7-4

「――紗月!」

 誰かがドアをたたいている。ドノヴァン、と意識が飛びはねかけたがすぐ下りてきた。会えるのは昼すぎだ――それまでどうやって待てばいいのだろう。昨日の夕食のサラダがとてもおいしかったから、デイに時間がありそうだったらつくり方を教えてもらってサンドイッチと一緒に――

「紗月! 起きて!」

 叫んでいたのは智偉だった。

「雨が降ってるんだ。今宇宙の外側に接触してるんだって!」

 見にいかなきゃ、デイが準備してくれてるから紗月も急いで、僕先に下に行ってるから、智偉は紗月がドアを開けたとたん一方的にまくしたて、すごい勢いで階段を駆けおりていった。

「あ……うん」

 クローゼットを開けて服を手にとり、そこでようやく本当に目が覚めた。

 アトラスの先端はここからだいぶ離れていると以前デイが言っていた。今から行って昼までに帰ってくるのはまず無理だろう。

 ドノヴァン――きっとがっかりする。でも来られないようならそれでいいと前も言ってくれていたし、明日事情を話して謝れば――


 森に行くのはやめておくと言ったとたん、智偉はあわてたように口を押さえた。中のものが飛びだしてくる前にふきんを渡し、紗月は朝食の皿に目を落とす。

「いやでも、宇宙の外側だよ? こんなチャンスもう二度とないよ」

「うん、でも、私は宇宙の外側を見るよりドノヴァンといたいから。一緒にいられる間は思いっきり精一杯一緒にいるって決めたの」

 沈黙が流れ、紗月はぎゅっと目をとじた。あきれられても軽蔑されても、今日はドノヴァンに会いたい。がっかりさせたくない、そしてそれ以上に自分が一緒にいたいのだ。

「そっか」

 顔を上げると智偉は真面目な顔で紗月を見ていた。

「そうだよな。わかった。じゃ、僕は行ってくるよ」

 ほっとして頷くと、智偉は一拍間をおいて小さく微笑んだ。

 智偉とデイがあわただしく出ていくのを見送り、紗月は調理場の丸椅子にたたんで置かれていたデイのエプロンを生成りのワンピースの上に着けた。この服は一番気に入っているのでなるべく汚したくない。デイが後片づけをまかせてくれたので、サンドイッチをつくるのはそのあとゆっくり、時間はまだまだある。ひとまず緊張と興奮で不規則にはずむ心臓を静めるべく深呼吸をした。


 昼すぎにバスの時刻に合わせて玄関のドアを開けると、そこにドノヴァンが――坂道を下ってバス停まで行き、三十分近くバスに揺られ、バスを降りて時計店まで歩き、一時になるまで待たなければ会えないはずのドノヴァンが――立っていた。頭の中がぽかんと空白になった紗月に、ハンカチをかぶったその顔が「やった、大成功」といたずらっぽくほころんだ。

「今日は早めに終わらせてもらったんだ。雨降ってるから、紗月が濡れて溶けちゃったら大変だと思ってさ」

「……あ、ごめん! 入って」と紗月は急いでドアを大きく開け、ドノヴァンを食堂へ案内した。

 備品庫からタオルをとってきて渡し、もう一度階段を駆けあがる。ベッドからはいできた毛布を後ろから肩にかけると、ドノヴァンが驚いたように振り返った。無造作にふいたせいで髪が四方八方を向いている。

「服、濡れてるよね。どうしよう、智偉くんの服借りる?」

「平気だよ、こんなのすぐ乾くから。それより」とドノヴァンが紗月の手をとった。

「紗月、手が冷たい。大丈夫?」

「あ、うん、なんか今日寒くて。でも大丈夫、それよりおなかすいたよね。今――」

 肩にかけたままだった鞄を開けようとうつむいた瞬間、視界がさっと薄暗くなった。

「だめだよ、女の子は体冷やしちゃ」

 毛布ごとドノヴァンの腕が紗月を包んだ。白いTシャツが頬にふれる。ほんとだもう乾いてる、と思ったが、それは自分の頬が一瞬でアイロンのように熱くなったからかもしれない。

「あ、あの、大丈夫、大丈夫だから」

「だーめ。おとなしくしなさい」

「……はい」

 よし、とドノヴァンが楽しげに紗月を抱えなおした。息が苦しいのは二人の体にはさまれた自分の腕がおなかを圧迫しているからだろうか。

「あ、大変だ、急に背中がものすごくかゆい。紗月、かいて」

「え? あ、うん……どこ?」

「えーとね、左? あと右も。それで右手と左手を交差して、こうぎゅうっと」

「……ドノヴァン?」

「ん?」と鼻歌のような声が返ってきた。

「……もう、はい、おしまい」

「えー、もう? 俺もこうしてるとあったかいんだ。ちょっとこのままでいちゃだめ?」

「あ、そっか……うん、じゃあ」

 密着したTシャツからほのかに雨の匂いが香る。時計店の匂いはしない。以前王宮の中庭に行ったときもそうだった。

(もしかして、わざわざ着替えてきてくれたのかな)

「紗月もかゆいとこあったらかいてあげるよ」

「……うん、でも、大丈夫。ありがと」

 体がむずむずと暖まっていく。今自分たちはてるてる坊主のような格好なのだろう。昔そんなことがあっただろうか。学校からの帰り道雨に降られ、家に入ると母親がバスタオルで包んで抱きしめてくれる――それともそんなのは単なる幻想だろうか。いつも自分で鍵を開けて家に入り、タオルも自分で出していたのだから。雨に濡れたときも、泣きたいときも。

 ――言いたいことがあるなら早く言って。お母さんだって暇じゃないんだから。

「……ドノヴァン、あったかい?」

「うん、あったかいよ。紗月は?」

 ――何言ってるの、あなたが学校休んだらお母さんも会社行けないじゃない。こっちに迷惑かけないで。

「……うん。私も」

 ――そんなふうだからあなたはだめなのよ。自分のことなんだから自分でなんとかしなさい。

「紗月って本当に俺の元気のもとだなあ。ポケットに入れて持ち歩きたいくらい」

 ――キトリはムールトリークを救いたかったのだと思いますし、ムールトリークは救われたはずです。二人ともきっと今頃次の人生を始めているのではないでしょうか。生も死も罰にならない、どこか別の場所で。

「ね、そうしちゃだめ? そしたら俺毎日もっと」

「ドノヴァン、私」このままここに――

 ドノヴァンが自分を見下ろしたのがわかった。いつも通りの声が出せるよう急いで深呼吸をし、紗月は顔を上げた。

「おなかすいちゃった。とりあえずお昼食べない?」

「……うーん、せっかくこうしてられる口実があるのに手放すのは惜しいけど、空腹には勝てないな。しょうがない」

 毛布ごと、二本の腕にわずかに力が入ったが、その腕はすぐに紗月を解放した。



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