9-5
「……えっ? 下って……二階?」
「違う違う、下、外。地面に毛布しいてさ、外で寝よう」
ドノヴァンは毛布と掛け布団をかかえあげ、部屋の入口で振り返った。
「紗月は枕持ってきて!」
足音が階段を駆けおりていき、紗月は反射的に枕をつかんだ。今度は何が始まるのか、わけがわからないまま階段を下りる足がどんどん速くなる。裸足のまま息を切らして外に飛びだすと、地面に敷いた毛布の上からドノヴァンがこちらに向かって手を伸ばした。
「おいで」
勢いよく、ほとんどドノヴァンの腕の中に転がりこむように紗月は地面に寝転がった。
「――わあ……!」
頭上は一面の星だった。部屋の窓から見ていたのとは全然違う。上も下も右も左もわからなくなるくらい、目の前すべてに星が瞬いている。
「……怖い」
「なにが?」
この星空が。広すぎて自分が見えなくなってしまいそうで。
地球に帰るのが。生きていくのが。自分はちっぽけで、醜くて、ひとりではこの宇宙におしつぶされてしまいそうで――
ふわりと手首の先が包みこまれた。
目が合った。優しく微笑んだその瞳はいつもと同じ、褐色の宝石のような姿だった。
ふと背中の地面が消えた気がした。
『そんなふうだからあなたはだめなのよ』
――違う。
『こっちに迷惑かけないで』
――違う。
――愛してもらえた。
体ごと自分が軽くなる。
――ちっぽけで醜い、在りのままの自分を。
体の中から、心の中から、泥も破片も傷もすべて消え、
――ほかの誰でもない、本当の自分自身を。
今度こそ、満天の星空の中に浮かびあがる。
圧倒的な解放感が押しよせてきた。
自分は今、宇宙を自由に漂う星にいる。昨日いたところとはまったく違う場所で、昨日見た空とはまったく違う星空を見ている。そんなことができるなら、生きるということがこんなに大きくて自由なことなら、
『逆さまだけど、宇宙はどっちでも変わんないよ』
――なら、下を向いて足もとの空を見上げることだってできる。自分を嫌う必要なんてない、在りのままの自分で生きていい、生きていける。どんなにこの宇宙が広くても、望めば自分の力でどこまでも行ける――たった一人でも、自分がいるだけで幸せだと言ってくれる人がいれば。どんなときも迷わずつかまえてくれた、たしかな道しるべのようなこの手を握っていれば。
「紗月、好きだよ」
だしぬけに柔らかな声がした。
「……え」
「そういえばちゃんと言ったことなかったと思ってさ。好きだよ」
心臓が脈打っている。小さく、ゆっくりと規則正しく、それはまるで――
「紗月は?」
「……うん」
「うん、なに?」
「私も」
「私も、なに?」
「私も好き」
「誰が?」
「……ドノヴァンが好き」
生まれて初めての告白は蛇口から落ちる最初の一滴のように、二人きりの宇宙にぽとりと落ちた。
次の瞬間、そのしずくごと思いきり抱きしめられた。
「紗月、好きだよ。大好き。紗月に出会えて幸せだった。ありがとう。俺に会いにきてくれてありがとう」
耳もとで聴こえた声はこれまでに聞いたどんな音よりも優しく、たしかな響きを持っていた――まるで規則正しく時を刻む大きな柱時計の音のように。
一緒にすごした一秒一秒が涙となってあふれだす。
宇宙は広く、どれほど広いのか想像することもできないくらい広く、それでも今二人は同じ場所にいた。数えきれないほどの星の中からおたがいを見つけ、流れ星のような一瞬を手をつないで駆けぬけてこの場所にたどりついた。
このためだったんだ、と思った。ドノヴァンに出会うために、手を握ってもらうために、抱きしめてもらうためにアトラスに来た。
幸せだった。まちがいなく、今まで生きてきた中で一番幸せな瞬間だった。紗月もドノヴァンの背中に手をまわし、首筋に顔を押しつけ、力いっぱい抱きしめた。
「やっぱりちょっと痛いよね」
しばらくしてそんなつぶやきが聞こえた。体の下に小石を感じると同時に涙が引っこみ、台無し、でもしょうがない、と笑いながら二人は寝具をかかえて部屋に戻った。
「――ドノヴァン、一緒に寝よ」
気づいたときには言い終わっていた。床に毛布を広げていたドノヴァンの手がとまる。
「え、でも」
「寝るだけ、でも、よかったら」
ドノヴァンが泣くのを我慢するかのように顔をしかめた。
「手はつないでてもいい?」
「うん」
ベッドの中に二人ぶんの体温が広がる。そっと手がつながり、「ありがと」と唇がまぶたにふれた。目を上げるとドノヴァンはしまった、というような顔になった。
「あ、ごめん、キスもしちゃった」
一拍おいて紗月の口からこぼれたのはふふ、という笑い声だった。ドノヴァンがほっとしたように表情をくずした。
「ごめんついでに、もう一回」
今度は唇に落ちてきた。形のよい眉がひょいと上がる。
「許してくれる?」
「うん。許してあげる」
笑い声が重なった。
目をとじると意識が急速に遠のいていく。
「紗月、愛してるよ」
耳のすぐそばでたしかな声が聞こえた。
(――私も)
返事をする前に、眠りに落ちた。
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