其の六

   †6†

 小豆あずきが登校してくると、昇降口に一也かずやが待ちかまえていた。


「おはよう、磯野いそのくん」

「なあ、赤尾あかお見なかったか?」

「赤尾くん? いいえ。どうかしたの?」

「いや、まあ、なんだ。昨日、部活終わりに別れた後、用事あって連絡したんだけど、いつまで経っても既読きどくにならなくてさ。ひょっとして、都市伝説が本物だったんじゃないかって……」

「あの映画を見た人が時々、本当に黒目様くろめさまを見てしまうっていう評判ね。あれは悪乗りだと思うわよ」


 小豆はそう断言した。したが、心中穏やかではいられなかった。

 鞄の中に潜ませた金剛鈴こんごうれいの重みがずし、と増した気がする。


「悪乗りか。そ、そうだよな。じゃっ、じゃあな」


 一也は自分を納得させるように言うと、そそくさと自分の教室へ去っていった。

 それを見送ってから、小豆は階段を上っていく。

『黒目様の噂』に仕込まれていた術式はサブリミナルに訴えかけるものではあったが、一度や二度観た程度で何かが起こるとは思えない。ならば、清志がチャットを確認していないのは都市伝説とは無関係だろう。

 普通に考えればそうだ。だが、心の中で何かが警戒を呼びかけている。

 小豆は教室に到着すると、席に深く腰掛けて眼鏡を外し、瞑想めいそうの体勢を取った。軽く目を閉じると、自身の内面に向かって静かに意識を沈降ちんこうさせていく。やがて、目の前の暗闇に書き割りの舞台装置にも似た、現実感のない映像が朧気おぼろげに現れてきた。

 薄暗い部屋の中で、一人の少女が椅子に腰掛けている。

 頭の上から足の先まで黒い衣装をまとい、長い黒髪で半ば顔を覆うようにしてうつむいている。

 髪の下にわずかに見える口元はやけに白く、真っ赤な唇をくっきりと浮き上がらせていた。

 ともすればよくできた人形のように見える、その少女の唇からは、歌が漏れていた。音程があるから歌とわかるが、その内容までは聞き取れないほどに音量は小さい。

 小豆はその部屋に見覚えがあるような気がしたが、あいにくとすぐに思い出すことはできなかった。

 と、小豆の意識は急激に現実へと引き上げられた。書き割りじみた光景も、闇の彼方へけて消え去る。

 目を開けると、千佳ちかの不安そうな顔が飛び込んできた。どうやら千佳に呼ばれたせいで瞑想が中断されたらしい。渋々眼鏡をかけると、千佳は身を乗り出してきた。


「あずっち、どうしよう」

「……何よ、千佳らしくない」

「だって、きよっさんがいなくなっちゃったんだよ? 黒目様にさらわれたんじゃ……」

「そんなワケないじゃない」


 小豆は鞄から金剛鈴を取り出し、ぜつに巻いた白布を外した。


「そんなに心配ならおはらいくらいしてあげるわよ。まあ、気休めだけど」

「気休めにしかならないの?」

「だって、仮に黒目様が実在したとしても、今ここにいなければあたしには何もできないわよ」

「うー……」


 それでも、小豆が金剛鈴を鳴らしてやると、千佳はゆらゆらと不安そうに体を揺らしながら自分の教室へ帰っていった。


「……まあ、危険は危険ね。あの様子じゃ、余計なものを呼び込みかねない」


 金剛鈴の舌に布を巻き直して鞄にしまう。


「そもそも、赤尾くんの失踪は事実なのかしら? 単に体調を崩してるだけってこともあるわよね」


 そんなところだろうと思いたいが、どうにも胸騒ぎが収まらない。

 もう一度瞑想を試みようと思ったが、すでにホームルームの時間を告げるチャイムが鳴り始めていた。


「仕方ない、昼休みにでももう一度、試してみますか」


 ホームルームが始まると、小豆は頬杖をついて窓の外に目をやった。

 気持ちがいいほどの秋晴れだ。だが、小豆にはなんだか窮屈きゅうくつに感じる。

 あたしが小さかった頃の空は、今にも吸い込まれてしまいそうな深い蒼だったもの。こんなくすんだ空は青空なんて呼べないわ。

 心の中でそう毒づいた。

 雅紀まさきに今の話をしたら、どんな感想持つかしら。

 ふと、そんな疑問が湧いた。


「って、なんであいつが出てくるのよ。色恋沙汰なんか、あたしのキャラじゃないじゃない」


 吐き捨ててから、小豆は周囲を見渡した。

 クラス中がくすくすと笑っている。


土田つちださん、いまのお話を聴いていましたか?」


 教卓では担任の今川いまがわがにっこりと笑っている。


「さ、いま先生がどんなお話をしていたか、要点をまとめて答えてください」

「すみません、聞いてませんでした」

「それでは、きちんと先生のお話を聴いてくださいね」


 今川はにこりと笑って頭を傾けた。

 ゆるふわ系というのか、ファッション雑誌にでも載っていそうな、垢抜けた容姿の彼女は非常に温厚なのだが、その分怒りが臨界に達した時のヒステリーはすさまじいのではないか、と噂されている。それだけに、小豆も彼女の前ではあまり反論しないようにしているのだ。


「さて、それでは大事なことなのでもう一度話しますね。男子クラスの生徒が一名、原因不明の高熱で入院しています。悪い疫病えきびょうかもしれないので、皆さんも気を付けて、少しでも具合が悪かったらすぐに病院に行ってください。それから、彼は薄暗い路地裏に倒れていたところを発見されたそうです。そういう、ひとけのない場所では、危険な目にあっても助けを呼ぶ声が届かないことがあります。ですから、決して近付かないでください。いいですね?」

「……ま、実際はそんなところね」


 小豆はもう一度小さくため息をつくと、机の上に教科書を並べ始めた。今日の授業は今川の担当する数学からだ。得意な教科ではないが、これ以上目を付けられないように、姿勢だけはまじめにやらねばならなかった。

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