らしが目的なので、奉公先の主人にしてみれば、食べさせてやることが賃金なのだ。

 なので、子守奉公と並行して町工場で働くのが普通だが、工場の月給は六円ほど。だから、『六〇〇円の借金』と言われても、現実味のない金額としか思えない。

 借金返済のために働く?

 誰がいつ借金などこさえたのだ?

 子守奉公とは比べ物にならないくらいの稼ぎがあるのではなかったのか?

 何がなにやらわからずに、雪子(せつこ)はきょとんとしたまま、新しい奉公先の主人の後におとなしくついて行った。

 ―――辿り着いたのは、娼館、だった。



 ……騙された。

 異国の地での生活は、身体を張っての娼売(しょうばい)のみ……だった。

 その生活に耐え切れず、首をくくったり、海に身を投げる娘が後を立たないのを間近で見続けながらも、雪子は静かに同じことを繰り返す日々を過ごしていた。

 諦めと絶望の中、ただ、兄達に少しでも多くの送金をしたい一心で、黙々と日々のノルマをこなし、理不尽なおかみとのやりとりにも黙って耐えた。

 この時代、女は我が身を空しても親や夫に尽くすのが美徳とされ、女の方もその美徳に殉ずることがひとつかみの慰藉(いしゃ)となっていたので、両親が居ない雪子は、親代わりに育ててくれた兄達への思いが深く、ただそれだけのために生きていた……。



 ―――騙しじゃない!

 『彼』と過ごす時間が長くなればなるほど、雪子(せつこ)はそう実感していた。

 作家である彼は、いつからか『からゆきさん』と呼ばれるようになった自分たちの現状を取材したくて娼館(ここ)を訪れたという。

 その言葉は、嘘ではなかった。

 彼は、決して安くはない金を払っているにも拘らず、雪子の同意なしで身体に触れることは一度もしなかった。

 ひたすら、雪子(せつこ)の身の上話を聞き、書き留めていた。そして、雪子の出自や容姿で差別せず、当たり前のように一人の人間として見て接してくれた。

 そんな彼に、雪子は惹かれた。

 彼もまた、雪子を愛しく思った。

 娼婦と作家。

 差別意識が強い祖国でなら絶対に結ばれるはずのない二人だったが……人や物や文化がめまぐるしく行き交うこのシンガッパという異国の地では拍子抜けするくらいに職種に貴賎はなく、二人は誰にも邪魔されずに至福の時間を過ごした。

 ―――長くはなかったけれど。

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