旅立ち

 晴れ渡る青空の下、丘の上にある大樹の葉を風が揺らしている。木漏れ日が、影になった地面に様々な模様を作っては、すぐに形を変えていく。木の根元には少年が一人、遥か彼方に広がる山並みや、眼下に流れる川の景色を、ぼんやりと眺めていた。

「リーック! 迎えの馬車が来ちまったぞ!」

 遠くから老人の怒鳴り声が聞こえ、少年—リックは立ち上がり、周りの景色にゆっくりと目を向けた。風にそよぐ木々の緑を、きらめく川の流れを、日差しが降り注ぐ鮮やかな景色を、その瞳に焼き付けるように。そして、短く息を吐き、意を決したように、彼は声のした方に駆け出した。

 ガルディア王国の東の外れ、大草原の近くにあるのどかな農村、ムラエナ。その村から少し西、小さな丘を降りた先に、リックの家があった。石造りの壁に、藁で作った屋根の平屋。この国の一般的な家の作りだ。家の周りには小さな畑があり、春先の暖かな空気を感じてか、緑色の小さな芽があちこちに芽吹いている。家と畑を囲むように作られた柵の前に、人だかりが出来ていた。その近くに、二頭立ての馬車が止まっている。近づいてくるリックに気付いて、人々が視線を向けた。

「すみません! 師匠! ちょっと、丘の景色を見たくって」

 人だかりに駆け寄りながら、リックが前の方にいた禿頭の老人に声を張り上げた。師匠と呼ばれた老人は、立派な口ひげを蓄え、服の上からでも盛り上がった筋肉が分かるほどがっちりした体格をしている。彼が先ほどの怒鳴り声の主だろう。息せき切って走って来たリックを、鼻息荒く睨みつけると大声を上げた。

「何を悠長な! 五日後には王都で入隊試験だというのに、緊張感が足りとらん! そもそも、わざわざお前さんを見送りに、村の者たちが忙しい中集まったというのに―」

 春の空気を裂く雷鳴のような怒号の嵐に、リックはおもわず身構えたが、老人が勢いづく前に、宥めるような声が二人の間に割って入った。

「まあまあ。私らはみんな、見送りに来たくて集まったんですから、こんな日までカリカリするもんじゃありませんよ、エビナンス様」

 良く日焼けした恰幅の良い中年の女性が、リックの後ろに立っていた。頭に手ぬぐいを巻き、服には所々泥が付いている。集まったほかの人々も、野良着を着て、鍬や鎌などの農具を持っていた。

「エリおばさん! それに皆さんも、春の収穫時期で忙しいのに、ごめんなさい…」

 すっかり恐縮した様子で、リックが申し訳なさそうにそう言った。

「何を言ってるんだい! 村の家族の旅立ちは、みんなで見送るさ!」

 エリがニッコリと微笑む。周囲にいた人々も、彼女の言葉に頷く。その様子を見ていたリックは、何かを堪えるように唇を噛み、急に深々と頭を下げた。

「今まで、本当にありがとうございました! 僕、寂しいけれど、必ず、魔法使いの部隊(ソル・セル)に入って、立派な魔法使いになります……」

 顔を上げ、目を潤ませてそう言いながら、リックが鼻をすする。何人か、もらい泣きをしたのか、同じように鼻をすする音が聞こえた。一方で、その様子を黙って見ていたエビナンスは、大きなため息を吐いた。

「二度と会えん訳じゃあるまいし、大げさな…。めそめそするな、うっとうしい!」

 突然、彼はリックの背中を思いっきり、シャキッとせい、と平手で叩いた。うわ、と声を上げて、リックが前によろめく。

「分かっていると思うが、試験に受かったとしても、王都での訓練の日々は辛いぞ。それに、向こうにはあいつもいる」

 エビナンスが険しい表情で言った。リックもその言葉に、気を引き締めたように真面目な顔になる。エビナンスは、真っすぐにリックを見て言葉を継いだ。

「この五年間、わしは祖父としてではなく師として接し、お前さんは弟子として修行を耐え抜いた。贔屓ではなく、お前さんには才能も実力も十分にある。だが、心はまだまだ弱い! 常に傲り高ぶらず、自らを律し、努力を怠るな。そうすれば、風の魔力がお前を導いてくれる。堂々と、胸を張って行ってこい!」

 そう言って、エビナンスがニッと口の端を吊り上げる。温かくも厳しい師匠の言葉に、リックは袖で涙を拭い、はい、行ってきます! と、声に力を込めて答えた。そして、再び周囲の人たちに頭を下げる。

「皆さん、師匠のことをお願いします! ご飯とか掃除とか、家事全般はからっきしだから、僕がいなくなったら生活できないんじゃないかって、それだけが心配で―」

 リックの頭に、余計なお世話だ! とエビナンスが今度はげんこつを振り下ろした。その様子を見て、周りに来た人々に笑いが起こった。


「―では、参りますよ」

 運転手の老紳士がそう言って、リックを乗せた二頭立ての幌馬車が、ゆっくりと動き出した。馬車に手を振る人々の姿が、どんどん小さくなっていく。リックは、その姿が見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。

 村を離れ、馬車は国の中心である王都に向かう。リックにとって、今までは村の周りが彼の世界であり、そこから遠い土地は、たまに村にやってくる旅人か、行商人の話でしか触れたことのないものだった。王都は文字通りこの国、ガルディア王国の中心に位置する首都だ。巨大な壁に囲まれた城塞都市で、その中心に王宮がある。都市の中は、行商人や観光客で溢れかえり、毎日お祭りのような賑わいだと、王都から来た商人が話していたことを、リックは思い出した。馬車の外の流れていく景色に、期待と不安が入り混じった、不思議な高揚感が募っていく。

「…不安ですか、フォーデンス様?」

 ずっと黙っているリックを見かねて、運転手の老紳士が声を掛けた。

「え、は、はい…。村を離れるのは、初めてなので…。えっと…」

 リックがおどおどと答える。運転手は、人の良さそうな初老の男性だ。エビナンスの知り合いらしく、わざわざ王都からリックを迎えに来てくれたのだという。しかし、リックは彼の名前も知らなかった。男性も、リックの気持ちを察してくれたのか、柔和な笑みを浮かべて、自己紹介をしてくれた。

「御挨拶がまだでしたね、私はムーギー・ホルステンと申します。元国軍の兵士で、今は家内と二人で暮らしております。今回は、エビナンス様から直々のお手紙を頂いて、この役目を仰せつかりました。王都までは、この国路でも二日ほどかかりますので、よろしくお願いします」

 ムーギーがリックの方を振り返りながら、軽く頭を下げた。リックも慌てて居住まいを正し、頭を下げる。すでに名乗る必要はなかったのだが、リッキンドル・フォーデンスです、と緊張した面持ちで、声を少し上ずらせて挨拶をした。その様子に、ムーギーが声を出して笑う。

「ええ、存じ上げておりますよ。エビナンス様から、あなたのお話はよく伺っておりますから。もちろん今回の目的、魔法使いの部隊ソル・セルに志願される、ということも。流石は、元風の長と現水の長のご子息、と言ったところですな! 才能だけでなく、この国を想う志を持っておられる!」

 御立派です、とムーギーは心底からリックの事を褒めてくれた。しかし、彼の言葉と対照的にリックは表情を曇らせ、どこか気まずそうな笑みを浮かべた。

 魔法使いの部隊―通称、ソル・セル。火・水・土・風の四人の魔法使いの長に率いられ、建国から王国を守ってきた国王直属の部隊だ。国防を担う精鋭部隊であるが故に、入隊に至るまではかなりの難関とされている。まず、一年に一度開催される試験を受けられるのは、15歳の時の一度きりだが、合格するほどの魔法の才がある者など、国中を探しても一握りである。そして試験に合格しても、そこからの一年間の厳しい訓練を耐え抜いた者しか、正式に部隊への入隊は認められない。そうして選ばれたとしても、彼らは戦場では一般兵士の前に立ち、文字通り最前線で国を守る存在であり、死と隣り合わせの危険な職務に従事する。それ故に、国や民を守る崇高な使命、と国民には捉えられていた。

 しかし、尊敬の念を抱く人々もいる一方で、魔法を軍事利用することに反感を覚える人々も少なくない。それは、この国において、魔法が精霊より授かった生活の糧である、と言った考えが関係しているためだ。国民の生活の中に根付いている魔法は、風や天候を読んだり、小さな傷を治すなどと言った、自然に沿ったものだ。市井で使われる魔法は、せいぜい〝便利なもの〟くらいでしかなかった。それを戦争の道具に使うことに抵抗を覚えることは、昔からこの国の人々の中にある感覚だったのだ。

 そういった魔法使いの部隊ソル・セルを取り巻く複雑な事情に加えて、実はもう一つ、ぎこちない笑みには彼自身に関わる理由もあったのだが、ムーギーもそこまでは知らないようだ。リックは謙遜するように、首を横に振った。

「そんなこと、ないですよ。僕なんてまだまだです。……ムーギーさんは、師匠のことは昔から知っているんですか?」

 ムーギーが大きく頷き、懐かしむように目を細める。

「エビナンス様がまだ風の長だった時に、私の部隊はよく行動を共にしていました。今から、四十年以上も前のことですがね。先々代のフレイル王政の初めの頃ですな。当時はまだ、シローリア王国との国境戦が続いておりました」

 シローリア王国は、東の大草原を越えた場所にある大国だ。ガルディア王国とは、長きに渡って国境戦を続けていた。それを終わらせたのが、ムーギーの言うフレイル王政の時であり、エビナンスは当時の風の長、つまりは風のソル・セルのリーダーだったという訳だ。そのおかげで、現在は停戦協定を結び、大草原を隔てているとはいえ、両国間の国交もある。ムーギーは、少し誇らしげな口調で当時のエビナンスの様子を語った。

「風の長として私たち一般兵の前に立ち、敵をなぎ倒していく様はまさしく鬼神の如き、といった感じでしたが、戦場以外でのあの方は豪放磊落、実に気の良い武人でした。久しぶりにお会いしましたが、お変わりなさそうで何よりです」

 リックは思わず苦笑いをした。その手の武勇伝はムラエナの人たちや、なんならエビナンス自身からも聞いていたが、作り話ではなかったらしい。

「お孫さんと聞いていましたが、やはりエビナンス様は厳格ですね。師匠と弟子という線引きは、しっかりされておられる」

 何気なくムーギーがそう口にした。しかしリックは、それは僕からお願いしたんです、とその言葉を否定した。ムーギーが怪訝そうな表情をする。

「僕、物心つく前に師匠に引き取られて、小さい頃は両親のことはおろか、祖父自身のことも教えてもらっていなかったんです。十歳の誕生日に、初めて父が会いに来てくれて…。その、色々あって、僕も魔法使いを目指すことにしたんです。師匠は、最初は反対していましたけど…」

 明らかにその声が落ちていくのを感じ、ムーギーが慌てて謝罪の言葉を口にした。

「すみません! ご両親のお話は存じ上げておりましたのに。…お気に障ったのでしたら謝ります」

 リックも、そんなつもりじゃないです、と慌てて否定したが、気まずい沈黙が二人の間に流れる。それ以降、ムーギーは無理に彼に話しかけようとはせずに、車輪の回るゴロゴロという音だけが野原に響いていた。

 いつの間にか、オレンジ色の夕日が山の向こうに沈み、夜空と夕空の間には星が瞬き始める。リックは揺られながら、後ろに流れていく景色をぼんやりと眺めていた。時折、うつらうつらと、眠りに落ちそうになる。その時、ムーギーが声を掛けた。

「フォーデンス様、今夜泊まる、ササナの町が見えてきましたよ」

 リックは閉じかけていた瞼を開け、ムーギーの肩越しに前を覗いてみた。遠くに見えるレンガの街並み。ササナは東から王都に向かう旅人や行商人が、主要道路である国路に入る前に訪れる宿場だという。また、この街の南には、フライ河という大きな河川がある。この河は、西の軍港レクタシアの近くにある河口まで続いているため、船に乗った行商人も、少なからずこの街に立ち寄るという。陸路からも航路からも人々が訪れる、それなりに大きな町だ。

 二人が町に着いた時には、すっかり日が落ちていた。町の入り口からたくさんの宿屋が軒を連ね、そのどれもが二、三階建ての赤いレンガ造りだった。通りに並ぶ露店や飲み屋には明かりが灯り、威勢良い客引きの声が飛び交っている。通りを行き交う人々も多く、ゆっくりと進む馬車から町の風景を眺めていたリックは、賑やかな印象を受けた。

 二人は町の中心にある広場の近く、初老の夫婦が営んでいる宿に入ることにした。

 ムーギーが馬小屋に馬を入れてくる間に、リックは主人に案内され、先に二階の客室に向かった。主人が扉を開け、燭台に刺してある蝋燭に火を付けると、質素ながら清潔感のある室内が見て取れた。広くはないが、その分、ランプと蝋燭だけでも十分明るい。主人は、食事の支度が出来たら呼びにきます、と部屋を出ていった。

 リックは手に持っていた鞄を床に置き、大きく息を吐き出して、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。日がな一日、馬車に揺られていたのは初めての経験で、全身に何とも言えない疲労を感じる。彼は上半身を起してベッドに腰かけると、腕や首を回して体をほぐした。

 そこでふと、腰のベルトに刺していた短剣を手に取った。旅立ちの少し前、入隊試験を受けることが決まった時に、エビナンスが渡してくれたものだ。その時に聞いた話では、この短剣は初代の風の長からフォール家―エビナンスの家系―に与えられたもので、代々受け継がれてきた家宝だという。リックは改めて、まじまじと短剣を見つめた。銀の鞘にはつむじ風を模した小さな紋章が刻まれている。初代風の長の紋章らしい。鞘から剣を抜き、刀身を光にかざす。綺麗に磨き上げられた銀色の刃は、八百年近い年月を刻んでいるのに、全く錆びついていない。初代風の長は、建国の王・ガルディウスと共に、長きに亘る争いを鎮めた魔法使いの一人だ。その性格は温厚だが、戦いに赴けば勇猛果敢に先駆を切り、どんな困難な状況にも光明を見出した。誰よりも早く、また速く戦場を掛ける様は「疾風」の異名で畏れられ、全てが分かっているかのような迅速な行動から、長には未来が視えている、などと言われていたらしい。

 どういった経緯でフォール家に託されたのかは分からないが、魔法使いの部隊ソル・セルに入った者に延々と受け継がれてきた。エビナンスが風の長を引退してからはリックの母親が引き継いでいたらしいが、彼女が亡くなり、再びエビナンスが持っていたという。それゆえに彼は、これはリックの母の形見でもある、と言っていた。 

 母の形見と言われても、一度も会ったことが無いため、正直、リックにはピンとこなかった。その為人についても、エビナンスはあまり話してはくれなかったし、一体、どんな人だったのだろう―。

 その時、亡き母に馳せていたリックの意識を引き戻すように、ノックの音が響いた。続いて、扉の向こうから店主のくぐもった声が聞こえてくる。

「お客さん、お食事の用意が出来ましたよ。下の階にある食堂まで、お越しください」

 リックは返事をして剣を鞘に納め、再び腰のベルトに差すと、立ち上がった。

  

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