6-10
森を出て建物をまわりこむとすぐ玄関の前に人影が見えた。心臓が大きくはね、躊躇する間もなく紗月は駆けだした。
「ドノヴァン! どうしたの?」
「やあ。ちょっと道に迷っちゃってさ」
ひょいと立ちあがった涼しい顔が、とたんにじわりとぼやけた。あわててうつむいて前髪をひっぱる頭を大きな手のひらがくしゃっとなでた。
「三人でどこ行ってたの?」
智偉とデイがドアを閉め、二人は改めて石段に腰をおろした。腕がふれあい、紗月の胸の奥がきゅっと音をたてる。
「――そうだったんだ、お疲れさま。大変だったんじゃない?」
「……ううん、全然。キトリさん、持ち物が少なかったからすぐ終わっちゃった」
少し間があき、とん、とドノヴァンの頭が肩にのった。
「ふぇっ⁉ な、なに? どうしたの?」
「紗月こそ。大丈夫?」
短い金髪がさわさわと首にふれる。
「なんか元気ないみたい。何かあった?」
「……ううん、大丈夫。ドノヴァンこそお疲れさま。修行どうだった?」
ドノヴァンは頭を起こして座り直した。今日は店の時計がひとつ止まっちゃってて、それを直すのをやらせてもらったんだ、一人で最初から最後まで。いきいきと語る声を自分の膝に頭をのせて聞いているうちに、さっきまでの高揚感は潮が引くように消えていき、紗月は強く目をとじた。まぶたの裏にがらんとした部屋や外に並ぶ家具や段ボール箱が現れる。ドノヴァンの声はそれらに圧迫され、押しつぶされ、跡形もなく暗闇に消えた。
しばらくしてドアの中からノックの音がした。顔をのぞかせた智偉は紗月が思わず笑うとつられたように小さく笑い、もうすぐ夕食だって、とだけ言ってドアを閉めた。
ドノヴァンは紗月の手を握り、のんびりと坂道を下っていく。
「……ドノヴァン、ひとつお願いがあるの」
「ん? なに?」
「私が帰ったら、私のこと忘れてほしいんだ」
ドノヴァンが腕時計をちらっと見下ろし、「すぐ来るかな」と道に目をやった。
夕闇の中、足元で白い花が揺れる。
「いいよ、わかった。そのかわり俺もひとつお願い」
「……なに?」
「帰っても俺のこと忘れないで」
貫くような眼差しだった。膝が震え、紗月はよろめきそうになって必死で目をそらした。
「それは、無理だよ」
「じゃ俺も無理」
手を握る力がぎゅっと強くなる。
「どうしてそんなこと言うの?」
「……もう二度と会えないなら、忘れるより忘れないほうがつらいんじゃないかと思ったの」
智偉とデイがキッチンで作業をしていたとき、紗月は家の裏にいた。
一度見かけただけだがきれいな人だった。身だしなみにも気を配っていたのだろう、棚の中の服はどれもきちんとたたんである。それを一枚ずつ出して箱に詰めながら、あの人が一番気に入っていた服はどれだったのだろうとふと思い――その瞬間「いなくなる」ということの意味がはっきりとわかり、頭から冷たい水をかけられたような気がした。
何も持っていけない。もう二度と会えない。
でも、自分は忘れることができるのだ。
なら本当につらいのはドノヴァンのほうではないだろうか。思い出を半分だけ抱え、もう半分は二度と形にならないことを知りながら一人で残され――
ドノヴァンは黙っていた。
しばらくして、「そんなことないよ」と静かな声が聞こえた。
「もう二度と会えなくても、紗月が俺のこと忘れてても、空を見上げれば宇宙のどこかに紗月がいる。それだけで俺は幸せだよ。今そう思うし、その日が来てもそう思う、と思う」
その日。いつか、必ず来る、その日――
「なんて、また勝手なこと言ってるよね、ごめん。お願い、泣かないで、紗月」
温かい手のひらが頬を包む。指先から金属の香りがした。
「……明日、時計屋さんお昼まで?」
「うん」
「じゃ、またお弁当持っていってもいい?」
――それでも。それなら。必ず来るなら。
「え? うん、もちろん」と微笑んだ口元はそのままに、ふとドノヴァンが目を細めた。
「え、なに?」
「いや、紗月から誘ってくれるの初めてだなって。これで明日も頑張れるなあと思ってさ。――あ、赤くなってる」
おかしそうな笑い声を聞きながら、思いきり、精一杯一緒にいよう、と紗月は思った。その日まで、ドノヴァンに少しでもたくさんの思い出を残すために。そしてそれは同時に自分のためでもあった。いなくなったあとで思い出してもらえるのは、見上げた空に思い浮かぶのが自分であってもらえるのは、きっと幸せなことだから――
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