王都
一日休んだおかげで、リックの体調はすっかり良くなり、二人は翌日の早朝、再び王都を目指して西に向かった。朝の澄んだ空気の中を眩い旭日を背に、馬車は平原の国路に入っていった。早い時間だというのに往来は賑やかで、すれ違う人々や馬車の数は、段々と増えているようだ。
「初めて通りましたけど、賑やかですね!」
幌から顔を出し、リックが感嘆の声を上げる。国路は、ガルディア王国内にある四方の大都市と王都を繋ぐ、いわば、流通の大動脈。普通の道よりも幅がかなり広く、馬車が四つは並べる程だ。石畳で整理され、有事の際は早馬が駆け回り、一日もあれば国中に知らせが行き届く仕組みだ。
「どれも行商人の一団ですな。この道を真っ直ぐ進めば、王都を超えて西の都、軍港・レクタシアまで行くことが出来ますし」
西部は王国で唯一、海に面した地域だ。中でもレクタシアは西の都・カーザナクと並ぶ大都市で、外海と王国を結ぶ港町でもある。王国の海運業は、ほとんどがレクタシアを経由している。
「—ところで、王都に到着されてからはどうなさいますか? 御父上、ラルゴ様はこのことをご存じなので?」
今日中に王都に着いたとしても、試験までは残り二日ある。合格すれば宿舎に入る予定だが、それまではどうするつもりなのか、ムーギーは知りたかったのだろう。しかし、リックは気まずそうに言葉を濁した。
「その、師匠から父に手紙を出したようなんですけど、返事がなくて。僕も、父に会うのは気が引けるというか…。適当に宿を見つけようと思います」
エビナンスは、リックが彼の推薦で試験を受ける旨を、数か月も前に伝えていた。しかし、父からの返事の手紙は一切なかった。そもそも、リックがエビナンスに引き取られた日から、父親が会いに来たのは彼が十歳になった誕生日の一日だけ。そのため、親子の再会は五年ぶりになるのだが、リックはあまり嬉しい気持ちになれなかった。
リックの声が少し沈んでいるのを感じてか、ムーギーが努めて明るい声で言った。
「でしたら、むしろ都合がいい! ぜひ、我が家にお越しください!」
突然の提案に、リックは驚いて身を乗り出した。
「そんな、申し訳ないですよ! 馬車を出していただいて、またお世話になるなんて!」
慌てて申し出を断るリックに、ムーギーは笑いながら言った。
「そう言われると思っていました。ですが、エビナンス様からは力になって欲しいと言われているのです。それほど大きくはありませんが、独り立ちした息子の部屋が空いていますし、賑やかなほうが、家内も喜びます」
リックは、それでもやはり申し訳なさを感じていた。数日間だけではあるが、ここまでの旅を通してムーギーが信頼のおける相手だということは、十分に理解していた。しかし、だからこそ彼の好意に甘え続けているようで気が引ける。しかし、そんな彼の心情を組んだのか、ムーギーは重ねて言った。
「遠慮はいりませんよ、私が構わないと言っているんですから。人の好意は素直に受け取るものです。謙虚や自律は確かに美徳ですが、行き過ぎれば卑屈になるし、相手の好意を無にしてしまいます」
諭すようなその言葉に、リックは思わず頷いてしまった。ムーギーの言い方は物腰が柔らかく、押し付けがましくもないので、すんなりと聞けてしまう。
「…分かりました。じゃあ、お言葉に甘えて、お世話になります」
根負けしたリックの言葉に、振り返ったムーギーがにっこりと笑みを浮かべた。
「さて、話しているうちに、上り坂も終わりのようですな」
坂の頂上に来て、馬車の傾きが直った。すると、突然ムーギーは馬車を路肩に停めて、リックに降りるよう促した。何事かと思いながらも荷台から降りたリックは、遥か先に広がる景色に、すごい、と感嘆の声を漏らす。
彼らがいる丘の頂上から下に、大きな平野が広がっていた。そして、その中に聳える巨大な城壁と、陽の光を反射している尖塔。丘から城壁との距離はかなりあるが、それでも、その大きさはかなりのものだと分かった。国路の先にある門には行列が出来ていて、まるで巨大な口に吸い込まれるように、人々がその向こうに消えていく。
「眼下に広がっているのは、メシス平野です。その先にあるのが、この国の中心、王都。城壁の向こうに見える三つの尖塔は、王宮の一部ですな」
生まれて初めて見る王都の大きさに、リックはただただ身震いがした。それは、今までの憂鬱を吹き飛ばすような、彼の奥底から湧き上がる高揚感のせいだ。いよいよ、王都に来たのだ、と。
「ムーギーさん! 早く行きましょう!」
リックは興奮した様子でそう言って、すぐさま荷台に駆け込んだ。ムーギーはその様子を見て、また大きな笑い声をあげて手綱を握りなおした。
それから国路を進む間に、リックは何度もムーギーの横から顔を覗かせ、前方にそびえる巨大な壁を眺めた。近づくにつれて、馬車の速度は遅くなり、リックたちも、行商人の列に加わった。門の直前には何人かの門番が立っていて、一人が大声を張り上げているのが聞こえた。
「王都に入る者は左側に、王都から出て行く者は右側にそれぞれ並べ! 行商人は身分の証明と、荷物の確認をさせてもらう!」
皆、大人しく指示に従っている。リックはその様子を見ながら、ムーギーに囁いた。
「なんか、物々しいですね。東の都・トートになら何度か行きましたけど、こんな検問みたいなことは、やってなかったのに」
ムーギーが表情を曇らせ、同じように小声で答える。
「王都も、この検問を実施し出したのはここ数年の話です。…レジスタンスの噂は、聞いたことがございますか?」
リックが首を横に振ると、ムーギーはここ最近の王都の事情を説明してくれた。
「現在のスロウト王政になって早くも十年、国の財政は悪くなる一方です。父君のフレイル王、叔父上のセレス王の時代を経て、東の大国・シローリア王国とは和平協定を結びました。しかし、南のゴンドーとは未だ停戦中に過ぎず、いつ国境戦が再開するかも分からない。重税はその為の軍事費だと言われていますが、正直なところ、役人や貴族の懐に入っているようです。地方では横暴な領主や貴族に、国民が苦しめられているようで…」
現王制になってからの圧政に関しては、リックも何となく理解していた。先代王の治世でも貧民街はあったが、今ほどひどくはなかったし、現王政から重税や腐敗政治が目立つようになったことも。国の外れにある故郷では、あまり実感することはなかったが、
話している間も馬車はゆっくりと動き、前に合わせて停まった。続けてリックは、レジスタンスについても尋ねてみた。ムーギーの話によると、それは五年ほど前から打倒現王制を掲げ、王都にある国の施設や駐屯地を襲撃している集団だという。噂では、貧民街の出身者や元軍人で構成されており、一部には魔法使いもいるのではないか、とのことだった。また、現在まで憲兵隊や
話しを聞き終えたリックが、問題は山積みですね、と相槌を打つと、ムーギーは更に憤りを込めた口調で言った。
「まったくその通りです! そんな中で、一年後には現王制十周年と、建国八〇〇年を祝う式典を行おうというのですから、正直どうかしています! 一部の議員や貴族は反対の声を上げていたようでしたが、大半の者は王の言いなりです。式典など、大規模テロの格好の舞台だというのに!」
そこへ、彼の怒りを宥めるように、リックたちの番が回ってきた。ムーギーが身分証を見せると、他の者には高圧的だった門番が居住まいを正し、緊張した面持ちで、お会いできて光栄です、と敬礼をした。無事に検問を抜けところで、ムーギーがリックの方を振り返り、昔取った杵柄です、と冗談を言った。
「さあ、着きました! ようこそ、ガルディア王国の中心地へ!」
巨大な門を抜けると、城壁の中は人々の活気で満ち溢れていた。二人が入った東門から王宮へと続く大通りには、露店がずらりと並び、商人たちの威勢のいい呼び込みの声が響いている。街行く人々は、誰もが楽しそうに笑っていた。
「すごい人の数ですね! 今日は、縁日か何かですか?」
ここが一大都市であることを実感し、リックは思わずムーギーに尋ねた。先ほどの話から、もっと閑散としているのかと思っていたが、想像とは真逆だ。
「いえいえ、ここではこれが日常ですよ。ひとまず、私の家に向かいましょうか」
馬車は大通りを逸れ、民家が軒を連ねている横の道に入った。白い土壁の民家の前では、子どもたちが遊んでいたり、主婦たちが井戸端会議を行ったりしている。ガタガタと音を立てながら、馬車は南に進んでいく。穏やかな雰囲気に、リックはどこか安堵した。
「さっきの話からもっと荒んでいるのかと思っていましたけど、そうでもないんですね」
だが、楽天的なその言葉を打ち消すように、ムーギーは首を横に振り、右手の細い路地の方を見てください、とつぶやいた。視線を向けたリックは、路地の薄暗がりの中、地べたに何かが蹲っているのを見た。それが人だと分かった瞬間、彼は言葉を失った。その衝撃が終わらぬうちに、ムーギーが言葉を続ける。
「それと、先ほどから横一列に並んで歩いている男たちに、気付いておりましたか?」
リックはそれとなく前の方を覗いてみた。彼の言う通り、一定の間隔で、横一列に並んだ男たちが、周囲を見回しながら歩いてくる。
「制服は着ていませんが、王都憲兵隊です。レジスタンスを捕らえる為に、彼らは市民に変装しながら、都の警備を行っています。路地裏にいたのは貧民ですが、北にあるスラム街からあぶれてきたのでしょう。綺麗に見えるのは表だけで、暗がりに目を向ければこの有様です」
華やかな暮らしを送る人々がいる一方で、同じ王都でも貧困にあえぐ人々もいる。さらに言えば、穏やかに見える日常でも、人々は常にテロに怯えながら生きている。そんな社会へのやるせなさを、ムーギーは言葉と共に吐き出した。
「これが、この国の現状です。体裁を取り繕うだけで、本当に助けが必要な者には、手が行き届かない。いえ、見て見ぬふりをする。レジスタンスのような輩が出てきてしまうのも、仕方のないことなのかもしれません」
それから間もなく、馬車は白い石塀に囲まれた家の前に止まった。ムーギーはリックに荷物を下ろしておくように言うと、家内を呼んできます、と一人で門をくぐっていった。リックは、言われた通りに自分の鞄を背負って荷台から降りた。降り注ぐ日差しに、一瞬目が眩む。ムーギーの家は、周囲のものと比べて一回り程大きかった。白い石壁の塀には格子の門が付いており、母屋へ続く道の脇には木々が植えられている。家の方から話し声が聞こえたので、リックは荷物を持ち、そちらに歩いていった。玄関の前に、ムーギーと年配の女性が立っていた。頭に手拭いを巻き、腰には白いエプロンを付けている。
「家内のモーイです」
向かってくるリックに気付いたムーギーが、婦人を指して言った。モーイは、リックに向かってにっこりと微笑むと軽く会釈をした。
「初めまして、リッキンドル様。妻のモーイと申します。主人から、事情は聞きました。息子の空き部屋があるので、そこを使って頂こうと思うんですが、少し居間でお待ちいただけますか? 物置代わりに使っていたものですから、片付けないといけませんので。長旅でお疲れの所、申し訳ありません」
丁寧なモーイの言い方に、リックは、恐縮してしまった。
「い、いえ! 突然押し掛けてしまったのはこちらですから! は、初めましてモーイさん、リッキンドル・フォーデンスです! よろしくお願いします!」
リックが慌てて、モーイに頭を下げた。ムーギーの妻だというから、きっと良い人なのだろうとは思っていたが、予想通りの人物で、リックは少しホッとしていた。ムーギーはリックの案内をモーイに任せ、馬を繋いでくる、と再び外に出て行った。彼女はリックを居間に通し、暖炉の前にある椅子を勧めると、自分はいそいそとキッチンに飲み物を取りに行ってしまった。家の中は綺麗に整理されていて、暖炉の前には椅子が二脚、部屋の右側に奥に続く廊下があり、左手にキッチンと四人掛けのテーブルが見える。奥にある窓からは裏庭が見え、ムーギーが、馬小屋に馬を引いていく姿が見えた。
リックは荷物を床において、椅子に腰かけた。ムラエナを出発してからの長旅と、途中でひと騒動遭ったこともあり、初めて来た家なのに人心地着く思いだった。
「お待たせしました。そういえば、リック様、とお呼びしてよろしいかしら?」
声に顔を向けると、モーイが紅茶の入ったカップを三つ、お盆に乗せてリックの方に歩いてきた。お礼を言ってカップを受け取りながら、リックが答える。
「もちろんです!・・・あの、本当にご迷惑じゃなかったですか?」
リックの言葉に、とんでもない、とモーイが優しく笑った。
「この紅茶、うちで育てているハーブを入れてあるの。お口に合うか分かりませんが、どうぞ、召し上がってください。私は部屋を片付けてきますね」
ソーサーに乗ったカップを渡して、モーイは奥に続く廊下に消えてしまった。リックは、受け取った紅茶を冷まして、一口飲んでみる。爽やかなハーブの香りと、淹れたての紅茶の温かさに、彼は思わず深く息を吐いた。
しばらくして、三人は遅めの昼食を取ることにした。モーイの提案で、折角のいい天気だからと、裏庭に小さなテーブルを出す。白いクロスを敷いて、その上にパンとサラダ、スープ、鶏肉の香草焼きが並ぶ。柔らか日差しが降り注ぐ、春の午後の穏やかな陽気だった。庭先には、小さな鳥が何羽か迷い込んでいる。
「どうぞ、遠慮なさらずに召し上がって下さい。三人での食事なんて、息子が独り立ちして以来だから、少し多く作り過ぎてしまったわ」
モーイに勧められるまま、リックは早速、鶏肉の香草焼きに手を伸ばす。一口食べて、思わず、美味しい、と声を上げてしまった。先ほどの紅茶と同じように、家で育てているハーブと塩で味付けをし、オーブンで焼いた鶏胸肉はシンプルなものだった。しかし一口噛めば、香ばしい肉汁が口いっぱいに広がった。塩とハーブも効いていて、ピリッとした辛さが、食欲をそそる。
リックの反応に、良かったわ、とモーイが微笑み、サラダを取り分けてくれた。こちらも、庭の隅にある小さな畑で採れた野菜を、特製のドレッシングで和えたものだ。野菜は採れたてだけあってどれも新鮮で、シャキシャキといい歯ごたえだ。
「そんなに美味しそうに食べて頂けるなんて、作り甲斐があるってものです。いつも二人きりだと、感想も言ってくれませんから」
モーイが冗談っぽく言った言葉に、ムーギーは慌てて、おいしいですよ、と料理にがっついた。リックは、二人のやり取りに思わず笑ってしまう。
「リック様は、エビナンス様とずっとお二人で暮らしていたんですか?」
不意に、モーイがリックに尋ねた。リックは食事の手を止め、ええ、ムラエナの近くの小さな丘の麓で、と頷いた。その後で苦笑を浮かべる。
「師匠、魔法以外は全然ダメで、僕も掃除以外は得意じゃなくて、食事は近所の人たちが持ってきてくれたりしてたんです。なんだか、モーイさんのご飯、その料理に似ているなって。上手く言葉に出来ないですけど、温かさっていうか、懐かしさっていうか。まだ少ししか経っていなのに、おかしいですよね」
照れ笑いを浮かべ、頭を掻くリック。モーイは優しい眼差しを彼に向けた。
「そんな風に思ってもらえるなんて、とても嬉しいわ。でもそれはきっと、あなたの心にしっかりと故郷があるからですね。リック様は、村の皆さんに大切にされてきたんでしょう。この王都は、リック様にとっては異国のように心細くて、辛いことの方が多い街かもしれません。寂しく思うことも当然です。でも、そんな時は、いつでも我が家にいらしてください。私たちは、この街があなたにとって、ムラエナと同じように大切な場所になって欲しいと思っていますから」
ムーギーも、モーイの言葉に頷く。リックは、なぜ二人がこんなにも親切にしてくれるのか不思議だった。ただ、その言葉がとても嬉しかったのも本当の気持ちだった。
「…ありがとうございます」
リックはそう言って、二人の優しさを噛み締めるように料理を口に運んだ。
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