少年刑事ウェンズデイ・全仕事
緑茶
file1 うごく標的
黒い影の男が疾走している。その後ろから、アダム刑事が追いかける。
空が見えないほど雪は降り続き、街並みを薄暗いモノトーンに染め上げている。
真昼の追走劇は、舞台を路地裏に移しながら続いていた。
アダム刑事――通称、『飢えた猛犬』は今年で五十二歳。シティ市第二十七分署の、一級刑事。
かつて悪党どもを震え上がらせていた大柄の肉体も、今はくたびれたコートに包まれながら、油の足りない機械のような有様だった。くわえて、年輪のように顔に刻まれたシワと、後退した白髪が、彼の追跡を実年齢以上に痛々しく見せていた。
ひしめく建物の隙間を黒い影が通って、その後ろを彼が追う。息が、荒い。
先を進む男の足取りは極めて軽く、まるで新雪の上を跳ねているようで、奇妙に現実感がなかった。その後ろを、さびついた鉛を引きずるようにして、アダムが行く。
アタマの内側に、がんがんと声が響く。壁を這う赤茶けたパイプ、卑猥な文言のスプレー落書きに呼応するように。
――言ってるだろ。それぞれの事件に関連性はないんだ。そいつは、紙切れに過ぎない。
この追跡の前、同僚が投げかけてきた言葉。意味するものはひとつ――『目立つな』。
――実に鬱陶しい。ならそれで、こいつを放っておけばどうなる。
奴は速い。距離をどんどん引き剥がし、前へ前へと消えていく。ぜいぜいとかすれた音が喉からこみ上げて、脇腹がひどく痛んだ。
――誰もお前には手を貸さないよ……どうせ、何もかも閉ざされちまう。この雪の街に。
今度は上司の声だ。二日酔いのせいか、いくつも、フラッシュバックみたいに。
――うるせぇ、知ってんだよ。だからおれは、応援もなく、たった一人なんだろうが。
彼は孤独だった。最初はそれでもいいと思っていた。
だが、そろそろ限界が来ていた。からだが、重い。
途中、横転し生ゴミをぶちまけているポリバケツに足を引っ掛けた。悪態をついて、更に進む。なにもかもが、彼の邪魔をする。
畜生、ふざけるな――おれはまだ定年じゃねぇんだぞ。こんなところで。
――知ってるだろ。俺たちのいる場所は腐ってる。どれだけきれいなもんを求めたって……。
分かってる。だがあいつは、人を殺したんだ。だからおれは追わなきゃならない。奴は先に進む、何だあの動きは、本当に、雪なんて無いかのように動いて――。
――それともお前、自分だけはきれいなままでいると、本気で思ってるのか?
たどり着く。路地裏はそこで終わった。
袋小路。壁際に、黒い影はいた。
ダークスーツに、バラクラバ帽の、名も知らぬ男。こちらを見ていた。
「止まれっ!」
だが、男は警告を無視した。
背を向けて、壁を乗り越えようとし始めた。
思案より、行動が先走った。
刑事はホルスターから抜いていた大型リボルバーを男の脛に向けて、トリガーを引いていた。
黄土色の弾丸は銃口から溢れ、標的に向かった。そのまま、男の足を貫くと。
それが当たり前で、そう思っていた。
男は、身体を奇妙に曲げた。
関節がないかのような、いびつな湾曲だった。弾丸はすりぬけて、壁にぶちあたった。
動揺して、耳の中から音が消えた。目の錯覚と思った。だから次弾が、今度こそ放たれた。
男はバレエを踊った。黒い四肢がまがりくねって、再び銃の軌跡を回避した。
それだけではなかった。
彼はそのまま、踊りに任せて、飛び上がった。
否――刑事の眼前の空間上を、跳ね回りはじめた。
視界の至るところに、男が居た。あらわれては消えた。そうとしか思えなかった。
でなければ、男は今まさに、その身体を伸び縮みさせながら、こちらの銃口をもてあそんで、袋小路を縦横無尽に駆け巡っていることになるのだから。
刑事は構えて、撃っていた。撃っていた。
マズルフラッシュが酩酊を誘って、銃弾の軌道さえゆっくり見えるようだった。それらがポールダンスのように、ぎりぎりのところで、男にかわされるところも、視界に焼き付く。
おれは何を見ている。こんなことはありえない。こんなの、人間のやれることじゃ――。
……ふと、焦点があった。狂っていた時計の時刻が修復されたようだった。
偶然だったのかもしれない。
弾丸は、『跳ね回り男』の、地面での一瞬の静止をとらえた。
細い体の、胸部に突き刺さる。
しまったと、詰まっていた息を全部、吐き出そうとした時だった。
弾丸は、彼の黒い身体の奥に奥に、沈み込んでいた……『ゴムのように』。
次の瞬間には、弾丸は、そこから吐き出された。反動で、男の身体がたわんだ。
刑事は、その弾丸を喰らった。
知覚するまで、ぽっかりと空白の時間があった。
……緩慢な刻が戻って、刑事は膝から崩れ落ちた。
ごぼりと血を吐く。どろどろと、不快にあたたかい。内蔵を、やられた。
そのまま、地面に倒れ込む。
ぐらぐらと地面と平行になる視界の中で、男が体を縮めて飛び上がり、壁の向こう側に消えるのを見た。手を伸ばしても、届かない。
雪が身体に積もってくる。ガタガタと震えながら、少しつづ内側の熱がきえていく。
遠くなっていく壁。
それから、また声が聞こえてくる。同僚の声。上司の声。
混ざり合ってひとつになって、責め立てる。
――思い出せ。お前は正義の味方なんかじゃない。清廉潔白な警官なんかじゃあない。
――思い出せ。お前は五年前、大勢が死んだあの時、一体何をしていた?
それから、脳裏によぎるのは、まさに『その時』、自分が目撃していたもの。
まずはサイレン。それから現場。到着する大勢の車、そして悲鳴だ。
――馬鹿言うな、旅客機が墜落しただけでこんなことになるかよ!
只中で、マスコミの誰かが叫んでいた。錯綜する情報。
……黒焦げになり、一つの巨大なクレーターと化した大地がみえる。
――声明は事前に出てたんじゃないのか! 警察は何をしていたんだ――。
そのとおり。
五年前、聖夜の正午。街の只中に、旅客機が墜落した。死んだ、死んだ。大勢死んだ。
だが、本当を言えば、間に合うはずだった。
では、何を。あのとき、自分はなにを。ああ、そうだ、自分は。
薄れゆく意識の中で答えをたぐる。
惨劇が起きていたまさにその時間、その瞬間の自分にフォーカスする。
――あなたはそうやって自分の仕事で誰かを救ってるつもりなんでしょうけど、大間違いよ。 家族さえ守れない男に、何が守れるっていうの!
目の前で、ずいぶんと老け込んだ女が叫び散らしている。彼は、腹がたった。
――ふざけるな。何も知らない癖に。
――そうやって手を上げるのね……そうすれば自分に従うと思って! 世の中にはあなたの思い通りにならないものだってあるのよ……!
妻の言葉。それで思い出す。
そうだ、おれはあの時、離婚の話し合いを、くだらない話をしていた……。
脳内でテープの巻き戻しが終わって、現実にかえる。
雪に血が滲みはじめる。深く物事が考えられなくなる。
――あいつはなんだったんだ。身体が、ゴムみたいになって。あんな化け物がいるのか。
――だとしたら、放っておいたらだめだ。もっと大勢死ぬことになる。手を銃に伸ばす。ああ畜生、駄目だ。もうダメだ。一体おれは何を、どこから、間違ってたんだ。
ああ、神よ。どうせ死んじまうなら、おれをもう一度やり直させてくれ。
今度は、もっと若くて、もっと元気で……そうすれば……今度こそ――。
◇ 十二月四日 時刻:午前8時 ◇
……目を開けた。
銃口が、自分に向けられているのが分かった。
自分は仰向けに倒れていて、そこに一人の女がのしかかっていた。黒いボディスーツ。
「えーっとだな」
とりあえず状況を確かめる。自分はあの時銃弾を受けて倒れた。しかし腹を触る……銃槍は消えている。というより、一切の怪我が消えている。それから、雪が降っていない。
なるほどつまり。これは夢だ。そう捉えるべきだろう。
女、ポニーテールの黒髪の女はぞっとするほど冷たい目でこちらを見下ろしていて。
それからあっさりと、構えた拳銃のトリガーを、引いた。
炸裂。
「うおあっ!?」
だが当たらなかった。彼はギリギリで、横転して回避。床。コンクリート。着弾の痕。視線を巡らせる。女と目が合う。そいつは再度こちらに銃口を向けて……。
撃った。撃った。撃った。
目覚めて間もないというのに。途方も無い話を聞かされてばかりだというのに。欠片の容赦もなく、躊躇もなく、女はこちらに、発砲してきたのだ。
――なんてこった。これは夢じゃない。だとしたらここはどこだ、どうなってんだ!
彼はバタバタと足を引きずりながら、とにかく逃げた。弾丸は彼に当たらなかった。死ぬほど精一杯頑張って回避したというべきか。彼は頭を両腕で抱え込みながらダッシュして女から遠ざかる。後ろから銃撃が追いかけて傍らをかすめ、遠いどこかに衝突、甲高い音を立てる。
場所。確認する。灰色の床。それから周辺、瓦礫。がらくた。壁は。遠い。音がにぶく反響する。地下室のような場所。
どこか、どこか隠れる場所。届くわけもないのに両腕をかいてもがく。
見つける。傍らを、チュン、とかすめる音。大きなコンテナの後ろに隙間。
彼はダバダバとへっぴり腰でそこに逃げて、入り込んだ。
女がなおもこちらに銃口を向けながらも、自動拳銃の弾倉を付け替えるのを見た。
「センセイ。やっぱりビンゴっス。カタギの動きじゃないことは確かっスね。どうします」
どうやら誰かと通話しているらしい。そのスキに、彼は遮蔽物の影の中、自分の服を弄った。
あの女め。くそっ、武器。おれのリボルバー。探せ――だが。無い。
あの時ホルスターにあったはずのものが、消え失せている。
それ以上に、なんだこれは。あるはずのものが無い以上に、身体に強烈な違和を感じる……。
「自分の状態にも気付いてないっぽいっスが。叩き起こしますか……ああ、やっぱり。気が進みませんが、やりますか。オーダー、了解っス」
女は通話を切った。
や、やばい。武器を、いやせめて、丸裸じゃなくするための何かを。
「埒を、あける」
鉄パイプ。転がっているのが、目に入った。そこに、手を伸ばそうとした。
その前に、女がまた撃った。こちらに向けて、ではなかった。
音。上から……上?
赤錆だらけの回転灯。
その基部を、弾丸が貫くのを見た。火花が散って、複雑な形の塊が、天井から泣き別れた。
「なっ」
次の瞬間。回転灯は、地面に落下して、盛大にこんがらがった音を立てた。
煙が舞う。彼はまたしても、ぎりぎりで避けた。前転は失敗して、コンテナの影から這い出て、そのまま倒れ込んだ。
カチリ。音。顔を上げる。
女が、こちらを無感情に覗き込み、銃口を額に向けている。
ビンゴか。チェックメイトか。
「なんなんだ、あんたは。おれをどうする気だ」
「そいつには答えないっス」
「そうかい……」
彼は後ろ手に、さきほど落ちていた鉄パイプを拾おうとする。だがそれは回転灯の下敷きになっていて、引き抜けない。両腕を使えばできないこともないだろうが、この華奢でイナセな女が、それを許してくれるとも思えない。
だが、事情も知らないまま死ぬのも御免こうむるわけだ。
なら、どうする、会話で時間を稼ぐか。いや無駄だ。なんだ、身体に力が入らない。銃口はこちらを向いたまま。考えろ、考えろ。焦燥。
「なら、おれもあんたに用はない。そのままうしろを向いて、立ち去ることはできないか」
「無理っスね」
女の指が、トリガーを、引く……。
待て、待て待て待て。やめろ。話を聞け。それが駄目なら、おれの銃を返せ。着任当時から使ってたんだ、くそっ、やけに時間がゆっくりに感じる、弾丸が今、銃口から吐き出されて。
――ふざけんな。おれは。おれは。『まだ』。
その思いが、爆ぜるイメージ。
彼は何事かを叫びながら、腕を前に突き出した。
その時、鉄パイプがひとりでに動き、回転灯から逃げ出して。
彼の腕の軌道に乗って、前方へまっすぐに射出された。彼は気付いていなかった。
ただ、腕を前に出しただけだった。あの女の拳銃を叩き落とすつもりで。
……腕が、女の手元にまで、伸びるイメージで。
「っ!」
鉄パイプが、ミサイルのように飛んだ。
彼女は首を横に振って避けた。あらぬ方向へ飛んだ弾丸が、乾いた高音を響かせた。
……目が、彼を睨んだ。
彼は、ただ必死に。腕を、伸ばしていた。
鉄パイプは、女の頬を、髪をかすめた。
……髪留めが、衝撃でほどけた。彼女の髪が、宙に舞った。長い黒髪――。
「おれは、なにを」
「っ」
女は、発作のように、動いた。
拳銃を投げ捨てて、硬直する彼に飛びかかった。
そして、彼を押し倒し、その首を締め付け、とどめをさすために、腰のベルトから――。
「はいはい、そこまで。おひらきにしよう」
拍手と声。顔を上げる。自分にのしかかっている女も、手を止めて、そちらを見た。
「フェイたんもお疲れさま。それから、命拾いしたね、刑事さん。あなた、合格だよ」
白衣を着た女が、白い歯を見せながら、笑って言った。
フェイと呼ばれた女は、火が消えたようにゆっくりと自分から離れた。
命拾いというのは、本当らしかった。
「……すいません。センセイ」
『フェイ』は、もう彼のことなど忘れさったように、『センセイ』の傍に行って、しょんぼりと頭を下げた。怒られた子犬のように見えた。思っていた以上に小柄だった。
「気にしなくたっていいよ。また買ってあげる」
白衣の女――『センセイ』が、フェイのおろされた黒髪を撫でた。こっちはライオンか。小麦色の肌……キャミソールにタンクトップ。その上に白衣。プレイメイトか、そのテの店か。ふざけた恰好だ。少なくとも、『センセイ』なんぞには見えない。
いやいや何を言っているのか。女ひでりもここまで来れば病気だ。彼は我に返り、先程まで自分を死の淵に追いやっていた彼女――彼女たちに問いかける。
「おい、あんたら。合格ってなんだ。そもそもあんたら誰だ……」
ふたつの顔がこちらに向く。何だその表情は、変なものでも見るような。おれは刑事で、五十過ぎたおっさんでしかなくって……。
『センセイ』が近づいてくる。おれ、視界、こんなに地面に近かったか。
「んー。まだ状況が分かってないのね。フェイたん、よろしく」
「何のことだ。質問に……いや、先にこれだ。おれの銃を返してくれ。持ってんだろ」
だが。
「無いよ、そんなの」
「じゃあ、おれのリボルバーは……」
「目が覚めて。いきなり襲われて。災難だったよね。でもごめん、こっちも理由があったのよ。あなたが、『それ』かどうか。で、結果は合格。あなたはギフトを持っている」
「わけがわからん、質問に、」
「妙な感じが、しない?」
『センセイ』は、顔をずいっと近づけた。柑橘系の香水の、あまいにおいがした。
ドキリとする。女の香水なんて、大嫌いな筈なのに。やけに整った顔が目の前にあって。なんでこんな、慣れない感じなんだ。童貞じゃあるまいし。おれは一体どうなって――。
「夢から覚めて、自分が違う何かになったような。身体のイメージが追いつかない感じ」
「何を言って」
「ま、見てもらうほうが早いかもね。フェイたん」
指を鳴らした。フェイは、大きな鏡を持ってきた。
それから、無言で、彼の前に、かざした。
「……」
――『少年』の顔が、目の前にあった。彼がその頬に手を持っていくと、十代前半らしい少年も、手を頬にやった。やわらかく、血色のいい感触。さらさらのシルバーブロンドの髪。
おれの顔じゃない。じゃあ、誰のだ。
「な」
顔を触りまくって、身体を触りまくる。
意思通りに、手が少年に触れた。自分のものみたいに。違う。
ちがう。これは。おれだ。おれの手。おれのからだ。だとしたら、おれは。
おれは。何になった。
「生まれ変わった感想はどう? びっくりだよね。まさか――ガキの頃に戻してなんて、天使に願ったわけでもあるまいし」
そこで刑事は、素っ頓狂なほどの、今まで生きてきて一番の絶叫を上げた。
これが夢でないのなら、事実はこうだ。
彼はいま――少年のからだに、転生していた。
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