5分で読める物語『ランナーズハイ』
あお
第1話
静岡県立西条高校陸上部には県内トップクラスの100mスプリンターが二人いる。一人は高校三年生の久石和也。身長は160㎝と小柄だが、足の回転速度がべらぼうに速い。いわゆるピッチ型だ。対してもう一人のスプリンターは同じく三年生の秋山徹。秋山は身長が183㎝あり、高身長を活かした歩幅の広さで距離を稼ぐ。こちらはストライド型と呼ばれる。
日も暮れた茜色の空のもと、三日後に東海大会を控えた西条高校陸上部は、最後の調整として100mの計測を行っていた。
「秋山先輩、タイム11秒29」
タイムを測定している女子マネージャーが、次々と読み上げていく。
「片岡くん、11秒87」
「二木くん、12秒30」
機械的にタイムを読み上げていたマネージャーが唐突に「わぁ!」と声を上げた。
「久石先輩、10秒99です‼」
部内は一気にどよめいた。
「久石先輩まじっすか!」
「ついに10秒台が!」
「これはもうインターハイ出場間違いないっすね!」
部員は口々に久石和也を称賛する。
「おい、和也」
そんな中一人声のトーンが違う男がいた。
「はぁ、はぁ、はぁ。どうだ徹、さきに10秒台出しちまったぞ」
「はっ、たかがマネージャーの適当計測だろうが」
「インターハイへのチケットは俺がいただくぜ」
「調子に乗んなよチビ。たかが3年で全国出れるほど陸上ぬるくねぇんだよ」
徹はチッと舌打ちをし和也に背を向ける。
「それでも俺は、インターハイで優勝してみせる」
これは和也の宣戦布告ともいえるだろう。徹は振り向きざまにこう告げた。
「無理に決まってんだよチビ。ピッチだけで全国出たやつがどこにいるよ? 世界で戦ってるやつらは全員ストライドだ。お前なんかインターハイにすら出れるわけねぇんだよ」
徹は小学生の頃から陸上一筋だった。和也にきつく当たるのは積み上げてきたプライドによるものが大きい。たかが三年で自分の十年に踏み入れられるのが我慢ならないのだ。
和也は大きく深呼吸すると、気持ちを切り替えクールダウンに入っていった。
翌日。西条陸上部の方針として大会二日前は練習することを禁止し、マッサージと筋肉を休ませる時間を取らせていた。マッサージは全日本選手権にも出場した遠藤コーチが執り行う。
「和也、昨日10秒台出したそうだな」
「はい、まぁストップウォッチでのっ、計測ですけどっ、痛ったぁぁぁ!」
「それでも10秒台に大きく近づいたのは変わらんだろう」
コーチは激痛マッサージにひいひい言う和也を気にする素振り一つ見せず話を続ける。
「ところでリレーはどうする? 100mに集中したいなら、リレーは2年生たちに走らせてみようと思うんだが」
「ひ、ひぇい。りれぇは後輩たちにぃぃ! まかせますっ! ってぇぇえええ!」
「静かにしろ。そうか、それじゃあ10秒台、期待してるからなっ!」
「おわぁぁぁぁぁぁ!」
和也の絶叫は校舎中に響いたのだった。
「おーい、次は徹だぞー!」
和也は徹と聞いてビクッとなった。そろぞろと起き上がり大きく深呼吸。背筋を伸ばし、コーチに一礼して部屋を出る。廊下で徹とすれ違うことになったが、会話を交わすことはなかった。互いに自分の正面を向いて歩いていた。
「失礼します」
徹は一礼してコーチの待つマッサージ部屋に入った。
徹も和也と同じマッサージを受けているが、うめき声一つ漏らさず涼しい顔をしている。
「なぁ徹。もう少し肩の力を抜け」
「はぁ、別に我慢してるつもりはないっすけど」
「そうじゃない、走りについてだ。お前はいい足を持っとる。あとは心だ。何にムキになっとるか知らんが、試合では自分の走りだけに集中しろ」
「……はい」
言葉上はコーチの指示に従った徹だが、内心レースのことより和也をどう陥れるかの方が重要だった。和也の存在を認めてしまえば、自分の10年が途端にむなしくなる。徹の虚栄心は善悪を思考回路から外してしまうほど膨れ上がっていた。
大会前日は各自無理のない範囲での自主練となり、日付はついに大会当日となった。
東海大会の会場は年々変わり、今年は愛知県の瑞穂競技場が決戦の舞台だ。東海大会では全種目に予選と決勝が存在する。長距離種目は予選と決勝を二日に分けて行うことが多いのだが、短距離種目は一日の内に予選と決勝が行われる。100mの予選は8組あり、各組の1位が決勝に進める。和也は1組、徹は3組だった。
「オンユアマークス、セッツ――」
パァン!というピストルの合図で1組の走者が走り出した。
「久石せんぱーい!」
「いけいけー!」
観覧席にる部活のメンバーは出せる最大限の声援を送っていた。結果は無事1着。スタートからフィニッシュまで和也は滑らかな走りを見せた。
続いて2組がスタートの準備をする。
「あれ福井の星野だよな」
「ああ、国際大会にも出てた優勝候補だ」
「それもインターハイのな」
「5組には愛知の東郷もいるんだろ? 先輩たちインターハイいけるかな」
「決勝3着までに入ればいいけど、星野と東郷で2枠は埋まってるからなぁ」
「じゃあどっちか一人しか行けないのかよ⁉」
「しーっ! もう始まるよ!」
ピストルの合図で2組の走者が走り出す。1着は星野、タイムは10秒98と好記録だ。
次いで3組がスターティングブロックを調整する。
「徹先輩って、いつもどう応援していいのか迷うよな」
「でかい声だすとキレられそうだしな」
「かといって応援しないと、それはそれでブチギレそう」
「たしかに」
「君たち? スタートの前は静かにしようね?」
普段は穏便な女子マネージャーが、いまは鬼すら尻込む気配を醸し出している。
「オンユアマークス、セッツ――」
少しの間の後、ピストルの合図が鳴らされた。部員たちは、徹の気に触れない程度のボリュームで、「いけー」「がんばれー」と声援を送った。
結果は徹が着差コンマ02秒で1着を勝ち取った。コーチの口からは「あいつ……」と癇癪が漏れ出ていたが、気づいたものは誰もいない。
和也と徹は各自クールダウンを済ませ、軽く昼食を取り、夕時の決勝に向けて準備を始めていた。選手用の待機ブロックは各学校別に分けられており、徹は簡単に和也の持ち物を漁ることが出来た。和也が競技場の外でアップをしているあいだ、徹は和也の試合用スパイクを持ち去り、人目に隠れてスパイクネジを緩め始めた。誰にもバレないまま両足すべてのネジを緩め、和也のバックに戻しておく。
決勝の15分前、選手の点呼が行われた。和也や徹のほかに、星野や東郷など強者揃いの決勝戦になっていた。和也はいよいよだと、高揚感をセーブしつつも楽しくてたまらなかった。
点呼が終わると各自待機ブロックに戻り、スパイクに履き替えてスターティングブロックの調整に入っていく。和也も周りと同じくスパイクに履き替えたのだが、地面を踏んだ瞬間ぐらつく違和感を覚えた。
「お前それネジ緩んでんじゃねぇの?」
「あ、ほんとだ。ネジ回し、ネジ回し……あれ? ない」
「なにやってんだよ。ほら、俺の使え。先行ってるからそこら辺置いといてくれ」
「ありがとう、徹」
徹はネジ回しを渡すとそのままスタートの準備に入った。
(ざまぁねえな。あのネジ回しはとっくの昔に壊れてんだよ。ネジゆるゆるのまま走りやがれチビ野郎)
和也はスタート1分前になってようやく競技場内に現れた。
「ネジ直ったのかよ?」
徹が嫌らしい目つきで問いかける。
「うん、直ったよ」
しかし想像していた答えとは大きく異なり、徹はその場をたじろいだ。
決勝戦スタートのアナウンスが流れる。周りの選手がそれぞれルーティンなどで緊張を解いてる中、徹の心境は雨風乱れる嵐のように荒れていた。
(なんで⁉ なんであいつは直せたんだよ⁉ あいつのネジ回しは俺のカバンの中だぞ⁉ まさかあいつ俺のこと疑って……)
「オンユアマークス」
スタート準備の合図がかかる。
(ふざけんな! 勝つのは俺だ、あんなやつに負けるはずがねぇ!)
「セッツ――」
パァン!と同時に各選手スタートダッシュを切った。しかし徹はコンマ数秒出遅れてしまう。
(くっそ!)
先頭を走るのはスタートが有利なピッチ型の和也。次いで星野と東郷が追う。和也の脚回転はどんどん速くなるが、後ろの星野と東郷も脚回転と一歩の幅が大きくなり、ゴール手前10mで抜かれてしまう。それでも懸命に腕を振り最大限の全力を出し尽くす。3着以降は混戦のままゴールを迎えた。
「はぁ、はぁ、はぁ、どうだ」
しかしこの場で既に和也が徹に勝っていたことは明白だった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
着順結果が発表される。
「第52回東海大会男子100m決勝、1着――星野連、2着――東郷明尚、3着――」
西条高校陸上部は全員手を組みひたすら願う。
「3着――久石和也」
「よっしゃあああああああああああ」
和也が両腕を上げガッツポーズする。部員たちも互いに抱き合い歓喜の叫びをあげていた。
「8着――秋山徹、以上男子100m決勝でした」
徹の着順を聞いていたのは、徹以外誰もいなかった。ゴールラインの傍で項垂れている徹に和也が歩み寄る。
「徹、なんであんなことしたんだ」
「はぁ? なんのことだよ」
和也が徹の襟元をぐっと掴み上げる。
「なんでお前は正々堂々と戦わなかった! なんで俺と本気で戦おうとしなかったんだ!」
「うるせぇなぁ! お前に負けることだけは何に懸けても許せなかったんだよ!」
「だからって、やっていいことと悪いことの判別ぐらいつくだろ!」
和也は一度大きく息を吸って叫んだ。
「これでお前が勝ったとしても! それはお前にとって本当の勝利じゃないだろ! お前が重ねてきた10年は、お前が熱くなった陸上はこんなもんじゃないだろ!!!」
和也の一言に徹はハッとした。そしてこれまで歩んできた陸上人生、その光景一つ一つがよみがえる。そこに映るのは、勝って笑い、負けて泣き、悔しさを練習への活力に変え、再び勝って笑う自分の姿だった。
「くそ、くそくそくそくそぉぉぉぉぉおおおおお!」
「お前は俺にとって最高のライバルだ。それはこれからも変わらない。俺はインターハイに行く。でもお前がいないといまいち乗り切れない」
「なにいってるんだお前」
「だから、一緒にインターハイにいこう」
「なっ⁉」
「リレーに出よう。リレーで一緒にインターハイに行くんだ」
和也の目は真剣そのものだった。徹と一緒にインターハイに行きたい、その熱意が瞳の奥に宿っている。
「あああくそ! 分かったよ! 出てやるやってやる! お前だけインターハイ行くなんてぜってぇ許さねぇ!」
「ああ! お前も一緒に来るんだ!」
翌日の4×100mリレーでは、当初の走る予定であった2年生に変わり、和也が3走、徹がアンカーを務め、西条高校は見事1位に輝きインターハイ出場を果たしたのである。
5分で読める物語『ランナーズハイ』 あお @aoaomidori
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