9-3
宿泊所の中は外と変わらず暗く、今朝までのことがすべて夢だったかのようにひっそりとしていた。
真っ暗な廊下を通りぬけ、手探りで電気をつけたとたん、がらんとした食堂が夜の中に煌々と浮かびあがった。突然目の前に現れた現実のよそよそしさに紗月は思わず目をしばたたき――
「紗月、腹へってない?」
「――ふぇっ⁉」
「夕飯。俺、ちょっと腹へっちゃった」とドノヴァンがのんびりと振り向いた。
「……え、あんなに食べたのに?」
「それ以上に歩いたもん。何かちょっともらってもいいかなあ」
「あ……待ってて。冷蔵庫に何かあるかも」
手を離して調理場に入ったとたん力がぬけ、紗月はずるずるとその場にしゃがみこみ息をついた。
冷蔵庫の扉を開けると冷気が顔をなでた。デイがとっておいてくれたのだろう、白い陶器のボウルに今朝の朝食の野菜と牛肉のスープが入っている。ひと口大に切られたその牛肉は柔らかく煮込まれてはいたが、今朝食べたときから紗月はそれがもともと野菜のみで成立するスープに急遽追加されたものであるような気がしていた。朝の柔らかな青空の下、宿泊所の玄関に智偉と並んで立ち、自分とドノヴァンを見送っていたデイ――強く目をとじて頭を振り、紗月はそのボウルをもとの場所に戻すと、かわりに行儀よく並んだ卵の中から一番大きなものをひとつと薄切りのベーコンを手にとった。熱したフライパンに落としたベーコンがジュッ、と思いがけないほど大きな音をたてる。「紗月? どうしたの?」とドノヴァンが驚いたように調理場の入口に現れた。
「あ、あの、ベーコンエッグつくろうと思って」
ドノヴァンの目が丸くなり、すぐにくしゃくしゃにくずれた。
ベーコンエッグと食パンを一緒に皿にのせるとまるで朝食のようだったが、ドノヴァンは「すごい、うまそう」と顔をほころばせ、ひと口ひと口味わうようにゆっくりと食べた。時計店の勝手口の前でサンドイッチを持っていた手がふと脳裏をよぎりかけ、紗月はもう一度目をとじてその幻影を振り払った。
窓辺に朝の花が飾ってある。
「そうだ、今朝、ありがとう。お花もらったのなんて初めてだから嬉しかった」
「ああ、あれね。よかった、喜んでもらえて」
かちゃん、かちゃん、とフォークが皿にあたる音がしばらく響いた。
「ね、紗月、ここでの一番の思い出ってなに?」
場違いなほど明るい声に顔を上げると、ドノヴァンはにこにこしていた。
不意打ちに扉を閉めるのがまにあわず――とたん、いろいろな風景が勢いよく胸の奥からあふれだしてきた。まるで津波のように、今日一日のこと、先程花火の最中に起きたこと。並んで歩く帰り道、バスの外から手を振る笑顔。金髪が風にそよぐ後ろ姿、広い背中と首筋、筋張った手の甲、細いけれどしっかりした鎖骨、温かい肌の感触、唇の感触――
「……えーと、やっぱりドネルのプロポーズかな」
「え、俺とのことじゃないの?」とドノヴァンが意外そうな声をあげた。
「うーん、俺は何かなあ。ルンゲの家からの帰りに手つないだこと、あ、やっぱり一緒に出かけたときに王宮の噴水のところでキスしたことかな? それともこのあいだの」
そこで宙を見上げていた視線をふと下げ、ドノヴァンが「あはは」と笑いだした。
「冗談だよ。いやあ、紗月は本当にすぐ赤くなるなあ……ごめんごめん、ほんとに冗談。もう言わない」
お茶は俺がやるね、と後ろ姿が飄々と調理場に消え、紗月はテーブルに頭をのせた。いつものドノヴァンだ――息をつくと同時にふっとまぶたを眠気にひっぱられ――
「――紗月、眠い?」
目を開けるとドノヴァンが顔をのぞきこんでいた。
「うん……ちょっと」
「疲れたよね、もう寝ようか。紗月、先にシャワー浴びてきなよ」
「ううん、大丈夫……お先にどうぞ」
「え、でも眠いんでしょ? 行ってきなよ。俺あとでいいから」
「大丈夫だよ。ドノヴァンはお客さんでしょ、お先にどうぞ」
「そう? あ、じゃ一緒に浴びる?」
「い……いっ⁉」
勢いよく起こした頭に「冗談だって」と大きな手のひらがふれる。いつもと同じはずのそのしぐさに今は心臓がはねあがり、「あ、あの、タオル持ってくる」と紗月は逃げるように食堂を出た。見ないようにしていた現実のもうひとつの側面が間近に迫っていることに、今になって頭の中が渦を巻きはじめる。やはりこんなことをしてはいけなかったのではないだろうか。ドノヴァンと二人きりでひと晩すごすなんて――
備品庫からバスタオルをとってなんとか食堂に戻ると、ドノヴァンが窓際の花瓶のそばで振り返った。
「ありがと。じゃ、お言葉に甘えて先に使わせてもらおうかな。あっそうだ、一緒に浴びる?」
「……浴びません」
「はは、だめか、つられてうんって言うかと思ったのにな。じゃ、お先に」
足音が廊下に消えるや否や紗月は椅子にくずれ落ち、テーブルに突っ伏した。
(どうしよう……)
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