黄昏の国のアリス

佐倉島こみかん

白い兎を追いかけて

 あのアマは5歳の私を祖父母に預けて、新しい男と一緒になった。毎週土曜日にうちに来ていた成金趣味の薄汚いおっさんだ。金に目が眩んで私を捨てた女を『母親』だなんて死んでも認めたくない。

 父親の顔は知らない。きっとあのアバズレがどこのどいつとも知れない男と避妊もせずにヤッた結果だろう。心底、自分の生まれに反吐が出る。


 私が覚えているあの女の最後の姿は、実の両親である祖父母と言い争う姿。

 真っ赤な口紅の塗られた唇にくわえられた煙草と、露出の多い黒のワンピースの赤いアネモネの柄が、今でも目に焼き付いているのに、不思議と顔は思い出せない。

 あの日、私はアイツに捨てられた。経緯は知らない。それだけが揺るぎない事実だ。


 祖父母の田舎は、こんな訳ありの私を興味本位で暴きたてた。

 両親が死んだから祖父母に引き取られたということにしていたのに、いつの間にか本当のことは知れ渡って、私は周りの連中からいじめられた。

 捨て子とからかわれ、母親のことを馬鹿にされ、その度に私は口よりも先に手が出た。相手が泣きわめいても殴るのをやめなくて、その度に叱られ、祖父母を呼びだされた。

 同情されるのにも腹が立って、憐憫をかける連中にも唾を吐いてやった。当然、『せっかく声をかけてやったのに』と、お優しいクラスメイト達は憤慨して離れていく。孤立するのは時間の問題だった。

 訳ありの私生児、新しい男と一緒になるために捨てられた娘、周りになじまない暴力的な子供と三拍子そろえば、鼻つまみ者にも拍車がかかる。

 疎外された私はたちまち不良のレッテルを貼られ、中学に上がる頃には私も半ば自棄になって、不良として振舞った。

 とはいえ、田舎なので出来ることもたかが知れていて、大した悪さはしていない。

 校則で禁止されているピアスを開けたり、化粧をしたり、制服を改造したり、授業をさぼったりするような、その程度の悪さだった。

 まあ、たまに他校の不良から因縁を付けられて喧嘩になることもあるけど、大概は力と経験値に物を言わせてノシてやった。

 初手で顔面に一発拳をたたき込めば大体の女子はビビるし、怯んだところを突き飛ばして馬乗りになり、リーダー格の顔を黙って蛸殴りにすれば大抵の取り巻きはドン引きしてリーダー格を連れて逃げるか通報する方向で動く。

 高校生くらいの男子が相手でも、私自身がタッパが170cm近くあって体格もそんなに変わらないことが多く、武器がなければ一切の躊躇のない私の方が強かった。

 大人や武器を持った男達が複数相手で、一人じゃ太刀打ちが無理そうなときは適当に警察の巡回にぶつかるように逃げ、警察に丸投げにして有耶無耶にした。

 こちらも伊達に生活安全課に目をつけられていないのだ。

 高校に上がってからは、バイトをして、その金でバイクの免許を取って、単車を買って、夜中に乗りまわす程度だ。

 バイクに乗っているときは自分のしがらみを忘れられた。無心で車のない田舎道を走り回った。パトカーに追いかけられても、からかうように細い裏道を走り抜けて振り切った。

 生れ故郷でもないこの田舎道は、すでにどんな細い路地だって自分の庭のようなもので、それが皮肉で無性に可笑しく、時々泣きたくなった。


 髪を金髪にしたのも、不良パフォーマンスの一環だ。

 マメにブリーチして染め直すのも面倒で、肩まである髪の根元2cmは黒く、毛先は痛んで色が抜けている。

 祖父母はこの髪に最初驚いたようだったが、最近は諦めたのか、もう何も言わない。

 きっと二人は私がこうなってしまったことへ責任を感じているのだと思う。

 娘がまっとうな母親にならなかったことへの、私を周りから守ってやれなかったことへの、後悔と無力さに苛まれている。

 無口な祖父は「煙草と薬だけは絶対にやめておけ」と言ったきり、私の振舞いに口は出してこない。

 祖母は「有子ゆうこちゃん、命を失うような危ないことはしちゃダメよ」と心配そうに言うだけだ。

 それがひどく申し訳なくて、だからこそ素直になれなくて、いつもぶっきらぼうな態度をとってしまう。

 私の態度に戸惑いながらも、祖母も祖父も決して見捨てずに私を大事に育ててくれた。学校や警察に呼びだされる度、必死に頭を下げて、謝ってくれて、代わりに怒られて。

 その度に私は、どうしてこう何もかも上手くいかないのだろうと不甲斐なくなった。

 例えば本当の父親が生きていたら、あのアマが私ごと愛してくれるような男を選んでいたら、本当に両親が亡くなって祖父母に引き取られたのだったら、私はもっとまっとうに生きていられたのだろうか。

 分からない。どれも全部仮定の話だ。絵空事の夢物語だ。

 そんなくだらない感傷をかき消すように、あぜ道を走る愛車カワザキZ250のスピードを上げる。

 6月の湿った空気も風になれば心地よく、盛大な蛙の合唱に合わせてエンジンを吹かした。




 今日は特にパトカーに追いかけられることもなく、23時前に家に帰れば、見慣れぬ白い軽自動車が家のすぐ近くに停まっていた。

 祖父母はとっくに寝ている時間なので、不審に思って明かりのついていない玄関の引き戸に手を掛ければ、普段は施錠してある扉が少し開いている。

 泥棒か、と緊張が走った。

 警察に通報か、それともただの閉め忘れか、判断が必要だと思い、物音を立てぬようそうっと引き戸を開け、息を殺して玄関に入る。

 耳をすませば、かすかに居間の方から物音がした。

 携帯で110番の発信ボタンを押すだけの状況に準備して、確認のため居間に向かう。

 襖の影に隠れるようにして、中の様子をうかがえば、誰かがタンスの中を漁っているのが見えた。

 暗くてよく見えないが、体格からして祖母や祖父ではない。

 よくよく目を凝らせば、小柄な男のようだった。

 この時間にタンスを漁る小柄な男はこの家に住んでいない。泥棒で確定だ。

 でも、この場で電話を掛ければ通報の声が聞こえてしまう。

 いったん外に出てから通報しようとそっと踵を返したところで、カチャン、とポケットからバイクのキーが落ちた。

「っ!」

 その音に、タンスを漁る音が止まった。

 息を飲む。

 相手がヤバイ奴だったら? 武器を持ってこっちに向かってきたら? と、どっと冷や汗が出たが、やるしかないと腹を括った。

 再び踵を返してバイクの鍵を拾い、拳を構えて向こうの様子をうかがう。

 しかし、私の予想に反して、男は足元の鞄を持つとそっと後ずさってから、反対側の襖から勝手口のある台所方へバタバタと駆けて行った。

「おい、待て!」

 思わず叫んでいた。男の手に通帳入れが二つ見えたのだ。

 一つは祖父母のもので、もう一つは祖母が『有子ちゃんの将来のために』と私のバイト代やこれまでのお年玉を入れてくれている通帳。

 祖父母が多くはない年金で生活をやりくりしてくれているお金。私が頑張ってバイトして貯めたお金。カッとなった。それらを持って逃げさせるわけにはいかない。

 たぶん向かった先はあの白の軽自動車だ。私は玄関の方に走った。

 靴を履いて表に出れば、男が車に乗り込むところだった。車に乗り込んだ勢いでフードが外れ、ちらりと男の横顔が見えたので、少しでも記憶にとどめようと凝視する。

「有子ちゃん、どうしたの?」

 その時、パッと廊下の電気がついた。眩しさに目を細める。

 私の叫び声と足音に気付いたらしい祖母が寝室から起きて来て驚いたように尋ねた。

「泥棒だ、ばあちゃん! 警察に電話!」

 私は叫んで、玄関を飛び出した。

「ちょっと有子ちゃん!? どこ行く気!?」

「うちの通帳、二つも取られたんだよ! 追いかける!」

 玄関前に停めていた愛車に乗って、ヘルメットを被り、エンジンをかけた。

「待って、危ないわ! 通帳なんていいから、戻りなさい!」

「まだ出たばっかりなんだ、追いかければ間に合う! 手掛かりは少しでもあった方がいいだろ! ほら早く通報!」

 制止する祖母に110番に発信したスマホを放り投げて、私はバイクに跨り男の車を追いかけた。

「有子ちゃん! あっ、ああ、警察ですか?」

 祖母が叫んだが、ちょうど警察に繋がったらしくそちらと私の引き止めにおろおろしているのを後目に、速度を上げた。

 

 男の車は私が追いかけていることに気づいたらしく、信号を無視して速度を上げて走った。

 そもそもこの時間の田舎道は車がほとんど走っていないので危ない思いもほぼせずに追跡しているが、どこかから通報が入ったのか、2キロも走らないうちにパトカーが私の後ろから追いかけてきた。

「そこのカワザキZ250と白のハーゼ、停まりなさい!」

 制限速度をすでに20キロ以上オーバーしている私達は、一緒くたにしてパトカーから停止を呼び掛けられた。

 泥棒が乗るにしては可愛らしいフォルムだと思っていたら、軽自動車はハーゼの名を冠した人気モデルのようだ。盗難車かもしれない。

 当然だが、警察の停止にも泥棒は応じる気はないらしい。

 ならば、と思い、私はスピードを上げ、白のハーゼを追い越した。

 減速しながら、車線変更しようとするハーゼの前で進行を妨害する。

 徐々に、パトカーとハーゼとの距離が詰まって来る。

 イケると思った瞬間、車線変更時のバランスを崩して、身体が傾いだ。

 ヤバイ、と思い、咄嗟にハンドルを道路脇の田んぼの方に切る。

 甲高いブレーキ音と、派手な衝突音。地面に叩きつけられる衝撃。

 私は強かに身体を打ち付けて、意識を失った。

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