脅月の夜

蓮見庸

脅月の夜

「月に気をつけろ! さもないと光にやられてしまうぞ!」


 空を見上げると、星々のきらめきを隠し、すべての闇を追い払おうとするかのごとく皓々こうこうと輝く月がある。

 月の光は地面を明るく照らし、闇の国の住人の姿を薄くするだけでなく、あまつさえその存在をなきものにしようとしている。


 この世界は光の国と闇の国でできている。

 このふたつの国は、黄昏たそがれ時と彼はかわたれ時を境として、少しでも自国の勢力を広げようと、常にしのぎを削り、一進一退を繰り返しながら悠久の時を過ごしてきた。

 その長い歴史のある一点、突如として闇の国の空が丸くくり抜かれ、光の国はそこから光を投射し戦いを挑んできた。

 小さくてもとても明るい穴だった。

 闇の国ではその穴を“月”と呼んでいた。

 闇の国の住人にはその穴をふさぐすべはなく、ただ光が弱まり暗くなるまでやり過ごすのを待つしかなかった。

 そして今日のような脅月きょうげつ──闇の国では月がいちばん明るくなるときのことをこう呼んでいる──の日には、光の勢いはいちだんと強くなり、闇の国の住人はただおびえるばかりだった。


 たとえ月がなくても、いつか天を覆う真砂まさごの光が空を突き破り、大量の光が降ってくるのではないだろうか。闇の国の住人は常にそんな不安にかられていた。

 そして周期的に訪れるこの脅月きょうげつの日は、なおさらその不安が大きくなる。

「ねえママ。月の光に当たるとどうなるの?」

「消えていなくなっちゃうのよ」

「ママもパパも?」

「えぇそうよ」

「それって痛いの?」

「たぶんすっごく痛いわ」

「痛いのはやだな」

「だから、今日みたいな日は外に出ちゃだめ。わかった?」

「うん」

 そんな会話がどこの家でも繰り返されていた。


 しかしどこにでも例外はあるものである。

 月の研究をしているある夫婦は、脅月きょうげつになると喜々として月のよく見える野外に出ていくような人たちだった。その両親のもとに生まれた少女バーゴ。

 その日もちょうど脅月きょうげつの日だった。

 両親はいつものように月の観測に出掛け、ひとり家に残された彼女が庭でなくした鉛筆を探していた時のことである。

「おーい、わたしの鉛筆どこー?」

 月の光を避けるようにしながら、花壇で好き放題に伸びている雑草をかき分けたり、家の軒下を覗き込んだりしていると、庭の片隅に置かれた物置の脇、月の光がわずかに差し込んでいる所に、なにやら光るものがあった。

『光に近づいてはだめですよ』

 学校の先生の怖い顔が頭に浮かんだが、好奇心の塊と言ってもいい両親に育てられた奔放な彼女に、そんな自制心を求めるのがどだい無理な話だった。

 それに、少しくらいなら大丈夫だろうと思わせる、とても柔らかい──と彼女はそう感じた──光だった。

 彼女が近づいてみると、光り輝いている人の姿をしたものがうずくまっていた。

「あなた、だれ?」

 声を掛けると、その光はびくりと全身を震わせ顔を上げた。目が合ったような気がしたが、まぶしくてよくわからなかった。

「あなた、人なの?」

 もう一度声を掛けた。

「そうだよ」

「こんな光ってる人なんて見たことない」

「ぼ、ぼくだって、きみみたいな真っ暗な人は見たことがないよ」

 その光は立ち上がった。

「あなた、どこから来たの?」

「えーと…光の国からだよ」

「光の国?」

「うん。自分の影を追いかけてたら、知らないうちにここに迷い込んじゃったんだ。ここって真っ暗だろ、目立って仕方ないからこうして隠れていたんだけど…」

 そこまで言ったところで、人の姿をしたものは急に頭を抱えてしゃがみこんだ。

「なにも悪いことなんてしてないから、お願いだから殺さないで…」

「どうしたの急に? 殺すだなんて、そんなことしないわよ」

「……ほんと? だって、闇の国の人は、ぼくたちを呑み込んで殺してしまうんだろ…?」

「だから、そんなことしないわよ」

「じゃあ助けてくれるの?」

「…人助けは嫌いじゃないから助けてあげてもいいけど、でもどうやって? それにおとなに見つかったらどうなるかわからないわ」

「怖いこと言わないでよ。ぼくだって好きでここにいるわけじゃないんだ。…帰り道を教えてくれればそれだけでいいんだけど」

「光の国に行く道なんて知らないわ。黄昏たそがれ時か彼はかわたれ時に行けば道がつながってるかもしれないけど、そこに行くだけでも何日もかかるし、ずっと戦争が続いてるから危ないんじゃないの?」

「そうだよね…どうすればいいんだろう……」

「うーん」とバーゴは腕組みをして考えている。

「わたしのパパとママが月の研究をしているの。なにかないかちょっと見てくるから、物置の中に隠れて待ってて」

「わかった」

「そうだ、あなた名前はなんていうの?」

「スピカ」

「ふーん、変わった名前ね」

「そういうきみは?」

「わたし? わたしはバーゴよ」

「バーゴ? そっちこそ珍しい名前だね」

「そんなことないわ。このあたりでは普通の名前よ」

 そう言って彼女が玄関に向かおうと背を向けたとき、スピカの全身の光が彼女に引き寄せられるように伸び、身体のまわりをぐるぐると渦巻きはじめた。

 その光はもはや人の形ではなく、単なる光の集まりだった。

「きゃっ! なにこれ!?」

 バーゴは光を手ではたこうとするが、手はただ光をすり抜けるだけだった。

「やめて! あっち行って!!」

 バーゴの身体を包んでゆっくり回っていた光は、徐々に体の中に吸い込まれ、ピンポン玉くらいの小さな球になったかと思うと、やがてさらに小さな点となり、一度だけ強く輝き消えてなくなった。

「どうなってるの…?」

 バーゴはそうつぶやきあたりを見回してみたが、スピカの姿はもうどこにもなく、地面に降り注ぐ月の光があるだけだった。

「いったいなにが起きたの? それに、光に触れても大丈夫なの?」

 バーゴはそう言いながら、おそるおそる手を光にかざしてみた。

「痛っ!」

 光が当たったところに、火傷やけどのような痛みが走り、手のひらの一部分が欠けていた。

「いったぁぁ……やっぱりみんなの言うことはほんとだったんだ」

 空を見上げ、手を伸ばすと、欠けた手のひらのくぼみに、皓々こうこうと輝く脅月きょうげつがすっぽりと収まった。

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