ガラガラ
なぜ、その『口コミ』に心惹かれたのか、玲子も分からない。
見つけたインターネットの『不思議な口コミ』。喫茶店メアリで深い臙脂色のソファに腰掛けると、店主がおすすめを教えてくれる。それを断り『季節のブレンド』と本日のスイーツをお願いすると――その客のお願いをハンサムな探偵が叶えてくれる、という。
ただこの時は、アリバイ作りに利用できるかもしれないとだけ思っていた。猫は見つかろうが見つかるまいが、どうでもよかった。
お節介で、純粋な優梨愛に夜中の騒音問題で悩んでいることを言えば、探偵に相談するように言うと思っていたのだ。玲子は、こうして安賀多九助とビデオ通話する口実を得た。
三月二十八日 日曜日 十九時五十分――
玲子はモコモコしたパステルカラーのルームウェアを着て、手帳型のサーモンピンクのケースに入ったスマートフォンを持った。このスマートフォンケースは、聡が関係を持ったばかりの頃に買ってくれたもの。思えば、ちゃんとプレゼントをもらったのはこれが最初で最後だったかもしれない。聡は、もうなにも関心を示さない。このルームウェアは優梨愛が着ていたブランドのものだが、奥さんと同じブランドを愛人が着ていても、聡は気にも留めない。
背景にピンクのお花が描かれた壁掛け時計とカレンダーが見えるように画角を調整しながら、通話ボタンをタップする。何コール目かで、安賀多が応答した。
「あ……すみません、突然」
『こんばんは』
人の好さそうな探偵が笑顔を見せる。
「こんばんは」
『どうされましたか?』
「あの……嫌な音がして」
それはもちろん嘘であった。だが、安賀多は真面目に話を聞いてくれる。
『玲子さん、念のためこの通話を記録してもいいですか? もしその音を録音できれば、専門家に尋ねることもできますし。最悪の場合でも――ね』
「あ、はい。お願いします」
『ところで、不気味な音というのはいつもこの時間帯に?』
「ええ……」
『それは不安ですね。そういえば、玲子さんは遅い時には二十時くらいまで飯島家にいらっしゃるんでしたっけ』
「はい。食事をご一緒したりします」
『その後、帰宅されるのは何時ごろでしょう?』
「大体夜の九時過ぎです」
『ははあ、ということは一時間くらい掛けて通ってらっしゃるんですね』
「はい」
『では、その夜は変な音は?』
「あ……」
そこまで考えていなかった、と玲子は一瞬悩んだ。どうすれば、嘘っぽくならないだろうか。とりあえず、聞こえないということにした。
『なるほど。つまり、二十時から二十一時の間だけ聞こえる……と』
これ以上突っ込まれたら不味い……玲子は、神妙な表情を作る。
「――あ、また」
『え……うわぁっ』
安賀多の叫び声に、驚いたふりをして、玲子はスマートフォンを床に落とした。
「すみません、びっくりしちゃって」
『い、いえ。こちらこそ――ごほん、ところでそちらのお住まいは、お一人で?』
「はい。大学卒業して、職場に近い部屋に引っ越したんですけど、一年もたずに辞めてしまって。引っ越すのもお金がかかるので、ずっとここに」
玲子は、話が逸れたことに安堵した。
「昔から、何事も長続きしなくて……家事代行サービスは新しいことを学びながら、いろんなお宅や地域に行けるので飽きずに――天職だと思ってます」
『飯島さんのお宅以外にも?』
「ええ。固定でこの日と指名していただけるお宅はまだ少ないですけど」
――これもまた嘘であった。飯島家以外に用はないが、それは言えない。
『ほう』
「立花さんなんかは、持ち前のおおらかさで、指名たくさんいただいていて」
こうして話題を逸らしながら、なんとか『玲子の部屋』を意識づけられただろうか、と玲子は自分の企みに心臓が高鳴るのを感じていた。
四月三日 日曜日 十三時――
聡が優梨愛と愛翔を連れて外出するのを確認してから、玲子は持っていた鍵で飯島家に入って行った。聡のシャワー中に抜き取った。自動で開錠施錠するドアだから、聡は未だに鍵がないことすら気づいていないだろう。
玲子はまず、シュークロークに入って、靴をすべて床に叩きつけた。肩で息をしながら、テレビ台、キッチンの引き出しも空にした。二階に上がって、子ども部屋も、寝室も、書斎も、触れるものはすべて床に叩きつけ、壁に投げつけた。
そして、リビングダイニングに戻って、アートパネルに触れる。家族のふりをしている気持ちの悪い絵だ。
「こんなもの、こんなもの……」
玲子は床に叩きつけ、キッチンに落ちてる包丁を持ってきてパネルを切り裂いた。これだけを狙っていたと思われないように、他のアートパネルも同様に切り裂く。
何分、何十分掛かったのか分からない。だが、気がついたら玲子は包丁を片手に嗚咽していた。しゃくり上げながら、包丁をキッチンの床に戻して、なにもなくなった壁に家から持ってきた時計とカレンダーを掛ける。
涙を拭いて、メイクをし直して、玲子はスマートフォンを構えた。
ガラガラガラッ。
――自分の心が崩れ落ちる音のようだ、と玲子は思った。
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