花腐る
@cheeswithK
忘
斜め左前の席に座る彼女は、HRが終わると決まって筆入れからペンを取り出し、手首や手の甲にメモをする。
ちょうど彼女の席は窓際に位置していて、栗色の長髪が日差しに包まれるさまは
黄金に染まる初夏の麦畑を連想させた。
お昼休みになると彼女の机を囲んで数人の友人たちが弁当を食べながら、僕が今現在気になって仕方がないことをいとも簡単に口に出した。
「いつも手に何か書いてるよね。」
「何書いてるの?」
僕は大好物のチーズハンバーグにめもくれず、
授業中ろくにつかいもしないお飾りの耳をそばだてた。
「大したことは書いてないよ…」
恥じるように、右手で左手の手首をさする
しかし、食い下がるわけもなく友人のひとりが彼女の腕を捕らえて読み上げた。
「何々…牛乳?17時中庭清掃?」
「なぁんだ、普通じゃない。面白くないの。」
友人たちが落胆する素振りをみせると
「だから、大したことないって言ったでしょ。」
彼女は頬を赤らめ、少し語気を強めて言った。
牛乳。成る程、これはきっとお使いで頼まれたんだろう。
中庭の清掃…これは美化委員の活動のことかなぁ。
ところで、何故手首なんかにメモをするんだろう今時メモ帳なりあるだろうに。
それに、彼女はしっかりものだし メモを取るなんて珍しい。
僕は勝手に頭の中で推理を展開し始めるとテレパシーが働いたのか
「私忘れっぽいから・・・。メモしないとすぐ忘れるの。」
前言撤回。彼女は忘れっぽいらしい。
意外な一面を知った。
僕はなんだか嬉しくなってしまって、帰り道 普段ならどちらかしか選ばない
クリームパンとメロンパン両方を買ってしまった。
それから2週間後。その日は学級委員である友人が欠席していたので
ソイツと親しい僕がクラス全員分のノート返却とプリントの配布を任されることとなった。先生は、流石にこの量は一人じゃ持ちきれんな、と呟くと
都合のいい人間を見つけようと教室内を一周見回した。
「先生、じゃあ私が・・・。」
おずおずと手を挙げたのは彼女だった。
職員室までの道のりは、2人とも無言だったけれど
教室に戻る途中、彼女のほうが先に口を開いた。
「大丈夫?重くない?手伝おうか。」
本来は男である僕が言うべきなのかもしれない台詞を
先に言われてしまった。
「え、いや大丈夫。そっちこそ、重くない?」
「うぅん、私は平気。アリガト。」
再び訪れる沈黙、僕はプリントを抱える彼女の腕をさりげなく盗み見た。
案の定、その手首には今日もメモ書きがあり
汗で筆跡が滲んでいたが、杉崎くんへ弁当とだけ書いてあったことだけはよく覚えている。教室に到着するまで、僕の胸の内はメモ書きのことでいっぱいになった。
「あの、手伝ってくれてありがとう。」
「うぅん、何かあったらまた行ってね。」
彼女は微笑むと、自分の席へと戻っていった。
それが高校生活 最初で最後彼女との会話だったと思う。
5年後の秋、僕は大学を卒業して都市部の民間企業に就職した。
今日は早めに退社できた。そう思って、最寄りの駅で電車を降りたとき
偶然彼女を見かけた。あの時と全く変わらない姿にひどく安堵感を覚えた
、ただ一つだけ変わったとしたらそれは
「ママー、ぎゅうにゅう」
彼女と同じ栗色の髪をした4歳くらいの男の子に手を引かれていたこと。
「そうね、そうだった。はやくスーパーいかなきゃね。」
あぁ、そうか。君はもう忘れなくていいようになったんだね。
喜ぶべきなんだろう。でも、今はそれができなかった。
僕は挨拶すらできず、彼女と男の子が視界から消えるまで固まっていた。
向かいのホームには電車が到着していたようで汽笛を鳴らして、次の駅へと通り過ぎて行くのを横目に独り世界に取り残されたように感じた。
菖蒲色が迫る空の下 雑念に蓋をするように、イヤフォンで埋めた。
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