第39話 報復


 夜の礼拝れいはいを終えて、レギア枢機卿すうききょうは自室へと戻ってきた。すでに秘書官によって寝酒ねざけの準備がされている。枢機卿は寝る前にブランデーをたしなむ習慣があった。ビシャスは庶民が一カ月働いても買えないような高級なブランデーの逸品いっぴんだ。

「他にご用はございますか?」

「もうよい、下がれ」

 手を振って秘書官を下がらせたレギアはさっそくグラスに口を付けた。神の家とされる神殿も、一皮むけば欲望が渦巻く人間の世界である。そんな中で権力者であり続けることはレギアにも相当なプレッシャーを与えてくるのだ。だが日付も変わり、時刻はもう深夜だ。あとはベッドに入って休むだけだと考えると、レギアもようやくリラックスできた。

 鼻を抜けていくブランデーの芳香を楽しみながら、レギアは軽く目を閉じてこめかみを揉んだ。そうして目の疲れを癒してから、再び見開いたとき、思いがけず目の前に人が立っているのに気が付いた。彼は驚きのあまりグラスを取り落としてしまう。薄いガラスは床にぶつかり粉々に割れてしまった。

「あーあ、せっかくのビシャスがもったいないですね」

 のんびりとした口調とは裏腹に、神官服の男は刺すような視線でレギアを見下ろしていた。

「なっ……君はクロウ司祭……」

「お久しぶりです、レギア枢機卿」

「だ、誰かっ!!」

 レギアは大声を上げたが、扉の外に立つ護衛はどういうわけか誰も部屋に入ってこない。

「音響結界を張りました。この部屋の音は一切外部に漏れません」

 無表情のままクロードはレギアを見つめる。

「どういうことだね? 君はまだ任務の途中のはずだが」

「いえ、任務は完遂しました。聖百合十字騎士団は無事にアスタルテ城塞に到着しております」

「そうか……その報告のために……」

「まあ、それだけじゃありませんけどね。あなたにも心当たりはあるでしょう?」

「何を言っているのか私には……」

「セルゲス司祭は死にましたよ」

 クロードの言葉にレギアは驚愕きょうがくした。

「セルゲス司祭が? いったいどうして?」

「私が殺しました」

「バカな! セルゲスを倒しただと!?」

 レギアはクロードの力を見誤っていた。退魔庁一の実力を誇るセルゲスが、まさかクロードにおくれを取るとは思ってもみなかったのだ。いや、クロードはずっと真の実力を隠して生きてきている。神殿内でクロードの本当の力を知っているのは誰もいない。唯一、その片鱗を知るのはリーンだけなのだ。レギアのクロードに対する評価が低かったとしても、それは仕方のないことだった。

「理由をお聞きにならないのですか?」

 レギアは絞り出すように声を出した。

「どうして君はセルゲス司祭を殺したのだ?」

「もちろん、ミリア・イルモアをオスマルテ帝国に差し出そうとしたからですよ」

「それは……」

「貴方が裏で糸を引いていたこともわかっている」

「それは誤解だ!」

 レギアはまだこの場を何とか切り抜けられると思っているようだ。

「リーンがすべてを話してくれました。今さら言い訳は聞きたくありませんな」

「違う、君はリーン・リーンに騙されているのだ!」

「見苦しいですよ。罪を認めたらどうなのですか?」

 クロードの態度に、レギアも開き直った。

「認めよう。その通りだ、私がオスマルテ帝国と取引した。だが、それもこれもガイア法国のためを思ってのことなのだ」

「そんなことは関係ありませんよ。貴方は俺を……イシュタル・イルモアを敵に回したのだ」

 レギアはじっとクロードを見つめた。その表情にはいつものふてぶてしさが戻っている。

「それで、君は何をしに来た? まさか、恨み言うらみごとを言うためだけに来たわけではないのだろう?」

 レギアは完全に勘違いしていた。特殊部隊の退魔師ごときが高位聖職者たる自分をどうこうできるわけがない。どうせ今回のことでクレームを付けて、何らかの便宜べんぎを図らせようとしているのだろうと。金か? それとも地位か? どちらでもくれてやる用意はある。だが、クロードの答えはレギアの予想外だった。

「いえ、その通り。恨み言を言うためにお待ちしていたのです」

「なんだと?」

「ええ、もう用事は終わっていますので……」

 クロードの昏い眼がレギアを覗き込む。

「いったい君は……」

 突然、レギアの胸に鋭い痛みが走った。

「ぐっ!」

「効いてきましたね」

「何を……した?」

「簡単なことです。先ほどのブランデーに毒を混ぜました。私が『カクテル』で調合した特別製ですので、絶対に検知不可能な毒です」

 レギアの顔が怒りに歪む。だがそれはすぐに、懇願こんがんの表情へと変わった。

「解毒薬はないのかね? あるのだろう? 頼む! 君の望みはなんでも叶えるから!」

 レギアがそう言うとクロードは少しだけ考える顔になった。そしておもむろにこう言った。

「この任務を成功させたら私をザカレロに転任させる約束でしたよね」

「もちろんそうだとも!」

「あれはキャンセルしてください。そのかわり聖百合十字騎士団付きの従軍神官にしてほしいのですがいかがでしょう?」

 突然の申し出だったが、レギアに拒否するという選択肢はない。

「わ、わかったから、解毒薬を」

「……」

 無言で促すと、レギアは胸を押さえながら紙とペンを取り、命令書を書きだした。

「あ、日付は一カ月前にしといてもらえますか? その方が都合がいいですから」

 言われたとおりにレギアは命令書を仕上げていく。最後に自分の印章を押して、完璧な命令書ができあがった。

「解毒薬を……」

「ちょっと確認しますよ。間違いがあるといけませんからね。どれどれ……」

 クロードは命令書に不備がないかを一つ一つ見ていく。彼がこんなに丁寧に命令書を確認するのは初めてのことだ。

「……いいようですね」

「では、解毒薬を」

 クロードはゆっくりと首を横に振った。

「それはできません。貴方はミリアを……、私の妹を敵に差し出した。今後もそうするかもしれない」

「神にかけて誓う、二度とあのようなことはしない」

 レギアはすがるような声を出したが、クロードは一顧いっこだにしない。

「残念ながら、貴方が何度も神に背いているのを知っているのです。信用なんてできるわけがないじゃなないですか」

「貴様っ! うぐっ……」

 クロードに掴みかかろうとしたレギアだったが、苦しみが一層強まり、そのまま床に倒れこんでしまった。

「もう残された時間も少ない。せいぜいご自分のためにお祈りください。貴方の祈りじゃ天国には行けそうもありませんが」

「おの……れ……」

「私に期待するのもやめてくださいね。私たちは二人とも罰当たりな神官なんですよ」

 クロードを睨みつけていたレギアの目から生気が抜けていった。誰の上にも死は平等に訪れる。数分前まで栄華を誇っていた枢機卿はもはやこの世になく、残されたのはただのむくろのみだ。クロードは闇に体を溶かし、枢機卿の執務室を後にした。


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