Side-A 12ー1

「じゃ、また。連絡するよ」

「うん、私もする。またね」

 手を振りあい、智偉は紗月に背を向けて歩きだした。

(紗月、きれいになってたな。筒井くん、か)

『智偉くん、けっこう辛辣』

『智偉くん、意外と失礼ね』

 紗月の言葉に重なって別の声がよみがえる。最後に見た優しい笑顔が目の前に浮かんだ。

 ――本当は、みんなほっとしているんです。

 出会ったばかりの頃、紗月は真面目で几帳面で、それがゆえにどこか自分から小さく縮こまっていっているような印象だった。でも今は少し雰囲気が変わっていたように思う。いい方向に力がぬけてのびのびと生きられるようになったのはきっと彼のおかげで、彼は不器用ながらも時間をかけて、決して揺らがないものをひとつずつ紗月と自分のあいだに築きあげていったのだろう。彼のことが好きだと言った紗月はあの頃とは見違えるほど凛々しかった。恋は人を変えるのだ――宇宙の外側を見るよりドノヴァンといたいのだと言ったあのときのように。

 二、三歩歩いて立ち止まり、智偉は空を見上げた。

 宇宙の外側。万物の起源のように神々しく光る水とそれが消えたあとの暗闇、それは忘れていたはずなのに、智偉の今の人生にはっきりと影響を及ぼしていた。

 そして、木漏れ日の中で微笑んでいた彼女――


「……じゃ、行くよ」

 智偉が『間』の扉を開けた。

「智偉様」

 智偉が振り返った。

「好きです」

 智偉はデイを見つめている。

「ずっと前から、智偉様がアトラスにいらっしゃる前から、智偉様のことが好きでした。お会いできて幸せでした。どうか、お元気で」

 デイが深く頭をさげ、智偉は小さく手を振って『間』に入っていった。扉が閉まる。

 やがてデイがゆっくりと体を起こした。大粒の涙がぼろぼろこぼれている。紗月の肩に顔をうずめ、押し殺した泣き声が蝋燭ろうそくのともるせまい空間に響いた。

「私、目がいいんです」

 しばらくののち、並んで階段に腰をおろし、デイがぽつりとつぶやいた。

「とても視力が強くて……これはそれをおさえるための眼鏡なんです」

 うん、でもそれがどういう関係が、と言いかけて紗月ははっとした。目がいいって、まさか――デイが小さく頷いた。


 自分は人より目がいいらしいとデイが気づいたのは物心ついてしばらくたってからだった。スープに浮かぶパセリの断面、王宮の外壁のてっぺんについている砂粒や上空の雲が揺れて気体になる様子、その向こうに現れる知らない星の風景、そういったものは自分以外の人には見えていなかったのだ。

 あまり見えすぎるのも生活に支障をきたす、とたまに会いにきてくれる町はずれの時計店のギルリッソが見え方を制限する特別な眼鏡をつくってくれたが、調理場の手伝いが終わって時間ができたとき、デイはよくそれをはずして空を見上げた。暮らしている王宮にはほかに子供がおらず、女王様と王様のために「本当に働いている」大人たちのじゃまをするのは悪い気がしたのだ。アトラスは常に宇宙を移ろい、同じ風景は二度は現れない。どれほど見ていても見飽きることはなかった。

 十二歳になったばかりのある夜、デイは寝る前に外の空気を吸おうと中庭に出た。何度か見たことのある青い星が頭上に大きく浮かんでいる。地球という名で、そこに住む人々がときどき『間』を通ってこちらにやってくるらしい。デイは眼鏡をはずし、青く息づく水の玉のようなその星を見上げた。

 その瞬間少年の姿が目に飛びこんできた。デイより少し年上くらいの少年だった。彼はまっすぐこちらを見ていた――目が合った。

 デイはとっさに眼鏡をかけた。しかしすぐに見えているのは自分のほうだけだと気づき、またはずした。しかし少年の姿はもうそこにはなかった。

 それからというもの、デイは暇さえあれば空を見上げた。頭上の星は毎晩変わる。アトラスが地球に接近することも何度かあり、そのたびに眼鏡をはずして探した。しかしあの少年を見つけることはできず、それでもあの瞬間を忘れることもできず、ついにある日大臣を通して二人の王様に宿泊所の仕事をやらせてほしいと申し出た。肉体的にも精神的にも重労働であるうえ、何があるかわからない。年端もいかない少女がやる仕事ではないと初めは反対されたが、何度も願い出てようやくフィーレ女王の許しを得た。あの少年が来ると思っていたわけではない。それでもデイは心をこめて地球人を迎え、送り出した。

 ある日、また地球人が二人やってきたという連絡があった。先に目を覚ました少女が不安げな様子だったため、ひとまず話をしようとしていたところへ少年も目を覚ました。あの、という声に立ちあがり、デイは目を疑った――ベッドに起きあがってこちらを見つめていたのはまさしく、二年前一瞬にして自分の心を奪った黒髪の少年の、あの聡明な瞳だったからだ。

「この広い宇宙で出会えて、お話しできて、ふれていただくことさえできました。たとえほんの少しのあいだでも、今、もう智偉様の時間の中に私がいなくても、同じ場所で一緒にいられました。そのことだけで充分です。私にはこれ以上の幸せはありません」

 ――そう言って泣きながら笑ってたの。いつもにこにこしてたけど、そのときのデイ、まるで向日葵みたいだった。

 私、あのときはどうしてデイがそんなふうに笑えるのかわからなかったんだけど、今はわかる気がする。デイは智偉くんが地球に帰れたのが嬉しかったんだと思う。智偉くんのことが本当に、本当に好きだったから――


 林をぬけて、森をぬけて、遠くの月まで会いにいく。

『毎日形が違うのになんで昨日と同じ星だってわかるんだ?』

 アトラスに月は存在しない。

『ぼくとロボット』、あの絵本は地球人が描いたのだ。おそらくあの絵本が地球人に対するアトラス人の考え方を変えたのだ。デイはあのとき、作者が自分のあとに来るであろう同胞に向けたメッセージを一体どんな気持ちで智偉に読みきかせたのだろう。

 ――いつかきっとこうなると、いえ、誰かがこうしなければ終わらないとわかっていて、みんなただ見ていたんです。

 森の小屋でふたつの体のすきまにぽとりとしずくを落とすようにつぶやいたデイ。

 ――それなら、なぜキトリが犯罪者で私は違うのでしょう。ムールトリークが父親のそばにいたことが罪になるならば、私が何もしなかったことも同じ罪であるはずです。

 ――それでも、きっと私は老いて死ぬことができるんだと思います。あの日から一日ずつ流れている時間を、その時間を確実に生きてきたことを、体が感じていますから。

 森の中で二人でお弁当を食べたとき、初めて智偉はデイがそれまでずっと一人で食事をしていたことに気づいた。それまで智偉にとって彼女は単なるお手伝いさんで、自分たちのためにいろいろしてくれるのは仕事だからで、それが当然だと思っていた。

 会えるはずのない智偉に会って、伝えられない想いをかかえたままそばにいて、つらくなかったはずがない。それでも彼女は常に微笑んでいた。

 ――デイは気づいてほしくなかったのかも。だから智偉くんが翻訳機をはずしてから言ったんじゃないかな。

 食事をつくり、身のまわりの世話をし、智偉のアトラスでの時間が幸せなものであるよう心を砕いてくれた。子供のような自分本位なふるまいを受け入れ、自分の罪悪感を直視する勇気のなかった智偉をあの日見た水のような笑顔で救ってくれた。それが彼女のゆるぎない愛情表現だったのだ。

「……デイ、君って人は」

 こんなに誰かに会いたいと思ったのは生まれて初めてだった。智偉は目をとじ、再びあふれそうになる涙をなんとか目の奥に追い返す。

(デイ)

(僕はこれからも毎日空を見上げるから、もう一度僕を見つけてくれ)

(僕が君のこと思い出したって気づいてくれ。お願いだ)

 涙がこぼれなくなるまで待ってから、智偉は駅に向かって再び歩きだした。



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