8-5
紗月もいつも通りの一日をすごした。
自分でも不思議なことに、智偉と別れて教室に入り、一日が始まると、昨日とはまったく別の場所にいる気がした。かといって何も感じないわけではなく、いつのまにか日常になっていた些細なこと、なんとか読めるようになった教科書の文字や教室内の喧噪などがふとした瞬間にくっきりとした輪郭で鮮やかに浮かびあがる。それでも昨晩別れぎわにドノヴァンとした、一緒にいられる間は泣かないという約束(「俺も頑張るから。ここでは大事な約束をするときこうするんだよ」とドノヴァンは紗月の右手の小指を自分の唇にあてた。本当だろうかと半信半疑で見上げると「うそ。今俺がつくった」といたずらが見つかった子供のような後ろめたげな笑顔が返ってきた)には魔法のようなききめがあった。変わったのは場所ではなく自分なのだろう。胸の奥から――おそらく地球で言われていたところの「ネガティブ倉庫」から――どす黒いものをすべて出してしまったのだ。あんなに傷つけ、醜い姿を見せたのに、紗月の目をまっすぐ見て歩いてきてくれたドノヴァン、紗月の手を強く握った大きな手――もちろんいきなりまるっきり逆の性格になれたわけではないが、ドノヴァンのためなら何でもできるという気持ちに迷いはなかった。まるで最初からそういう役を演じていたかのように、最後まで演じきるのを自分自身に見せようとするかのように、いつも通りに一日をすごした。
三人で帰るのは今日が最後だったが、ルンゲはご機嫌だった。ドネルがお祭りの屋台を手伝っていいと言ったらしい。「あたしも一緒におみせやさんやるんだよ!」とルンゲは紗月の腕に抱きつき、飛びはねるように歩いた。
「紗月はお祭り行けるんでしょ? 絶対来てね!」
家に着くとすぐルンゲは中に駆けこんでいき、入れかわりにソフィアが出てきた。二人とも帰れることになってよかったわね、とソフィアは初めの日に宿泊所の部屋のドアをノックしたときと同じ笑顔で紗月の肩をなでた。
「ルンゲね、紗月ちゃんのこと、本当に大好きだったのよ。あの子のお姉ちゃんになってくれてありがとう」
右手にルンゲの手の感触が残っている。初めて一緒に帰った日、その小さな手を握ったとき紗月はアトラスで居場所を見つけた気がした。ルンゲに必要とされることで自分が救われていた――一瞬魔法がとけかけ、ぎゅっと胸が苦しくなったときルンゲが飛びだしてきた。
「紗月、絵描いたの。あげる」
差しだされた画用紙を見たとたん視界がぼやけた。
「紗月、大好き」
おなかのあたりにルンゲが抱きついたのを感じたが、よく見えなかった。
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