Side-A 12ー2

 孝太がガードレールから体を離した。

「……ごめんね。待っててくれてありがとう」

「誰?」と紗月を見ずにジーンズをはたく。

「昔の知り合い、かな」

「昔っていつだよ?」

「中三のとき」

「うちの中学じゃないよな?」

「違うよ」

「……好きだったとか?」

「まさか」

 好きだったのは別の人だ。あの空の、宇宙のどこかにいる、違う星の人。

「どういう知り合い?」

「……」

「だって、二人して泣いたり笑ったりして……平岡が泣いてたと思ったらあいつも泣いてるし、かと思えば笑ってるし。どういうつながりなんだよ?」

「……運命共同体なの」

 最後に耳のすぐそばで聴こえたドノヴァンの心臓の鼓動。

 いつか必ず地球に帰る、帰ったらアトラスのことは全部忘れる、そう決められているなら従わなければならない。どんなに夢のほうが幸せに思えたとしても、目覚めたくない、このままここにいたい、そう思ってはいけないのだ。叶わないなら望まなければいい。神様が気まぐれで与えてくれた楽しい夢なのだと割り切って、その後ろにある身を切られるような望みに自分が気づかないよう、必死で目をふせていた。

 それでもあのとき、一度だけ、帰りたくないと思った。

 しかし、そろそろお時間です、というデイの声に顔を上げると、ドノヴァンは目に涙を浮かべたまま微笑んで頷いてくれた――それを見たとき智偉のことが浮かんだ。智偉に会わなければならない。現実の世界に戻って、その球体の星のどこかに必ずいる彼を見つけ、自分の体に傷をつけてまで守ろうとしてくれた思い出を、デイが聞かせてくれた彼女の想いをその手に渡さなければならない。だから『間』に入ることができたのだ。

「……なんか、それ、好きだったって聞くよりちょっといやだな」

「ごめん。でも、本当にそうなの。私が生きていくために必要な人なの。だから、……わかって」

 しばらく黙っていたのち、孝太は紗月の手をぐいっと握った。中学、高校と野球部でキャッチャーをしていた孝太の手は大きく、温かかった。

「わかった、努力するよ。ちょっと時間かかるかもしれないけど」

「……ありがと」

 いいって、とぶっきらぼうに言い歩きだす。紗月はグレーのパーカーに包まれた肩に頭をのせて目をとじた。

 あのときは見えなかったけれど、ドノヴァンも同じだったのかもしれない。大きな柱時計のある家、「真面目な」母親、これで明日も頑張れる、という何気ない口ぐせ。飄々と、のんびりと、いたずらっぽく笑う陰できっと人知れず葛藤していたのだろう。それでもやっぱりひとりではつらくて、ありのままの自分をすっぽり包んでくれる毛布がほしくて、だから二人は宇宙のどこかでおたがいを見つけてその手を握りあったのだ。

(ドノヴァン)

『でもあんまり特別な理由はない気がするなあ。たぶん、』

 ふいにつないでいた手に力がこめられた。正確に組み合わせられた時計の歯車のように、二人の手のすきまとくぼみがぴったり埋まった。

 高校三年生の夏、暑い日差しが照りつける野球場で、紗月は孝太の学校の生徒たちから少し離れたところに座っていた。負けたら俺の野球人生は終わりだから、その前に一度でいい、観にきてほしいと何日か前の晩に電話で言われたのだ。大げさなと笑えないほどの迫力に断れず観にいったが、結果的にその試合では孝太の野球人生は終わりにならなかった。試合終了のサイレンと応援団の大歓声の中、選手たちがフェンスの前に走ってくる。キャッチャーマスクをかかえた孝太が観客席をぐるっと見回した。ぴたりと目が合い、孝太はまっすぐ紗月を指さした。

 告白されてから二年以上たっていたが、「感動してまいっちゃった」のはそのときだった。孝太が言うには「八回裏に逆転して九回表を三者三振におさえた直後だったからテンションがおかしくなっていた」そうで、その後チームメイトや応援団など目撃者たちから相当ひやかされたらしいのだが。

 九年前目が覚めたとき、そこに孝太がいた。中学三年生の夏休みが後半に差しかかっており、孝太は退院まで毎日のように(担任の教師や紗月の友達が来ているときは彼女たちが帰るまで上の階の談話室にひそんでいてから)病室にやってきたし、退院して学校に戻ってからは、放課後紗月が受けていた補習が終わるのを図書室で待っていたりした。

 でも本当はその前からそこにいたのだ。事故の直後から学校や部活の合間をぬって病院に通い、毎日時間の許すかぎり紗月の枕もとにいたらしい。先日孝太が実家に挨拶に訪れ、初めて紗月はそのことを知った。孝太は目が覚めたときに居合わせたという責任感や意地からそばにいたのではなく、紗月がアトラスにいたあいだからずっと、いつになるかもわからないその瞬間を誰よりも近くで待っていてくれたのだ。

 ――たぶん、初めから決まってたんじゃないかな。何よりも、誰よりも、俺はそれを宇宙で一番好きになるって。

 まぶしそうに細くなった褐色の目――

(ドノヴァン)

 儚い一瞬とわかっていても、わかっていたから、一緒にいたかった。誰かと一緒にいたいと心から望むことの幸せを、その相手と同じ気持ちで同じ場所にいることがどれほどの奇跡かを、大好きな人が教えてくれた。

(ドノヴァン)

 今までも、これからも、孝太はその大きな温かい手で一生懸命紗月を愛し、まっすぐな強さで紗月の手を握ってくれる。だから紗月もその手を、ありのままの自分を誰よりも必要とし、この宇宙すべてを自分の居場所にしてくれる孝太の手を決して離さない。生まれて初めて好きになった人があふれるほどの優しさであのときそうしてくれたように、この先何があっても今度は自分が迷うことなく孝太に手を伸ばし、ここからずっと二人で歩いていくのだ。

(私、ちゃんと幸せになってるよ)

 出会えて、幸せだった。

(だから、どうか)

 彼が彼の左手を握ってくれる人と出会えていますように。どうか、

(――あなたも幸せになっていますように)

『約束だよ』

 涙は一滴だけ落ちた。懐かしさより恋しさより、思い出せたことが心の底から嬉しかった。

「結婚しような」

「……うん」

「ずっと一緒にいような」

「うん」

「俺、おまえのこと好きだからな。……紗月」

「……私も好きだよ、孝太。宇宙で一番」

「なんだよ、珍しいな」と孝太が目をむく。その表情につい吹きだすと、孝太はますますぶっきらぼうな早口で「だっておまえ、俺に好きだなんてめったに言わないじゃん。いつもありがとうとか私もとか言うだけで」とつけくわえた。

「言っちゃだめ?」

「そんなこと言ってないだろ。――いいんだけどさ。ちょっとびっくりしただけ」

「この広い宇宙で好きな人と一緒にいられるのは本当に奇跡みたいなことなんだって、思い出したの」

 孝太は目を丸くし、「あ、そう」と照れくさそうにつぶやいた。

「でも、宇宙で一番って。大げさだろ」

「そう? じゃ地球で一番くらいにしとく?」

「……いや」

「日本で一番、いや、東京で一番?」

「いいよ、宇宙で一番で」

 紗月が笑うと孝太もつられて笑いだした。


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