其の五

   †5†

 小豆あずきは祭壇に向かい合ったまま、無言でたたずんでいた。

 傍目はためには、それはただ立っているだけにも見える。

 しかし、雅紀まさきには小豆が向かい合っているものが薄ぼんやりと見えていた。

 灯明とうみょうが作り出す、ゆらゆらとうごめく影。

 その影の中から鎌首かまくびをもたげ、やはりゆらゆらと揺れる、大きな蛇の影。

 輪郭はおぼろげだが、全体が黒いもやのようなもので構成されているらしいのは分かる。


「あれが……?」

「そ、土田つちだ家で奉じる神」


 雅紀の考えを智明ちあきが肯定した。

 その蛇の影は天井近くまで伸び上がると、小豆めがけて一気に降下した。

 小豆は避けようとはせず、むしろ顔を上げて蛇を受け入れるように口を大きく開けた。

 人間の胴体よりも太いはずの蛇はしかし、まるで吸い込まれるようにして小豆の中に入っていく。

 確たる実体があるわけではなく、靄のように見えるだけで、その蛇は実際には存在していないのかもしれない。

 だが、それでも、目の前の光景は雅紀にとって信じがたい光景だった。

 蛇の体は長い。

 いつまでも、影の中からずるずると這い出してきて天井まで伸び上がり、そこでカーブして小豆の中へと入っていく。

 そんな光景を眺めつつも、煌鷹こうようと智明は演奏を止めようとはしなかった。


「や、やめなくていいんですか?」


 雅紀がきくと、煌鷹はしれっとした顔で答えた。


「いま、演奏をやめたら蛇神アレはここにいる全員、どころかこの集落にまで大きな祟りを及ぼすだろうね」


 だから、やめない。

 まるで集落そのものを人質に取ったようなものだ。

 そのやり口に、雅紀は強い反感を覚えた。

 だが、だからといってどうすることもできない。

 なにより、煌鷹の背後に陽炎かげろうのように揺れる何者かの影が、雅紀にはとても恐ろしいものに思えた。

 八尺様はっしゃくさまより、いや、いままで向き合ってきたどれよりもはるかに強い力を持った、恐ろしい何か……。

 雅紀は半ば諦めたような気持ちで小豆が延々蛇を呑み続ける様を見ていた。

 それが終わったのは、唐突だった。

 尻尾の先まで呑み込んだ小豆は顔をうつむけ、一つだけまばたきをすると、雅紀に顔を向けた。


『こんばんは、雅紀』


 妙に落ち着いた口調で、小豆は挨拶してきた。

 いや、違う。

 顔かたちは確かに小豆だ。

 だが、違う。

 雅紀には覚えがあった。

 以前にも、目の前の彼女に会ったことがある。

 だから、雅紀は問われるよりも早く、彼女の名を口にした。


「――沼御前ぬまごぜん

『う、ふふ、ふ……。覚えていてくれるのね、嬉しいわ。さて、それで……一体なんの用かしら?』


 彼女はそのままくるりと体を回転させて、煌鷹に神楽鈴かぐらすずを突きつけた。


「やれやれ、僕がしたことだというのはお見通しか」


 煌鷹はふ、と小さく笑った。


『ええ、もちろん。私の中でこの子が文句を言ってるわ』


 この子、と言いながら、彼女は自分の胸に右手を当てた。

 扇を持つのとは別の右手を。

 雅紀はそれを見過ごして。

 そして、一拍おいてその異常性に気付いた。

 見れば、小豆の袖からは、元々の、扇や神楽鈴を持つ腕の他に、さらに二対の腕が出ていた。


「小豆……無事、なのか?」

『そうね……いまのところは』


 彼女はちらり、と雅紀の方を振り向くと、含み笑いを漏らした。

 小豆なら絶対に見せないような、妖艶ようえんな笑み。


『さあて、教えてもらおうかしら。どうして小豆や雅紀を怖がらせるような真似をしたの?』


 対する煌鷹は、太鼓のばちを握ったまま答えた。


「それは、土田つちだの血にかかった呪いを解くためさ……」

『なんですって?』

「確かに君は土地神として祭られ、強い力を持っている。だが、同じ土地神同士をぶつけたらどうなる?」


 煌鷹はやしろの入り口に撥を向けた。

 雅紀がつられて目を向けると、もうすぐそこに、いた。

 三メートル近くはありそうな長身を白い服に包み、腰まで届くであろう、黒々とした不健康な髪をだらりと垂らして顔を隠した女。

 このすぎ集落の土地神にして祟り神。


「八尺、様」

『なるほど、確かにこれは厳しいわね』


 彼女はそう言うと、空いていた二対四本の腕を器用に動かして、祭壇の周囲に置かれていたものを次々と手に取る。

 猿田彦サルタヒコの槍。

 手力男タヂカラオの岩戸。

 児屋根コヤネの剣。

 布都魂フトダマ大幣おおぬさ

 それぞれが式舞しきまいで使う祭具であり、なにがしかの意味合いが持たされているはずだ。

 だが、それが八尺様に通用するのかどうか、それはわからない。


「君か、八尺様か。どちらが勝つにしても、残った方は僕が倒す。弱ったところを突けば充分に勝機はあるからね」


 煌鷹は涼しい顔で宣言した。

 同時に、社の外から生ぬるい空気が流れ込んできた。

 生暖かい風が吹く。

 そんな定型的な表現もあるが、実際に吹いてみるとわかる。

 人肌ほどのぬくもりと微妙な湿気をともない、かすかな土とかびの匂いを運んでくる、嫌な風。

 その風に背中を押されるようにして、八尺様は社の内に一歩、踏み込んできた。


『願いなさい、雅紀』

「……え?」


 彼女の予想外の言葉に、雅紀は咄嗟とっさの答えが出なかった。


「そう、それが君の、審神者さにわの役割だ」


 煌鷹が嫌な笑みを浮かべながら言葉をつなげた。


「でも、そんなことをしたら、どうなるかわからないんだろ?」

『悩んでる暇はないわ』


 彼女が催促さいそくする。

 八尺様は、ゆっくりとした足取りで祭壇へ向けて進んでいく。

 その途中に立つ、彼女。

 いままで、どこか小豆を当てにしていた部分はあった。

 小豆がいれば大丈夫、解決してくれる。

 そう思っていた部分は確かにあった。

 だが今、この場に小豆はいない。

 いないわけではないが、意思表示できる状況にはない。

 なら、決断すべきは誰なのか。

 ほんの刹那せつなの間に、雅紀の中で色々な考えが交錯こうさくした。

 そして、雅紀は決断する。


「沼御前……あいつを、八尺様を、調伏ちょうぶくせよ! 律令が如く、急ぎ為せ!」

『うふ……御意』


 雅紀に応えるように、彼女の体が伸びた。

 伸びたように見えた。

 緋袴ひばかまから太く、長い蛇の胴体が伸びていて、彼女の上半身を天井につくまで持ち上げていた。

 その目が金色に光り、縦に裂けた瞳孔どうこうが八尺様を正面から見据えた。

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