7

「そもそも行くことができるの?」


 私は二人に尋ねた。異世界に行くだなんて。そんな突拍子もないこと。


「できるよ」


 睦月さんは挑戦的な笑みを浮かべた。「既に律の力で、私たちが通れるくらいの穴を作り上げることができた。ね、律」


 南雲さんはずっと怯えた顔をしている。


「私……」

「一瀬さんに見せてあげてよ」


 睦月さんの言葉に、南雲さんは抗えないようだった。二、三歩進み出て、木に近づく。そっと片手を伸ばした。風が起こる。冬の、冷たい身を刺すような風じゃなくて、どこか生温い異様な風だ。


 その時、目を疑うことが起きた。


 南雲さんの手の先、木の幹との間に、不思議な渦が現れる。それは青白く、光り輝いている。渦は次第に大きくなる。卵のほどの大きさのものが、人間の顔くらいに、やがて胴体くらいに。縦が一メートルくらいの大きさになったときに、それは成長をやめた。けれども渦は巻き続け、光は輝き続けている。


「これだけの大きさがあれば、十分でしょう!」


 勝ち誇ったような、睦月さんの声がした。「この先が異世界よ。私はミュウに会いに行くの」


「……本当に……異世界なの?」


 私は渦を見た。この先に……たしかに、私たちの知らない世界が待っているのかもしれない。でもそれは本当に、ミュウやくまたちのいる世界なの?


 全く違う世界かもしれない。そこは私たちを捉え、食らう生き物のいる世界かもしれない。ううん、ひょっとしたら何もないのかも。この先には。世界なんてなくて、ただ無が広がっているのかも。


 無といっても、それがどういう状態なのか、私には上手く思い浮かべることができない。


「私にはわからないんです……」南雲さんが言った。すでに手は下ろしていた。けれども渦は消えない。「覗いてみることもできないんです。これが通り抜けられるものかさえも……」


「これは異世界とこちらを繋ぐ穴よ。今から私が試してみる。ここを通り抜けて、異世界に行く。そのためにこんな暗くて寒い中わざわざやってきたんでしょ」

「――私も行く!」


 気づけばそう言っていた。睦月さんの前に、立ちはだかるようにして。睦月さんは冷ややかに私を見た。


「やっぱり一緒に行きたいんだ。くまに会いたいんだね」

「そうだよ」


 もう動機はなんでもいい。ただ、睦月さんを一人で行かせたくはない。それにもし――もし、この先に異世界が、くまのいる世界があるのなら、やっぱり、くまの本体に会ってみたい。


「私も……!」


 南雲さんも声をあげた。けれども睦月さんは今度はちらりと南雲さんを見て、その言葉に賛同はしなかった。


「律はここに残っていて。そしてこの穴が閉じないように見張っていて。こちらに帰れなくなったら困るし」


 そう言われて、南雲さんは黙った。私は南雲さんにかばんを預けた。


「これ、悪いけど、持ってて」


 異世界に持っていくには邪魔になりそうだし。南雲さんは黙って私のかばんを受け取った。


「大丈夫よ」とても不安そうな顔をした南雲さんに、睦月さんは明るく言った。「すぐ帰ってくる。ミュウに会って、殴ってくるだけ」


 睦月さんは渦へと近づいて行く。私も続く。正直、怖い。睦月さんもまったく平静というわけではないようで、渦の前で、少しためらうように止まった。けれどもすぐに、大きく足を一歩踏み出した。


 睦月さんの身体が半分、渦の中に入る。南雲さんの、小さな、悲鳴のような声がした。そして睦月さんの全身が入る。渦の向こうに、睦月さんの身体が現れたわけではない。この世界からは消えてしまっている。


 この渦は、たしかにどこかにつながっている。ここではないどこか。それがどこかはわからないけど。


 睦月さんの行方を考えて、恐ろしさが押し寄せてくる。でもそれと同時に彼女を追いかけなければ、という気持ちが大きくなる。一人で行かせるわけにはいかない。


 迷ってはいられない。行くと言ったんだ。私は覚悟を決めて、何も考えないようにして、渦に飛び込んだ。




――――




 青空が見えた。とても青い、美しい空だ。作り物のような白い雲が浮かぶ。


 ここはどこ?


 廃墟だ、と私は思った。美しい廃墟。空が美しいなら、地上もまた。けれども全てが壊れ、崩れている。


 たぶんここは、オフィス街みたいなところだったのだろう。けれどもビルは全て朽ちている。残った部分に蔦が絡まる。その足元に草が繁る。木が、コンクリートの間から生えて、ねじれるようにがれきを覆う。


 私がいるところは元は大通りだったはず。車が行き交っていたにちがいない。でも今は一台もない。アスファルトはひび割れ、ひっくり返され、そこにやはり植物たちがはびこっている。


 突然、隣で笑い声がした。


 見ると、睦月さんだ。よかった! 無事だったんだ! 私は嬉しさと、不安もあって、彼女に近寄った。睦月さんが笑いながら言った。


「見て! これが異世界なんだ!」


 異世界……たしかに私たちの世界ではなさそうだけど……。でも、崩れた建物の形からして、私たちと近い世界だったのではないかな、と思う。


 ここに本当に……くまがいるの?


 だって、生き物の気配が全くしない。ううん、探せば虫くらいいるのかもしれないけれど、でも人の気配がない。ここに暮らしていた、この建物を作り使っていた、人じゃないかもしれないけれど、知能のある生命体の気配。そういうものが全くない。

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