第4話 童貞 悲しい夢を見て 友をさがす
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「普通に人生経験あれば、せめてもう少し傷つけないやり方選ぶでしょ。そんな悲惨なフラレ方したやつ周りにいる?いないだろ。童貞って残酷だよな」
(「伊藤くん A to E」柚木麻子)
「なあアキラ」
油にまみれた唇と手指をテーブルの上に備え付けのティッシュペーパーで拭きながら雑似は言った。ティッシュペーパーには薄く掠れたピンクの文字でシェイカーズと日本語で書かれていた。少し食べ過ぎたのか思わずゲップの音が漏れた。
「俺さつき変なこと聞いたろ?お前の名前とかお前がいないとか。なんだかあの消失の日以来、おまえと会うたびにおまえと前に会ったような気がして仕方なかったんだよ。」
アキラはとうに食べるのをやめ静かにジュースを飲んでいたが、雑似の言葉に興味を示しグラスをテーブルの上に置いた。
「前に会ってるって、そりゃ毎日学校でもサッカー部でもしょっちゅう顔合わせてるからなぁ、前に会ってるなんてザラじゃねーか」
「いや今じゃない。だいぶ遠く昔の話」
「は?リーインカネーションとかのオカルト話か、ダライ・ラマとか?」
「半分は俺の妄想かもしれないんだが、お前といるとなんだか生まれる前からの懐かしい気持ちがふつふつと湧いてきて、こんなの他の誰にも感じないんだ。」
「ははっ!結構じゃねーか!俺たちの海よりも深い友情はとうとう時空までも超えたってか、呵々呵々あはははははは、結構結構!うれしいぜ兄弟」
そういってアキラはテーブル越しに手を伸ばし雑似の肩をバシバシたたくと、そのままよしよしと頭を撫でまわした。
「アキラ。・・俺って気が狂ってんのかな?狂人だとしたらあの米軍の検束対象者リストや統治証明省の好ましからざる日本人リストに載っちまうのかな・・」
急に元気のなくなった雑似の様子にアキラは少し面食らうと、諭すように優しく言う。
「心配すんなよ。そんな誇大妄想くらい、普通に誰でもしてるもんさ。」
そんなことより皿に盛ったピザ全部食べちまえよ、とアキラは急にニヤニヤすると雑似に嗾けた。さっき二人で二周目のバイキングを取りに行ったときアキラがふざけててんこ盛りに皿いっぱいに積み上げたピザだ。テーブルの真ん中にはマルゲリータやアンチョビとチョリソ、コーンのピザなどが積み上げられていた。これら多層のピザの山に押しつぶされるようにして最下層にはバナナチョコやシナモンクリームのピザがぺっちゃんこになり甘い蜜やクリームを皿いっぱいに垂らしていた。
「あああ」
アキラが少食なのを知ってか、今日話した打ち明け話のバツの悪さに気を使って雑似はなんとか何時間かをかけてようやくピザの山を平らげたが、ようやく食べ終わったころには店も閉店の時間を迎えていて店員が後片付けをしていた。店の前でアキラと別れた。
雑似は帰宅後、食べ過ぎで気持ち悪くなりすぐにトイレに駆け込んだ。
「さすがセンターフォワードくん!我がチームの得点王、最高のパートナーにしてわが親友、いつも人の期待を絶対に裏切らないその姿勢はさすがだな!」
トイレに何度か駆け込んだ後に正露丸を飲んでようやく落ち着いた雑似はベッドに横たわると目をつむり、あの悪夢のようなピザの山を食べた後のアキラの言葉を思い出した。
アキラはお茶に変えた飲み物をゆったり飲んでいて懸命にピザの山を食べ進める雑似を涼し気な目で見つめていた。いつもならアキラお前も手伝えよひとりじゃとても無理だ位の一言は出るところだったが、この日は何か気後れしてアキラに良いところを見せようなんとか全部自力で食べた。終始ニヤニヤしながら、目の前でピザを一枚一枚コーラで胃に押し流す雑似の姿を見ているアキラの目は冷めたものだった。屹度どこかのタイミングで雑似が、ギブアップ!アキラくんもう無理だ、などと言って匙を投げるのを待っていたのかもしれない。そうなったらその時は彼がすぐさま雑似の助けに入ることは長年の付き合いから雑似にも容易に想像できた。しかし今回はなぜかアキラの目の前にもかかわらず助けを受けることなく雑似はピザの山をなんとか食べ切ったのだ。最後の最下層に圧縮されて残っていたクレープのようなぺっちゃんこになったピザの一枚を平らげる瞬間、正面のアキラからどこか熱っぽい眼差しを受けたように思われた。
そんなことをぼんやり考えながら、苦しい胃袋を抱えたままの雑似はいつしか深い眠りに就いていた。
5
「パパ・・・こわい。こわいにおいがする」
(『ぼぎわんが、来る』澤村伊智)
― 目覚めると昌(あきら)が卓袱台にもう炊き立てのご飯と味噌汁を用意していた。どうやら日日新聞を顔の上に広げた儘またうとうとと寝入ってしまったらしい。相似ははっと目を覚ますと寝巻がはだけたままの恰好で、茶の間に顔をのぞかせた。
「へぇ、これは驚いた。本当に白米飯だな、どうしたんだい一体」
寝ぼけ目を擦りながら相似が言う、日はすでに上っていて朝の日差しが部屋全体を照らしていた。三月の春めいた気候に軒先の植え込みも太陽に向かってピンと芽を出してる。
「実家からこっそり送ってもらったんです、万念さんに頼んで運んできてもらったの。先週、秋田に一時帰省するって聞いて」
「へぇー、万念さん?彼なら昨日近くで会ったぜ、帰省してまた東京に戻ったのかい」
相似が背中をぼりぼり書きながら茶の間に座ると、昌は即座に熱いお茶を煎れた。白米と味噌汁の美味しそうなにおいが部屋をおおう。
「なんでもここいらで、近々東日本で大規模な空襲があるって噂を聞いてあわてて大事な蔵書やら道具を取りに戻ってきたらしいの。それらを纏めてまた近いうちに秋田に帰るんだって」
「へぇー秋田。まあ奴の故郷の土崎じゃ空襲なんて心配いらないしな、お前と同郷だったっけ?」
味噌汁を音を立てて啜りながら相似は昌に聞く。
「いやねえ、わたしは同じ秋田でももっと南の方の角館よ、忘れたの?」
「万念くん、わざわざそのためにお前の実家の方に寄ってくれたのかい」
「ええ、まぁ・・」
万念は近所に住む昌の同郷の男だった。閉鎖されるまで昌が勤めていた百貨店で働いていた同僚で、県人会に入っていて昌とは親しかった。この近所に数年前からすんでいてどうも昌に気があったらしい。
「しかし米を食うのは久しぶりだな、ほんとうにうまいね」
相似は皿の上のメザシで茶碗の白米をたいらげると、半分だけ昌にご飯をよそってもらった。
「でもなぁ日本がこんなことになってしまうとは、毎日の米にさえ事欠くとは・・」
「平気よ、お米が無い無い言ってるのは東京だけっていうではありませんか。いつでも私の実家に頼めば送って貰えるから大丈夫よ」
そうニコリとして言う昌の目の前で相似は朝飯を平らげた。
メザシの小骨が歯の間に詰まったので、相似は爪楊枝で歯をせせりながらシーハーと行儀悪い音をたてた。そんな相似の無作法を昌は咎めることもなく、配膳の支度をしたのと同じたおやかさで茶碗の後かたずけを始めていた。おもむろに相似が言う。
「ああそうか、この前言ってたことやっぱり憶えてくれてたんだな」
え、なにが?と昌は首を斜めに向けると茶碗を台所で洗いながら相似に訊いた。
「ほら言ったろ、一年に数回でいいからせめて朝くらいは普通の食事がしたいな、と言ってたじゃないか」
前から食にうるさかった相似はろくに家では飯を食べない男だった。朝ごはんなど家で食べた記憶がない。浅草のハイカラ亭、玉ノ井の赤煉瓦、近場だとカヤバの桃乳舎 。昼も夜もあたりかまわずめぼしいところはどこでも行った。洋食屋ばかりだった。
昌は嗤う。
「そんなの偶然よ、ふふふ覚えちゃいないわ」
そう言って食後のお茶を持ってきながら昌は相似の肩をぽんぽん叩いた、照れるといつもする仕草だ。今日のはいつにもまして力が入っていて、少し痛い。
「そうかぁ」と言って相似も黙ったのでこの話はここで終わった。
だけど、相似は確かに自分が言った言葉を覚えていた。ああこんな米すら満足に配給されない状況じゃあの散々見下していた普通の朝ごはんがなつかしいよ、朝目覚めて家で普通に摂る、白いご飯、具の少ない味噌汁、あと梅干しか小魚でもあればもう満足だ、もう外に食べになんか行かない、まあ今じゃ大半の店が建物疎開や材料不足でやってないがね。と。
そのまま寝転んで書物を読んでいる相似の横で昌が出かける支度を始めていた。
「ああ今日だったっけかね」
外行きの着物に着替えいている昌を見ながら言った。外行きとはいえモンペに毛がはえた程度のいで立ちであったが。
百貨店が閉鎖されてから昌は月に何日か交代で国民奉仕活動に参加していた。夜営や哨戒を人手不足の軍に替わって警察や自治会の人たちが交代で任に当たっている、夜通し彼らに食事を給仕したり留守時の年寄りや子供をあつめた公会堂でその世話をするのが常だった。
「今日のは墨東地区、下町の方よ」
昌は素っ気なく言う、昌はあまり東の方の下町が好きではない。
「普段下町なんてあまりいかないからいいじゃないか、見物してきなよ。あっちは昔気質の気持ちのいい連中ばかりさ」
昌は何も言わない、あまり行きたくないのが伝わってくる。
「でも気象台が今夜は風が強くなるって行ってたから用心しなよ。こんな時に敵さんきたらいくら日本の兵隊だってたまったもんじゃないだろうからな」
「だいじょうぶよ、アメリカだっていつまでも日本と戦い続けることなんてできないと解ってるんだから、そのうち折れてくるんじゃないかしら。こうして高揚と生活を続けている東京の姿を見れば日本と戦争を続けることの無意味さを知るんじゃないかしら」
そう言って、行ってきますとだけ言い残して昌はバタンとドアを開けて出て行ってしまった。今度会うのは明日の夕方かな、と相似は思った。相似も明日の午前は商務所に顔を出してまた午後には帰ってこれる。なにか神田で昌に土産でも買って帰ってこよう。今夜は夜勤で帰ってこない、この夜さえ過ぎればすぐにこの夜さえ過ぎればすぐにすぐに、この夜さえ過ぎれば・・・過ぎれば・・ああ。あれ?・・・・・・・・・・・・・・・・
雑似は目を覚ました。顔中涙だらけで目が覚めた。ここまで明晰な「あの日」は久しぶりだった。
校庭に着くと誰もいない。今日の朝練は中止だったか、4時過ぎに目を覚ました雑似は夢で見た世界の情景のあまりの静謐さに心が震え涙か止まらずそのまま朝を迎えた。
早い時間に家を出、学校に向かう。雑似は早暁の校庭にアキラの姿を探した。今、自分の見た夢と心に起こった感情、そしてこの確信をアキラに伝えたかった。ああアキラ、アキラに会いたい。
授業が終わるのも待ち遠しく、雑似は授業の間の休み時間や昼休みの間中アキラの姿を探して校内や校庭を歩き回ったが無駄だった。これではこの前経験したアキラがいない世界そのものではないか、俺はとうとう気が狂ってしまったのか・・いや放課後にいつもの校庭でアキラのやつがサッカー部の練習に講じていてくれさえすればよいのだ、そうすればこんな疑念も心にわだかまりなく氷解するというものだ。
しかし、果たして放課後の校庭にもアキラの姿はなかった。それどころかサッカー部員の姿すら誰一人見かけることができなかった。雑似は自分が何という世界にまた入り込んでしまったのかと絶望した、そして夢中で校庭をふらふら歩き回った。
雑似はサッカー部の連中やアキラを探して彷徨している内に知らぬ間に陸上部の競技レーンに入り込んでしまい、疾走するランナーと危うく衝突しそうになった。ぶつかると思った瞬間だった、咄嗟に誰かが遠くで声をかけたおかげで相手は雑似をうまくかわしそのまま砂ぼこりを立てて行ってしまった。
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