OK
三月二十八日 日曜日 十三時五十二分――
喫茶メアリの重鎮であるドイツ製の壁掛け時計が、静かに時を刻む中――
店内には、刑事二人が昼食を堪能して行った食器の洗い物の音だけが響いていた。喫茶メアリはレトロな喫茶店ではあるが、ラジオやテレビの類は存在しない。それらしい入口近くに古いレコードプレイヤーはあるが、安賀多はそれの扱い方を知らなかった。
安賀多が洗い物に集中していると、カウンターの向こうから、真琴が声を掛けてきた。日曜日だというのに、いつも通り、制服姿だ。
「オダマキが来てたの?」
「びっくりした」
危うく食器を落としそうになりながら、安賀多は洗い物を続けた。
「真琴、お前どうやって入って来てるんだよ」
「練習あるのみだよね」
「心臓に悪いから、普通に鈴を鳴らして入って来てくれ」
「はあい」
真琴は気のない返事をした後に、いつものこげ茶の革張りのソファに腰掛けた。
「小田原と牧瀬、来てたよ」
安賀多が先ほどの真琴の質問に答えた。真琴は、興味なさそうに「ふーん」とだけ返した。
「あいつらをオダマキって略すのお前くらいなもんだよ」
ソファに身を沈めたまま、真琴はカウンターにいる安賀多を見つめた。
「どうした、真琴?」
「真琴ちゃん」
「はあ?」
「今回のご褒美。真琴ちゃんにする」
「なにそれ、一日『ちゃん』付けで呼べってことか?」
「そう」
「そもそも、『真琴』って呼べって言いだしたのお前なのに」
「真琴ちゃん」
「言い出したのは……真琴ちゃんなのに」
「そういう契約でしょー」
真琴の言葉に、安賀多は布巾で洗い上げた皿を拭きながら、ため息を吐いた。
「九ちゃん、ため息つくと幸せが逃げちゃうよ」
そう言って、真琴は貼りつくような笑顔を作った。
「ほら、九ちゃん、すまーいる」
両手の人差し指をほっぺにくっつけて笑う姿は実年齢よりも、ぐっと幼く見えるからか、安賀多はつられて笑ってしまっていた。
「九ちゃんは止めろって」
「リサとのお約束でしょ?」
真琴の口から出た名前に、安賀多は皿を拭く手を止めた。一瞬思案した様子だったが、少し俯いて、また作業に戻った。小さく相槌を打ちながら。
「そうだな」
「それが私たちの契約なんだから。あと、一年だよ」
「そうだな」
安賀多は同じ言葉を口の中で繰り返した。かみしめるように。
その時、ボーンボーン、という音が店内に流れた。壁に掛けてあるドイツ製のゼンマイ式時計が十四時ちょうどを知らせた。
「あの時、なんか濁してたけど、折原玲子にはなにか起きるのか?」
「んー?」
ソファでグイッと伸びしながら真琴が、返事なのか欠伸なのか分からない声を出す。
「あーあれね」
「猫探しなんてくだらない依頼、お前――真琴ちゃん好みじゃないだろ」
言い直した安賀多に、真琴は笑顔を見せる。
「ぜんっぜん、好みじゃない」
「折原玲子の話を聞いてたからか?」
「気付いてた?」
「俺はな。折原玲子は十五時におま、真琴ちゃんが急に現れたみたいに驚いてたみたいだがな」
「えー。今日と同じように入ってきたのに、九ちゃん気づいたんだ?」
安賀多は吹き上げた皿を棚に片付けながら、壁掛け時計に向けて顎をクイッと動かした。真琴がつられて、時計を見る。
「折原玲子が俺お手製のファーブルトンを食べてる時に、時計が鳴ったんだ。十四時のチャイムだ。だが、音がいつも以上に、ぼやけてた。扉が少し開いてたせいなんだろうと思ってな」
「へー」
「音もなく入ってきたお前は、屈んで身を隠し、俺が折原玲子と話している間にカウンターの裏に回って話を盗み聞きしてた」
「人聞きの悪い」
「――で、猫探しの話だと聞いて渋ってた俺に、合図を送ったんだろ? 見えないように扉を揺らして、鈴を今度はわざと鳴らして」
『風でしょうか』と扉の方を注視していた玲子に気づかれないように、カウンターを回って玲子の真横に立ち、さも突然現れたように真琴は玲子に答えたのだ。
「そして、おやつを用意させるためという名目で俺をカウンターに追いやってこれを確認させた」
そう言って、安賀多が真琴に見せてきたのは、安賀多のスマートフォンであった。そこには、真琴からのメッセージで『OK』と愛らしいスタンプが送られてきていた。これは真琴が依頼を受ける気になったというサインだ。安賀多は、やれやれと言わんばかりに大げさに息を吐きだした。
しばしの沈黙の後、真琴は目を輝かせてソファの上で飛び跳ねた。
「かっこいい! 九ちゃん、すっごいかっこいい」
「え、そう?」
「もうほんっと、九ちゃんて顔と声だけは、最高にイケオジなんだから!」
キャーッと言いながら、真琴は両手で顔を覆って悶えている。
安賀多は若干頬を緩めながら、「そうかなあ」と殊更低い声で言ってみた。
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