「死にたくない」と叫んでも戦いを望まれる理不尽、耐え難し
百瀬咲花
第1話 俺には何も聞えない
新たな大将として軍を率いることになった
「敵襲ー!」という叫び声は知らせを受けるより先に耳に届いており、これはきっと空耳に違いない、と聞えなかったふりをした泰然。ばたばたと周りが騒がしくなって、明らかに自分がいる奥の部屋を目指してやってくる足音を聞きつけた地獄耳を塞ごうにも、怖い嶺依の睨みに怯えるように動けなくなった。
いつものことだからと言って慣れるわけもなく、現実逃避もさせてくれない嶺依を恨めしげな目で見つめて、己の精神を奮い立たせた結果、見事にやらかしたのだった。
「ああーっ! 後生ですから肉削がないでーっ!」
泰然の脳内で繰り広げられている拷問の数々。最初は軽くムチ打ちから始まって、火責めの後は、しこたま酒を飲まされて泥酔状態にさせられた。
これから始まるのは痛覚を酒で鈍らせた上で、身体の肉を削いでいくという恐ろしい拷問だった。拷問官が舌なめずりで涙ながらに助けを求める泰然を見つめ、ギラついた肉削ぎ用の鉈の刃を突きつけた。泰然のうっすらと赤く染まった肌に冷たい刃が当てられ、ゆっくりと──、
「出陣を」
至極冷静な嶺依の声音が泰然の耳朶を打った。恐怖の真っ只中だった泰然は、遠くなっていく意識の中ではっきりと敵意を向けられて、ひゅっと息を飲み、失神を回避することに成功した。
「……止まってた息が吹き返した。嶺依の蘇生術は素晴らしいな」
褒めた途端に蔑みの視線が突き刺さってきた。気にせずに泰然は続ける。
「敵は去ったようだ。俺はもう帰宅するが、嶺依のことだから残務処理をするんだったな。ほどほどにな」
完全に耳を塞いだ泰然に外の喧噪は聞えていなかった。敵襲に右往左往している兵士たちの怒号など、敵前逃亡という甘美な誘惑に敵うはずもなかった。泰然の中では攻め込んできた敵はすでに倒され、自分は出番なしという構図が出来上がっていたのだった。
だから当然のように帰り支度を始め、仕事人間の嶺依を軽く窘めた。すると、ギリッと歯を鳴らした嶺依が冷たい口調で泰然を脅しにかかった。
「頭の中で繰り広げられている拷問。私が披露して差し上げてもいいんですよ。ご希望なら世界中の拷問を習得するのも吝かではありません」
「い、いやいや。そんなもの習得してどうする。て、敵の口を割らせるのは部下に任せ──」
「あんたの口に突っ込むんですよ」
嶺依の白く美しい手には石が握られていた。それを見た泰然はあからさまに動揺する。怯えるように鍛え抜かれた身体を揺らし、嶺依から一歩ではなく三歩以上後退りした。
「……なっ……なにを……?」
「得意の妄想で分かるでしょうに。そんなに語らせたいものですか。自分が死にゆく光景を」
「ひ、ひぃっ!」
軍随一の美貌を誇る嶺依の口元が弧を描いた。密かに嶺依の美貌を拝んでいた泰然でも、これが心の底から楽しくて出た笑みでないことくらい分かった。口元はそれらしく笑みを
その上、黒曜石もかくやという瞳は死んだ魚のように濁っていた。これでは常に妄想を欠かせない泰然だろうと誤解しようがない。
「死が恐ろしいくせに拷問を妄想ですか。もはや病気──」
「そうだ、病気だっ! 戦場に俺の居場所はないっ!」
嶺依の言葉をぶった切った泰然は口から唾を飛ばしながら怒濤の主張を繰り広げた。
「戦争ならしたいやつがしろっ! 仕掛けられたならまだしも、戦争狂いの王なんぞに付き合ってられるかっ! 領土拡大の必要など微塵もないというのに、戦わされる国民が悲惨なだけだろうがっ! だいたい俺は死にたくないし、軍人に向いてないんだっ! 大将だからなんだ! 頼ってくるな! 祭り上げるな! いい迷惑だっ! くそったれがっ!」
「……では、なぜ軍に所属しているんです」
「徴兵されたからに決まってるだろっ!」
好き好んで軍にいるわけではない。田舎でそれなりの人生を送っていたのに、戦争が激化するにつれ兵士が足りなくなったため、駆り出されたのだ。強制的に。
国からの通達に逆らえば、逆賊扱いで死。我慢して戦っていてもいつかは必ず死。想像するだけで逃げ出したくなる。泰然の意志が特別弱いわけではない。田舎の若造など、誰でもこんな感じだった。
気がつけば、死に怯えて、死なないために敵を蹴散らし、容赦なく命を奪っていた。功績が認められて、大将に抜擢。軍を率いる羽目に。
美しいと噂の女将校を副官に付けられたのに、ちっとも嬉しくなかった。泰然を軍に留めるための画策があからさまだっただけに気が抜けないのだ。逃げないように監視していると。
「口を開けばすぐにそれですか。もう飽き飽きです。芸が無いですよ」
泰然は必死の主張を鼻で笑われて、ぱかーんと口を開けた。たしかにいつもの戯れ言といわれればそれまで。けれど、嶺依はうんざりとしながらも泰然に付き合ってくれていた。副官になったから仕方なしなのかも知れない。情けない上官に諦めの気持ちがあったかも知れない。決して優しいとは言い難い嶺依。泰然の置かれた厳しい状況に同情などしないと分かっていたが、まさか笑いの要素を求められていたとは、半月も共に戦っていたのに気づけなかった。
「足りなかったなんて……」
「それは何を指しているんです?」
「俺の恐怖の源が何か──」
「捕虜になって拷問されるのが嫌なんでしたか。大将なんてそれこそ死にたくなるような目に合わされますね。それなのに情報を吐き出すまで殺して貰えないという。そんな想像をしただけであなたは死にそうですが……」
哀れみの視線が嶺依から放たれた。泰然はぐっと唇を噛みしめ、天を仰ぐと吠えた。
「拷問内容の説明が不足だったっ!」
「阿呆ですかっ! そんなもの聞かされてたまたりますか!」
「なんでだ!? 俺の拷問知識を侮ったかっ!」
「いらないお世話です! 脳内で死んでおきなさいっ!」
泰然は瞬時に断頭台を想像した。処刑人が脇を固め、呆然自失の泰然の腕をねじり上げると床板に頭を押し付けた。首を切り落とす前に辱めを与えようというのだ。なんと酷い仕打ちだろうか。もがいている泰然は裸に剥かれ、観衆の面前で、
「あひゃっ!」
と間抜けな声を上げた泰然。嶺依の平手打ちが襲ったのは、妄想で脇をくすぐられるまくりになる寸前のことだった。
「た、助かった。俺は脇が非常に弱いんだ。泣いちゃうところだった」
「どんな妄想に興じたのか知りたくもありませんが、出陣しないなら私が全身全霊で泣かせて差し上げます」
泰然はごくりと唾を飲み込んだ。戦いたくないばかりに妄想に逃げ込んだことがバレていた。
「て、敵襲だったな」
「味方の悲鳴が聞えないのでしたら、耳に穴を開けますよ」
拷問の種類に耳関係はなかったが、泰然は新たな拷問方法を考えついてしまった。その方法があまりにも恐ろしいので、嶺依の美しい顔をじっくりと拝んで、別の妄想で上書きした。
嶺依になら耳を攻められてみたい、と珍しく男女関係のあれこれを想像してから、絶対に相手にされないと墓穴を掘って、泰然は項垂れた。恋愛感情はなかったはずなのに痛い目にあった。日頃から拷問に慣れ親しんでいたばかりに、想像まで方向性が間違ってしまった。
「殺しにくるなら殺すか」
「……不思議で仕方ないのですが、いきなり切り替えられるのは何故なのでしょう?」
「死にたくないからだっ!」
泰然が戦う理由など、それ以外にはなかった。生存本能に従って襲いかかってくる敵を排除しているに過ぎない。どこぞのいかれた王とは根本的に相容れないのが泰然であった。
そして、うっかり強くなってしまった己を罵倒する日々を送っている。「大将なんて冗談だろ」と、抜擢された時には絶望さえした。特殊な脳の病気を理由に固辞したが、結果は優秀な副官を得ただけだった。悲しいことに戦っている時だけはまともになるので、取り合って貰えなかったのだ。死を妄想して戦場で意識を失うなんてことは。
「理屈ではなく本能ですか。では、敵を
冷静な嶺依は慣れた様子で泰然の尻を叩いた。
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