彼女は未来を捨てる

過去

 折原玲子が飯島聡に会ったのは、社会人になったばかりのころ。つい数週間前まで大学生だった彼女は、新しい生活に一日も早くなれることばかりにとらわれていた。生来、のめり込みやすい気質の玲子は、会社の歯車の一つとして早くも役割というものに自分を当てはめた。

 社会人だから、女子社員だから、若手だから、大卒だから、貧乏だから。上司の下品な笑いに合わせて、誘われるがままに食事会に出て、そして出会ったのが自分より七つ年上の営業マンだった。男は、アイロンの掛けられたワイシャツに、女性が好きそうなネクタイ、清潔感のある短髪は寝癖一つなく、独り身はないと分かった。だけど、眼鏡の奥の優しい瞳が、玲子の身も心も熱く痺れさせた。

 二人が男女の関係になるまでに、そう時間は掛からなかった。玲子は飯島聡にのめり込み、つかの間の甘い日々を堪能した。だけどある日、薬局で検査キットを買ったことで玲子に欲が出てしまった。


「奥さんと別れてくれる?」

 二人が会うのはいつも玲子の部屋だった。玲子は自分のベッドでスマートフォンをいじっている彼の背中に頬を寄せて静かに聞いた。汗で張り付いた髪を気だるげに指で弾く。男は、なにも言わない。玲子は淡い期待を抱きながら囁いた。

「できちゃったの」

 男は起き上がった。なにが、とも聞かず。ただ、そのまま部屋を出て行った。


 再三、下ろしてくれと頼まれたが、玲子はそのつもりはなかった。いつか必ず、聡とお腹の子と一緒に家族になれると思ったからだ。悪阻がひどく仕事にならない日もあった。だけど、玲子は幸せを噛みしめていた。


 聡が茶封筒を持ってきたのはそれから数週間後だった。

「すまない。足りなければ、もっと持ってくるから」

「要らないわ。あなたが認知してくれないなら、一人で産んで育てるだけだもの」

「いい加減しろ!」

 頑なな玲子に、飯島はテーブルを叩く。玲子は一瞬ビクッとなったが、彼を恐れることはなかった。彼がどれほど臆病で、優しいかをよく知っていたからだ。

「……来月生まれるんだよ」

 玲子は初めてどす黒いものが体の中に渦巻くのを感じたが、努めて冷静を装った。負けてはいけない。ここで認めてはいけない。自分は日陰の女などではない。


 それからしばらく、飯島と連絡が取れなくなった。玲子は日々体の中で育まれる命を守りながら会社に通い続けた。だが、当てはめていたはずの自分の役割をこなすことができずに、ある日突然玲子は会社で倒れた。


 玲子が目を覚ますと、医者が手術をするようにと言って来た。もう無理なのだと。過労で倒れた玲子の中に宿った命はすでに動かなくなっていた。

 玲子は仕事を辞めて、家に引きこもった。何度この世から消えようと思ったか分からない。だが、そんな玲子を救ったのも聡だった。


 聡は再び玲子の部屋に来ては、二人の時間を過ごすようになっていた。玲子は錯覚すらした。あれはすべて悪い夢だったのではないかと。聡が妻、優梨愛の愚痴を言い、玲子に癒しを求めていることが最高の幸せだと思った。

 母親になると、女は変わる、と愚痴る聡。母親になれなかった玲子にとってどれほど残酷な言葉であるか頭の片隅にもないのだ。どうしようもない最低な男。玲子はそんな男を心から愛していた。


 不毛な関係が一年ほど続いた夏の終わり、玲子の部屋で仕事をしていた聡が言った。優梨愛が育児ノイローゼになったようだと。そこから、歯車が狂い始めたのだろうか。いやすでに狂っていたのだろう。

 玲子は聡にある提案をした。妻、優梨愛に子どもと離れる時間をあげるのだと。そしてカウンセリングを受けさせてあげなさいと。そして、優梨愛は一日二時間、自由な時間を得て、玲子は家事代行サービスに登録した。


 そして、運命の日がやって来た。初めて家事代行サービスとして、飯島家に行く日だ。もちろん、他の依頼も来ていたが、すべて断っていた。金が欲しいのではない。玲子は飯島優梨愛に会いたかった。その子どもにも。


 昨年 九月十八日 金曜日 十三時五十分――


 閑静な住宅街でひと際目立つ白い塀に囲まれた家を玲子は眺めた。二階建てのモダンな建物に視線は向けていたが、玲子は緊張よりも心に冷たいものを感じていた。これが聡の守ろうとしているものなのだと。玲子は深呼吸してから、カメラ付きのインターホンに向けて笑顔を作った。


「折原さん?」

 玲子は、ようやく、そして初めて聞いた『聡の最愛の人』の声に笑顔を崩しかけたが、なんとか持ちこたえた。心臓が激しく波打つのが自分でも分かった。玲子は極力笑顔を維持しながら、招かれるままに手入れされた玄関アプローチを通って、屋内へと入って行った。


 玄関に立ち、ドアが閉まると、そこは異世界だった。玲子は息を小さく長く吐き出した。この空気に慣れなくてはいけない。


「折原さん、来てくれてありがとう」

 優梨愛は笑顔だった。とても育児ノイローゼとは思えない。これから始まる自由時間に心躍らせているようだ。優梨愛の耳に揺れるゴールドの大ぶりなイヤリングを見て、玲子は無意識に耳たぶに触れた。耳が寂しいな、と。


「さっそく出かけてくるんで、子どもよろしく」

 女性は鏡越しに言った。

愛翔まなとっていうの。うちの子ね。二歳」

「マナトくんですね」

 マナトという名前に違和感が拭い去れない。自分がつけるなら、もっと違う名前にしていただろう。玲子の含みを持った言い方に気づくことなく、優梨愛は頷く。

「そう、お菓子とか適当にあげちゃっていいんで。冷蔵庫も勝手に漁って」

 漁る――なんて浅ましい言い方なのだろうか、玲子は顔をしかめた。だが、当の本人は笑顔で早口で続ける。

「二時間くらいで戻るから。なにかあったら電話して」

 玄関で入違った優梨愛から香った甘い香水の匂いに玲子はむせそうになりながら、空気をかき混ぜた。

 それが、折原玲子と飯島優梨愛いいじま ゆりあとの出会いだった。


 折原玲子は語る――運命の出会いであったと。

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