9-6
目が覚めると部屋の中はぼんやり明るくなっていた。
すぐ横にドノヴァンの寝顔がある。まだ夢の中でありますように、と思ったのも束の間、まぶたがふと開き、大事な宝物がいつもの場所にあることを確認したかのように褐色の瞳がふわりとほどけた。
「おはよ」
枕もとの時計は六時を指している。
「これ、ギルリッソさんの店の?」
「うん。借りたの、ここに……来たときに」
「俺たちが初めて会ったときだよね」
薄暗い店内に流れこんできた外の空気と紗月をかかえた力強い腕。冷たい水、背中をさすってくれた温かい手のひら、昨日のことのようによみがえるあの瞬間が本当に昨日のことだったら。あの瞬間からここまでをもう一度くり返すことができたら――
「俺、一回帰るね」
「……え」
「これじゃさすがにみっともないからさ」とドノヴァンがしわくちゃのシャツを見下ろして苦笑した。
手をつないで階段を下りる。ガチャン、と玄関のドアが開いた。入ってきたデイは階段の途中にいた二人を見てはっと足をとめたが、すぐに「おはようございます、紗月様、ドノヴァン」と頭をさげた。
「じゃ、紗月、またあとで」
「あ、バス停まで」
「だめだよ、そんな格好で外に出ちゃ。大丈夫、ちゃんと行くから。じゃ、あとでね」
「ドノヴァン、紗月様の迎えはこちらに九時に来ます。王宮に着くのは十時頃かと」
ドノヴァンが振り返って微笑んだ。
「わかった。ありがとう、デイ」
パタン、とドアが閉まった。
デイの手が背中にふれ、だいじょうぶ、と自分の声が聞こえた。
「……では、朝食の準備を致します。できましたらお呼びします」
デイが泣きそうな顔で微笑んで一礼した。
朝食を食べ、紺色のセーラー服に着替える。デイはきわめて事務的に丁寧に最後の確認をした。おそらくいつもそのようにしてきたのだろう――そのうちの一回であった昨日も。
机の上の画用紙をくるくると丸めて赤いリボンを結び、絵本と一緒に鞄に入れる。ドアを出る前に振り返り、紗月は目をとじた。この部屋ですごした日々すべて、忘れてしまう前に閉じこめて、埋めこんで、自分の一部にしてしまいたい。仮住まいだった小さな空間はいつのまにか昨晩の星空のようにきらきらと輝く思い出でいっぱいになっていた。
「紗月様、昨日はありがとうございました」
馬車が動きだしてからデイが小さな声で言った。
「私が智偉様にお伝えしたかったことを言葉にできたのは、紗月様が背中を押してくださったおかげです。本当にありがとうございました」
馬車はのんびりと、しかし確実に進んでいく。
「紗月様は、ドノヴァンとすごしたこと、後悔されていませんか?」
「してないよ。だって……すごく幸せだったから。本当に、夢みたいだった」
強く握った手にデイの手が重なった。
「ドノヴァンもきっと同じように思っています。夢のように幸せな時間だった、と」
(夢……)
ふいにぽとん、と小さなしずくが胸の中に落ち、ゆっくりと体の隅々にまで広がった。
紗月の夢はもうすぐ終わる。でもドノヴァンの現実は終わらない。二人ですごした時間はまちがいなくここにあって、ドノヴァンはこれからもその続きを生きていくのだ。
(――なら、私は)
窓の外を見なれた景色が流れていく。今日もいい天気だった。
「紗月!」
今朝も多くの人が行きかう中、歩いていく紗月にルンゲが真っ先に気づき、一直線に駆けよってきた。
「紗月、毎日遊んでくれてありがと」
「私こそ、ルンゲが一緒に帰ろうって言ってくれるの嬉しかったよ。ありがとね」と渾身の力で抱きついてくる小さな頭をなで、紗月は鞄から『ぼくとロボット』を取りだした。
「これも、貸してくれてありがとう。素敵なお話だった」
気の強そうな目にみるみる涙がわきあがったが、「元気でね、紗月」ともう一度紗月のおなかに顔を押しつけ、ルンゲはすぐに体を離した。「あれ、もういいのか?」と後ろでドネルが拍子抜けしたような声を出す。
「うん。紗月がバイバイしたいのあたしだけじゃないから」
「……おまえ、大人になったなあ」
初対面の相手を見るかのようなドネルの表情に、とたんにルンゲが目を輝かせた。
「ほんと⁉ じゃあ」
「キスはしねえぞ」
「なんで⁉ 大人になったらしてくれるって言ったのに」
「あのな、そういう意味の大人じゃねえよ。本当に結婚できるくらいの年になったらってことだよ」
「そんなのずるい!」
「ずるくねえよ! だいたいな、ほかのやつらの見てる前でそういうことはふつうしねえの!」
「でも紗月とドニーは昨日してたもん!」
「ルっ、ンゲ!」
思わぬ飛び火に紗月が飛びあがると同時にドノヴァンが笑いだした。「おまえらな……頼むから、そういうことは誰もいないところでやってくれ。子供に悪影響を及ぼすだろうが」とドネルが肩をがっくり落とす。「あれ? ドネルにそんなこと言われるとは心外だなあ」とドノヴァンが紗月にむかってひょいと眉を上げた。
「は? なんでだよ、心外って」
「だって最初にキスしたのはドネルだろ。ルンゲに、俺たちの見てる前でさ。しかも白昼堂々大声でプロポーズまでして」
なっ、と喉につまったような声をあげ、今度はドネルが真っ赤になった。
「あれはしょうがねえだろ! だいたいキスったってほっぺたで」
「キスはキスだろ。俺たちはドネルの影響を受けちゃったんだよ。ね、紗月」
こらえきれず、紗月は笑いだした。後ろでデイも口もとを押さえている。
「おまえら……デイまで! 笑うな!」
ドネルが駆けだし、少し離れたところで耳を押さえてしゃがみこむ。笑い声が丸めた背中に泡のようにはじけた。
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